睦月・歳の神 |
年越しの晩の京は、何かを期待し待ち望むような活気に満ちていた。 白い息を吐きながら、野々内淳也はいつもと違う雰囲気を興味深く観察する。 少年は親の仕事の都合で、各地を転々として来た。今夜はそんな余所者が緊張を強いられる、独特の空気が薄い。平生のこの都は、もっとつんと澄ました顔をしているのに。 今年は暖冬と言われていたが、寒いものは寒い。ダッフルコートの上からマフラーと手袋まで身に付け、完全防備で賑やかな路を急ぐ。目指す先は近いのに、さすがは寺社の多い京都というべきか。人が多くて急ぐのも難しい。 今日の電車は終日運行しているし、二年参りか初詣だかに向かう人々の姿が、そこかしこに見える。目的地である小さな神社の周辺まで人が集まっていることに驚き、淳也の足が鈍った。 バイト先への近道として、何度も境内を通って来たが、これまで参拝客を見たためしすらなかった。それが今夜は参道を越えてまで、人の列が続いている。 バイト先の主人から突然電話があったのは、つい一時間ほど前のことだ。近所の咲宮神社で雑用を手伝ってくれと言われて気楽に頷いたが、早まったかもしれない。年末は何の予定も無く、孤独に年を越す予定だったので、いっそ労働していた方が建設的だと思ったのだが。予想外の人出には、早々にめげそうだった。 是非にと神社の手伝いを頼まれた理由を、図らずも納得する。寂れた神社で何をするのか、終日運転の電車を乗り継ぎながらも不審だったが、これなら人手は幾らでも欲しいだろう。小さな神社を守るのは神主一家だけだから、用事は有り余っていそうだ。 京都には幾つも高名な神社があるだろうに、無名の社にも人が多いのは、地元では名があるのか、手近で簡単に参拝を済ませる魂胆か。どちらにせよアルバイターにとっては、有り難いような有り難くないような微妙なところだ。バイト代は同じなら、楽な方が良い。 ともかく神社の関係者に会わなくては、仕事が始まらない。まず交通整理からしたくなる行列を眺め、淳也は深々と溜め息をついた。 境内に辿り着くには、この人ごみを掻き分けて進まねばならない。横入りと間違われるのが嫌で、他のルートを探して周囲を見渡したが、一瞬で諦めをつける。 境内へ続く参道は細く急な坂道になっており、磨り減った古い石段が由緒の正しさを垣間見せている。その左右には見事な竹林が広がって果て知れぬ暗がりを生み出しており、灯り無しによじ登るのは危険だった。そんなことをして下手に不審者と思われたり転がり落ちるくらいなら、関係者だと主張しながら道を通りたい。 突入先の除夜の鐘を待つ人々は、ごちゃごちゃしながらも概ね二列で狭い参道に並んでいる。時折混じる着物姿の女性が、華やぎを添えていた。近付きつつも淳也は、綺麗だなあと素直に感心していた、が。 ふと嫌なものが見えた気がして、ごしごしと目をこすった。 「見間違い……だろうな?」 一際目立つ渋みある紅の着物に、緑なす黒髪の美女の足元の影が奇妙に揺らめき。結い上げられた頭の上にふたつ、三角に尖るふかふかしたモノがあったような。 羽織袴の男の背後で、ふさふさしたモノが二本ばかり揺れていたような? 嫌な予感を覚えつつも、覚悟を決めて列を乱しにかかる。混んでいたから、思ったより遅くなってしまった。早く社務所に辿り着かねば、約束の時刻に間に合わない。 余計なものを見ないよう、足元だけ見つめてずんずん歩く。あるはずが無いおかしなモノを、見ない振りを貫くために。と……そう思って、いたのに。 ちゃぷりと、水音が聞こえる。 雨でもあるまいし何の音かと、つい頭上に目線を上げてしまう。 それこそが、まさに彼の人生を象徴する選択。関わりたくないのにいつの間にか、おかしな知己を増やす天運を顕している。 上方からの音に足を止めたそこは、丁度朱塗りの鳥居に間近い位置だった。 見上げた少年の視界に、不遜にも鳥居の上に座るふたつの影が飛び込んで来る。 「……誰だ、あれは。行儀の悪い」 率直にして容赦ない感想は述べたものの、それ以上何かをしようとは思わない。 あそこは神の居るべき場。 人の身であれば、許されるはずもなき暴挙だ。 だからこそ、普通の人間があんな所に上っていたら、即座に騒ぎになるだろう。なのに人々は、おとなしく鳥居の下を潜って行く。ならばアレは、ただの怪しい馬鹿ではないのだ。おそらくは、多分、きっと。 一人は羽織袴をきっちりと着込んだ、赤ら顔の大男。悠然と手酌で大きな酒瓶を傾けているが、巨大な体躯は鳥居から半ばはみ出してしまっている。 もう一人、その横で足をぶらぶらさせているのは、せいぜい十歳前後の幼女だった。着ているのは、襟首や裳裾がレースに覆われた黒いパーティードレス。頭に浮かぶのは、ゴスロリという単語。彼女も躊躇いなく、ぐびりと酒盃を乾している。 思わず未成年だと叫びたくなるが、よく見れば少女の耳の横から、緩やかに曲線を描く一対の角が生えている。悪魔を思い描く時、しばしば連想されるカタチのソレ。では大男の羽織の尻から伸びているのは、もしかしなくても尻尾だろうか。茶色く長くふりふりと、リズミカルに揺れている。 しばし淳也は二人を観察していたが、周囲の不審気な眼差しに我に返る。それと同時に、確かな違和感。感じたのはおかしな子供をいぶかしむ視線だけではなく、不躾な礼儀知らずを咎め、たしなめる気配だった。 ついに不穏な直感を無視出来ず、淳也は胸ポケットから眼鏡を取り出して着用する。 度の入らぬレンズ越しに、再び鳥居の上を見上げてみれば、そこには誰も座っていない。ついでに並ぶ列の間にも、所々に不自然な隙間が出来ていたりする。きちんと隙間なく並んでいたはずの人々の間に、どうして人一人が立てるほどのスペースが出来ているのか。その前後の人々は、どうして場所を詰めようとはしないのか。 答は、考えたくないほどわかりきっている。 「……ったく、ここはどうなってるんだよ」 不本意ながら、仕方なく眼鏡は外す。見えなくては、かえって危ない。 薄い硝子を介在させた世界は、見たくないモノを排除してくれる。掛けっぱなしにすれば、まさしく見ない振りが出来るものの、おとなしく立つ『何か』にぶつかるのは遠慮したい。そもそも『彼ら』がわざわざ見易いように手間暇かけて列に並んでいる以上、見えなければ却って悪目立ちだ。 注意すると並ぶ人々の列の中には数人おきに、奇妙に影が歪む者や、異様に影が薄い者がいる。 普段は素知らぬ振りをしているが、『ここ』に『なにか』おかしい住人が多いのは事実だ。自分に『それら』が見抜けてしまうのも、否定できないこと。 日頃は見なかった振りでやり過ごすものの、気の所為だと自分を納得させるには、今晩はあまりに数が多い。 だからといって、どうするあても無く。 そのまま彼らを押しのけて進むのに躊躇して、少年が足を鈍らせたとき。 ――――ごおおおおん 鳴り響いた鐘の音が、停止していた少年を促す。 何処からともなく、重なり合って響く音。腹の底にまで届く厳かな鐘の音は、終りまで百と八つ。払っても祓っても湧き出でる煩悩を、今このときだけでも浄めるために。 それは時を告げるもの。人の作り出した区切り目の、終わりと始まりをわかつもの。 人々のざわめきが大きくなり、鳥居の上の人影も、一瞬だけ動きを止める。 耳を傾ける者達の間を無理矢理擦りぬけ、淳也は駆け足で動き出した。 * * * 坂の終わりにある石造りの鳥居を抜けると、なだらかな丘の上に出る。そこからが咲宮神社の境内だ。小さいながらも本殿の他に稲荷社があり、横手には神主一家が住む社務所もある。 闇夜の中では明かりといえば、幾つかの燈篭と提灯ばかりだ。月は中天を飾っているが、不夜城都市を見慣れた目には、明度充分とは言えない。 持続時間の問題と火事の危険を避ける為、燈篭の内は電球が大半だが、街灯の無い空間は荘厳な気配に満ちている。鐘の音を聞く人々のざわめきも、雰囲気に飲まれたように小さい。 境内の所々で咲く椿の花が、赤く燃えるように浮かび上がって見える。 竹がざわめく音が、異界の旋律のように妖しく響いていた。 正装した神主は参拝者に年始の祓いを行うべく、賽銭箱の向こう側に立っている。そんな『近さ』が、高名な神社より地元の社が選ばれる一因なのかもしれない。 バイト先に行くために、境内を横切った回数は数え切れない。なのに見知らぬ場所のように感じるのは、初めてここが『神域』だと意識したから。除夜の鐘が鳴り続ける境内の空気は、現実世界と隔絶されてしまっている。 何処へ行けばいいのかと、周囲を見回す淳也を発見し、見慣れた顔が手を上げた。こちらだと呼ぶ声は、社務所の横手に設置された机の傍から。応えて手を振りかけて、異彩を放つその姿に凍りついた。 普段の淳也の雇用主である、年齢不詳の男。性別は多分間違いがなく、実年齢は聞いたことがない。一応は三十前後に見えるが。ついでに氏素性も全く知らない――いつもはそれでも構わないでいるけど。 彼のまとう白い着物が、違和感の原因だ。和装自体は見慣れていても、今夜の純白は落ち着かぬ気分にさせる。時代劇の死装束に似て、端正な容姿の彼が着ると本当の神職のようにも見える――いや、人間離れして見えるというのが正しい。恐ろしくて口に出せたものではないが。 近付くなり挨拶も抜きで白地の羽織を押し付けられ、解凍される暇がない。かろうじて、それが彼と揃いの上着だとわかる。これが神社関係者の制服らしい。 「……これを着て、どうしろと?」 「お客さんのお相手を」 ずらりと並んだ人々の列は、鐘の音の終わりを待つように、ゆっくりと動き出している。 下まで続き、尚も増え続けるだろう数を思うと、溜め息が洩れた。なかなか大変な正月になりそうだ。 「めでたい年明けから、辛気臭い顔はしないようにな」 「――わかってるよ!」 すかさず飛んだ突っ込みに、よしと気合を入れる。 確かに新年早々に沈んでいるのは縁起が悪そうだ。これを客商売と断じるのもなんだが、仕事には違いないし。それも非常に希望に満ち溢れるべきオシゴトだ。それこそ小さな神社にとっては、年に一度の収入源とみた。 「済まないが、人手が足りないんでな。夜明けまで頑張ってくれ」 予定では、我々の『仕事』は三時までだ。 告げられた内容は、今始めて聞いた。つい二つ返事で受けた仕事だが、立派な3Kである。時間的には長くもないが、寒いし眠いしきついし……時給八百円は安い。 「内容は、お客さんが持って来た去年の札や破魔矢を受け取って、私が注いだお神酒を渡していってくれるだけでいい……簡単だろう?」 幾重にも積まれた盃を指差し、説明する。 今更帰るなどと言い出すはずもないという確信犯の笑顔は少し癪にさわったが、この状況では是非も無い。背後の台には大量に清酒の瓶が並んでいたが、それを消費するくらいに、参拝者が来る慣例なのだろう。 言い交わす間にも列はどんどん進み、人の波が押し寄せてくる。これもまさしく毎年の慣例なのか、参拝者の側も心得たように慣れた手つきで、厄を吸ってくれたはずの呪物を差し出し、代わりに神に清められた酒を享けていく。進む先の社務所では、今年の為の破魔矢やお守りが売られているという按配だ。 ひとまず淳也は机の端に札や破魔矢を積んでいったが、じきにそれらは、どうしようもな高さにまで溜まってしまう。後は燃やして清めるだけとはいえ、地面に積み上げてしまうのもバチあたりかもしれない。困惑して周囲を見回す少年に向かって、横の男が指差した先にあったのは、使い古しのよれよれのダンボールだった。 「……あれに、入れるのか?」 「足りなくなったら、その辺に積みあげてくれ」 末路にどこか哀愁を感じるが、既に慣れている男は気にならないらしく、あっさりしたものだ。次があったら、もうちょっと良い入れ物を要求しようと密かに思いつつ、供養を待つばかりの品々を、ばさばさと放りこんでいく。客観的に行為が乱暴なのは、自分も同様だとは自覚しつつ。 「おや、今年の歳の神は醒花翁かい」 手際よく酌を続ける男へとそんな声が飛んだのは、少年が背後に回る間、男が盃の受け渡しを担当していた時だった。 尋ねる言葉の意味はわからなかったが、彼が軽くいなせば、参拝者はそれ以上を尋ねることなく帰っていく。 若く見えるのに、彼には時折『翁』と呼称する者が現れる。よく言えば悠々と落ち着き、悪く言えば枯れ果てた風情がそう呼ばせるのかもしれない。そもそも淳也は、『せいか』という珍しげな音が本名なのか、号か何かなのかも知らなかったし、彼の名や苗字をはっきり聞いたことも無い。 長い濡れ羽色の髪を束ね、白い衣で酒を注ぐ男は造作も非常に良い。 日頃の和装で、店の奥で煙管を燻らせている姿も粋なものだが、今夜の白をまとう男には、俗世を超越した清しくも凛とした華があった。にっこりと微笑めば、男女を問わずにホクホク顔に変わるのは、見事と評する他ない。 「タラシだな、あんた……って!」 「おや、失礼」 客に見えない位置で、しっかりと足を踏みつけられて悲鳴を上げる。 抗議しようと睨みつければ、有無を言わせぬ微笑みを向けられ、文句を封じられてしまう。逆らうと地獄を見せられそうなので、反論は諦める。代わりにかけられていた言葉の意味を問うた。 「なあ。さっき言われた歳の神ってどういうことだ?」 少年の疑問に、男は軽く笑う。折りしも参拝者が途切れた瞬間でもあり、向き直ると淳也を呼び出した『事情』を語り出す。 「いつもなら、ここでは去る年の神が厄を享けた呪物を受け取り、来る年の神が神酒を注ぐのが慣例なんだ。私という代役がいたので、どうしたかと思ったのだろう」 意味がつかめず沈黙した淳也の顔を見て、醒花はわかりやすく言い直す。 要するに例年は、昨年の破魔矢やお札は去年の干支に扮装した者が受け取り、今年の干支に扮した者がお神酒を注ぐという慣わしらしい。 「ただ時折逃げ出されると、こうして他の者が手伝うわけだ」 「逃げ出すほどイヤって……まさか動物のコスプレをしながら酒を配るとか?」 こちらもかなり嫌そうな淳也の質問に、男は爆笑した。何がおかしいのか、幸いにも誤解があったのか――何も言わずに延々と笑い転げる。 ムカついて黙り込んだ少年を余所に、しっかりと客の相手は忘れない男は、常より数割増しに愛想がよく見えて、評判は上々だった。 参拝者は益々増えており、二人の前に立つ人も、切れ間がない。疑問を解消する間もないまま、仕事も延々と続いていく。 予定ではお神酒を配るのは三時までと言いながら、機械的にお終いに出来るはずもなく、結局二人の仕事は、客が途切れる五時前まで続けられた。 そろそろ二年参りではなく、早起きして初日の出を見ようという顔触れに変わって来たところで酒も尽き、明かりを落として終了とする。とはいえ、辺りは既に灯りなしでも仄かに明るい。 とんだ労働条件だったが、すぐ傍で未だ神主が御幣を振り続けているのを見ると、文句も言えない。年に一度のとはいえ、ご苦労様だ。 社務所へと引っ張られた淳也は、石油ストーブの付いた部屋で掘炬燵に足を突っ込んで、ようやく人心地がついた。疲れ果てて、いっそこのまま眠ってしまいたくなる。かたや一緒に来た雇い主は、元気に勝手知ったる他人の家の台所を、堂々と漁っていた。 「――はい、お疲れさん」 身体が暖まるぞと言いながら差し出されたのは、可愛らしいクマさんの絵のマグカップに注がれた酒だった。 その酒はどこから出したとか、そのやたら可愛らしい柄はどうしたとか、言いたいことをぐっと飲み込み、未成年なのも忘れた振りで、有り難くあおる。縁起物のお神酒なのだから、いいだろう。喉を過ぎた途端、清酒は熱をもって内側から身体を灼いてくれた。 同じだけ寒風に吹かれていたはずの男は、ウサギさんのついたカップを手に笑っているが、その顔色は平静で寒さに負けた様子はない。 雇い主の背後にも時折、人ならざる影を見る淳也としては、今更どうこう問おうとは思えなかったが、つい愚痴が洩れる。 「……ったく、本来ここにいるべき奴は何処にいるんだよ」 「まったくだな。そろそろ迎えに行かねば、時が滞るのだが……」 何処へ消えたものやら。 ぼやきつつ困ったように笑うものの、男の眼差しは優しい。 雲隠れした者達への憤りを口にすることなく、にこやかに参拝者へ酒を注ぎ続けた男は、本当に怒ってはいないのだろう。彼は終始楽しげでさえあったから。 「大吟醸を一本ずつ持って、ふたり連れ立って消えてしまったからな。何処ぞで酒盛りをしているんだろう」 「頼まれた仕事を放り出して酒盛りか。いい根性だな」 「……神社の手伝いはボランティアだからな。あまり強いことも言えないさ」 「んなこといって、そいつらは参拝客の相手をする為に雇われたんじゃないのか?」 自分のような、晦日の晩のバイトではないのか。 不審げな少年の顔を、これまた不思議そうに見返した男は、何に合点がいったのか大きく頷いた。 「誤解があるようだな。歳神の扮装というのは一般客への口上だ。彼らは『本職の』歳神 だぞ?」 「本職って…………カミサマが?」 意味ありげに首肯され、首を傾げたままで考える。 つまり、それは。 これまた思考を停止したくなるけれど。 異形までも参る神社に相応しく、真の歳神が降り来るというのか? 「――猿と羊が酒盛りか? 猿はともかく、羊は酒瓶をどうやって掴むんだ」 羊が属する偶蹄目の『手』には、モノをつかむという技術は難しいはず。 淳也のどこかずれた感想には、男も再び失笑を返すのみ。 彼の意見は全くもってその通りだったが、実情を知っているとおかしくてならない。 「それを言うなら、動物の姿のままでは参拝者の相手も出来ないだろう。彼らはちゃんと人の容を模しているよ。未(ひつじ)殿が十程の幼女の姿で、申(さる)殿は五十前後の大男だったかな」 本当に探す気があるのか、年齢だけでは幾らでも該当者がいそうだ。しかし、その組み合わせにはひっかかるものがある。 尾の生えた赤ら顔の大男と、小悪魔の如き幼女。 先程自分は、そういうモノを見たのではないか。 「……なんかそれ、見た気がするぞ」 「ほう。何処でだ?」 見たままの事実を告げてみれば、面白そうに頷く。 まさしく『そう』だとするならば、毎年ここを参る習いの者の中には、歳神の行方を知る者もいたのかもしれない。見えて、なおかつ彼らの正体を知ればこそ、鳥居の上の住人を黙って見逃していたのかもしれなかった。 「では、新しい『年』を迎えに行くとするか」 立ち上がった男が、促すように淳也をにこやかに見つめる。 眠くもあり、再び寒空の下に出るのにうんざりしながらも、淳也は発言の結果を見届けるべく立ち上がった。 * * * 東の空は白み始めている。 もうすぐ新しい年になって初めての陽が昇るのだ。 「――こちらにおいでだったか」 人の気配が薄れた境内から鳥居を見上げ、男が穏やかに笑った。 先程と変わらず鳥居の上に在る二人――いや、二柱の存在は、酒も尽きたのか白む空へ目をやりながら、ぼんやりとしていたらしい。 「お迎えに参じた。そんな所で何をしておいでだ――未の神、申の神よ」 静寂に帰ろうとしている神域に、その声は思いのほか響いた。大男と幼い少女との組合わせは、驚いたように一斉に振り返る。 赤ら顔の大男は表情を変えず、無言のまま地上を見下ろしていたが、少女はどこかばつの悪そうな表情になった。一応は、申し訳ないと思っているのかもしれない。予想以上の重労働を強いられた身としては、それくらいはして貰いたいところだ。 しかし醒花へ向けられていたその表情は、淳也の存在を認めた瞬間、掻き消えてしまう。 見下すような傲慢さを漂わせ、幼女が尊大に声を上げた。 「何か言いたそうだな、人の子よ」 「……別に。あんた達が居ないのも知らずに、神社に詣でてた人が気の毒だと思っただけだよ」 まさしくコレが、知らぬが仏。いや、彼らは神なのだから間違った用法か。 年毎に来る神を崇める社において、祈る声に応えるものが不在とも知らず願う者の滑稽さは、哀れであり同じ人の身の怒りを誘う。 「人の子の願う姿を見続けるのは苦痛だ。妾では叶えられぬ夢ばかりみておる」 「……だから逃げ出したってのか?」 呆れ半分に口にした言葉は、思ったより辛辣に返される。未神はいささか酒癖がおよろしくないらしい。ちょっぴり喧嘩を売られた気がして、不遜にも高値で買い受ける。外見の所為もあり、どうにも相手が尊くも畏れ多き『神』だという実感は湧かなかった。 「残念ながら妾には、人の子が心の内で祈る声など聞こえない。そんな『神』はここにはおらぬ。せめて口に出されればともかくな」 「人間が祈っても、意味が無いと言いたいのか?」 横手から、宥めるような視線が向けられたのはわかったが、黙ってはいられなかった。 淳也は特定の宗教を信奉してはいない。それでも葬式にはお坊さんを呼ぶのが自然だと感じるごく平均的な日本人だ。年始参りで真面目に無病息災を祈る程度の神経は、持ち合わせている。 「願いを叶えるモノならば、神主の後ろに陣取っておるのだろうよ。我等はあそこに何も見出せぬがな。我等が元来あの場で酒を注ぐは、せめてものこと。人々を見守り導くなどと思われるは心外よ」 ねじくれた角を持つ幼女は、傲慢に微笑む。愚かな生き物を嘲るかのように。 「このクニのカミは、絶対全能なる存在ではない。そういう神が欲しいなら、西方の唯一なる救い主でも崇めてはどうだ。奇跡とやらを起こして下さるかもしれんぞ。もしくはおまえの隣に立つ男にでも頼んだ方が、我等に願うより、よほど効き目があるだろうよ」 「……悪い冗談だ。私は人間を救って回れるほど偉くはないよ」 集まる視線に、男が苦笑を浮かべる。そこに憤慨の響きがないのが、淳也にとっての謎だった。人間ならば憤るべき場において、彼はどちら側に立つ者ともしれない。 「それは我等の言葉よ。妾たちに祈る者が多過ぎて、頭が痛くなりそうだ」 ふふふと笑い、未の神は、聞き捨てならぬ言葉を呟いた。 どうせ我等に祈っても意味はないのに、と。 「祈りは人のためのもの。神に必要なものではない。そもそも――カミとはナニモノなのか?」 己が力だけでは叶わぬものの為、己が望みの叶う時を求めて、人は神に願う。 ならば神は、それ故に何を得るというのか。何が手に入るというのか。 そのような人と同じ理屈を要求しないのが『神』なのだと言う者もあろうが、真の神を知る人の子など、そこらにおりはしないのだ。 本当に願いを叶えてくれるのかも――ただ、そうであれと信じるのみ。 歳神は、時の神。 決して留まることも歪むことも無く、容赦なく差別なく流れ続ける時間の神。 いかなる存在にも平等に在る神に、いかなる願いを奉るべきか。 「人の子供、妾たちに何を望む。この日の本の国に在る多くの人の心から神は失われ、祈りさえも形骸化した今になって、妾たちに何が出来るというのだ?」 哀れむような、蔑むような。 その感情は誰に向けられているのか。 ひょっとすると、それは人間にではなく、己自身へも向けた呪詛なのかもしれない。 人が神威を畏れ崇めたのは、いつしか過ぎ去りし日の幻となりつつある。 今や多くの若者は、いかなる神をも信じてはおらず、闇の奥に住まう影を面白いお伽話だと片付けてしまう。 「我等は年月を司り、滞りなく時を巡らせる。ただそれだけの存在よ」 人の吉凶は感知するところにないと、言外に告げられては、何も言えなくなる。 淳也としても、何もかもを神様に頼ろうなどとは思わない。けれど、神にすら見捨てられたなどとは思いたくない。 何かを訴えたくとも、言葉にならず口ごもる少年は、隣に立つ男の静かに凪いだ眼差しが慈しみの色を浮かべていたのに気付いてはいなかった。 「――だが、申は鬼門を封じ、ひいては凶事を封じる。人の崇める想いこそが、我等をここまで長らえさせてきたのも事実」 不意に挟まれた申の神の言葉は、誰の為に発せられたのか。 淡々とした口調は、単に純然たる事実を述べるもの。 鬼門を封じる為に、多くの人間が申の像を刻んだのは、知る人ぞ知る歴史の真実だ。 「神に出来ることなどたかが知れている」 これまで黙って口論の行方を見守っていた申の神の声は、真っ赤な顔色からくる印象とは裏腹に、重々しく誠実な響きを秘めている。 「我等もただ、己に出来得る限りを行うのみよ」 己に出来る限りを行うのは、如何なる存在にとっても、義務であり権利でもある。 人の身にも当然で、それはたとえ神であっても。 「我等は変わらず、ただ在り続けるもの。流れ去りゆくもの。人の子よ、おまえ達は短い一生の内に、どれだけ変化し、矛盾し、有り得ぬ可能性を実現するのか見当もつかぬ。我等神の眷属よりも、そなたら人の子の方が、よほど奇跡とやらを創るのが上手いようだ」 全ての人々の祈りが、叶えられる訳ではない。 それでも人は神に祈り、神の声を求める。 神の祝福があろうとなかろうと、人は生きていかねばならない。気休めでしかないのかもしれない。永遠にわからない答かもしれないと、大半の人間はそうわかっているはずだ。意識的にせよ、無意識にせよ。 そして多くの人々は、神に頼らず己の力で為すべきところを成し遂げる。 変わることなき『神』なれば、それをただ見据えるのみ。 「見るがいい、陽が昇るぞ」 「ああ……やっと年が明けた気がするな」 仄暗い薄明の世界が、一瞬にして塗り変えられる。 他ならぬ太陽を基とした暦において、はじめと定められた日の太陽が、世界を照らす。 その光に、昨日とのどれだけの違いがあるはずもない。それでも、どんな太陽よりも美しく見えるのは、見る側の心持ちの故なのだろう。祈りという儀式も、その心持ちにこそ深き意味が存在するのだ。 「さて――妾はもう去らねばな」 傲慢なゴスロリ少女は、勢いよく鳥居の上に立ち上がる。 「次は十二年後か。この世がどうなっているか、楽しみなことよな」 十二年前から変わったことはたくさんある。 新しいものが次々と生まれ、国中に広まっていった。 たとえば携帯や、パソコンや。あの震災も、あの戦争も。多くの進化や変貌は、時がもたらしたもの。一昔と称されるよりも前には、思いもよらなかったことだ。 時は全てのものに、ただ流れ続ける。平等に慈悲も容赦もなく、留まらず同じだけ過ぎ去っていく。 時は過ぎ行くだけのもの。そこに意味をつけるのは、記憶を持って財産と為す生物の特権であり、責任でもある。 「ふふふ……では、また逢おうぞ」 悪魔の如く蠱惑的な微笑みを浮かべると、幼女は危なげなく宙を切る。 その刹那に白い毛並みの獣に変じると、去るべき年の神は虚空を蹴って走り出す。 その姿は瞬きの間に、朝の光に溶けて消えていった。 「――では、我は今年一年世話になるぞ」 残った申の神は、空になった酒瓶と酒盃を手に、鳥居から飛び降りる。きっちり未の神が残した分まで持っておりるところは律儀だが、間近に立たれるとその巨大さから来る威圧感は相当なものだ。横の男も長身ではあるが、申の神は横幅もかなりのもので、圧迫感がまるで違う。どことなく威圧的なのも、その正体を思えば仕方ないのか。 羽織袴で正装した大男の正体を思い、淳也は内心でかなり引いた。 あくまでも落ち着き払った様子の雇い主を横目にして、密かに淳也は感心する。この男も相当タダモノではない。まあ、こんな怪しげな生活を送る男が普通だったら、やってられないだろうが。 今年も様々なことがあるだろう。 良いことも、悪いことも。 去年はどんな年だったか問われれば、自分にとって悪い年ではなかったと思う。 それでも視野を広げれば、世界的にはむしろ凶事の多い年だった気もする。国内だけで言っても、不条理な事件が数多くあった。起こるのは良いことばかりではないし、悪いことだけでもなかった。 それらを忘れずにいることが、淳也に出来るせめてものことだ。 淳也は記念すべき朝日を見つめながら、今年が良い年であるようにと、無言のままで祈りを奉げた。何とも知れぬ存在へと、ただ心からの願いを呟いた―― |
《終》 |