「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。」
(ルカによる福音書11章9節)
「求めよ、さらば与えられん」この御言葉はキリスト者になる前から知っていました。クリスチャンでなくともどこかで聞いたことのある言葉として知ってい る人はたくさんいます。けれども、お願いすれば必ず与えられるのでしょうか? そもそも、何でもかんでも自分の欲望のままに求めていいのでしょうか? イエスさまは言われます。友だちだからといって、どんな時でも何かを与えてくれるわけではない。しかし何度も何度も心の底から頼めば本当に必要なものを 与えてくれる。まして天の父なる神さまは求める者に聖霊を与えてくださる、と。
教会に来るようになる前の私は、何をやってもうまくいかず、どうしようもなく追い詰められていました。そんなとき、なんとなく聞いたことのあったこの聖書のみ言葉に救われました。
私は、若い時に結婚して、子どもも3人いました。けれども夫は、怒るとすぐに暴力をふるう人で、我慢に我慢を重ねてきましたが、子どもたちが大人になった ころ、ついに我慢できなくなって離婚しました。1から10まですべて相手が悪い。そればかり思っていました。そして自分は絶対悪くないと思っていました。 やがてIさんという人と出会って、再婚することとなりました。とても頭が良くて、やさしい人でした。前の夫とは全然違います。ところがどうでしょう。次第 に考え方が食い違い、結婚生活が苦しくなってきました。こんなはずではない。とてもいい人なのに。いくらそう自分に言い聞かせても、ますます食い違いが大 きくなり、争いとなるのです。そしてはじめて思いました。自分は悪くないとずっと思って生きてきたけれども、自分の中にこそ問題があったのではないか。 そんな時です。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる」。もうすっかり忘れていた聖書の言葉が、突然浮かんできたのです。 私は、猛烈に求めました。神さまのこともよくわからないのに、懸命に祈りました。すると神さまは不思議な導きで、立花教会の礼拝に私を招いてくださいまし た。そして、私が長い長い間、探し求めていたもの、「本当に生きる」という宝物を遂に見つけさせてくださいました。 それから神さまの御心を求め、必死になって学びました。体は齢をとってきても心は青年のように教会の集会にはすべて参加しました。それは恵まれたとても 豊かな時でした。それからもずっと求めて来たのだと思います。牧師先生が語られる御言葉が、どんどん心に響き、気がつけば洗礼を受け、教会の兄弟姉妹と共に歩んでいました。 こうして、自分中心だった私が変えられたのです。
そのころからです。夫のIさんとのぎくしゃくした関係も少しずつ変えられてきました。何時しか、家庭でも、教会で学んだことを何でもIさんに話すようになっていました。Iさんは、それをいつも「ふんふん」と言って聴いてくれまし た。一方、教会の学びの会では、夫のことばかり語っていました。だれよりもたくさん話す私の言葉を教会のみなさんもいつもにこやかに聴いてくれました。 そんな時です。Iさんに大きな病気が発見されました。私は以前の自分では考えられない程、一生懸命お世話しました。けれどもIさんは、どんどん弱っていき、やせ細ってきました。
そんなある日、Iさんが私に言いました。「あんたは今は不幸やけど、俺が死んだら幸せになるから」。 私は思わず「そんなことないよ、不幸ではないよ。むしろ、感謝してるよ。」と答えました。神さまが言わせてくださったとしか思えませんでした。その答えに Iさんは目を満丸くして驚いていました。喜んで世話をしている私の姿を見て、「洗礼を受けると、人間はこんなにも変えられるものなのか」と驚いたのかもしれません。 「ご主人の命は、そう長くない」とお医者さんが私に言いました。Iさんにはとても直接には言えませんでしたが、本人もそう感じていたと思います。そんな時、 Iさんが言いました。「自分もあんたのように洗礼を受けたい。」私は耳を疑いましたが、Iさんの表情は真剣です。早速、楢本先生に連絡しました。楢本先生と役員のHさんが病院に駆けつけてくださいました。Iさんは病室のベッドに寝 たままで洗礼準備会がはじまりました。ふつうは何回か準備会を持つのですが、残された時間はそんなにありません。楢本先生が洗礼の意味について一番大切なところを短く語ってくれました。 そして翌日、狭い病室で洗礼式が行われました。牧師先生と教会の役員方、そして私の友人も来てくれました。「今から洗礼式をはじめます」と楢本先生が言わ れたその時です。驚くことが起こりました。もはやベッドに横たわったまま身体を起こすこともできなくなっていたIさんが、起き上がり、ベッドの上に正座し ようとしたのです。イエスさまから遣わされた牧師先生に対して誠を尽くそうとしているのだとわかりました。呼吸も苦しく、全身のだるさの中で、しかし、Iさんの目は澄み切っていて、とても清らかでした。 「イエスさまを救い主と信じますか」「地上の命には限りがあるけれども、永遠の命を信じますか」。牧師先生の問いにIさんははっきりうなづき、それから水 が注がれ洗礼が授けられました。病室の白い壁が一面に光り輝いているように感じました。きょう、この場所で、罪が浄められ、新しい命が授けられ、神の国が訪れたのです。 洗礼を授けられてから、神さまは私たち夫婦にとても幸せな、永遠とも思える時間を与えてくださいました。そして一週間後、Iさんは静かに息を引き取りました。
〈祈り〉 愛する主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは、洗礼を授けられ新たに生まれ変わりました。その後もあなたの礼拝に与るごとに新しくされます。そして あなたの御心に向かって本当に生かされてまいります。このお祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげします。 アーメン