教会員の証シリーズ
Vol.1 「一番喜ばれたお方」

~祖父の祈りと一人の少女の信仰~

「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの 体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」
(コリントの信徒への手紙一 12章13節)

私はお母さんのお腹にいるときから立花教会に行っていました。サムエルサマースクールに参加しているこどもたちもそうでしたね。

3歳の頃に両親の信仰によって、兄の健と妹と3人同じ時に、楢本先生の前の牧師であった天野八重子先生から「幼児洗礼」を受けました。

もちろん、その時の記憶はありませんが、それからも毎週日曜日には教会に行ってこどもの礼拝を守り、
おとなの礼拝の時はお母さんやおばあちゃんの隣に座ったり、教会にあった幼稚園時代の遊具で遊んだりしていました。

私が小学校を卒業する6年生の1月に、大きな地震がありました。阪神淡路大震災です。最後の小学校の行事だったスキー旅行もなくなり、学校もしばらくお休みで、今思えば、コロナの時の小学生 は同じような、なんとも言えない不安な気持ちだったのかな?と思います。
当時、立花教会には「青年会」や「中高生会」がありました。中学生になったら大人の礼拝に出て、中高生会に出て、 これまでこども礼拝の先生だった青年会のお兄さん・お姉さんにも仲間入りできる!という思いがあり、私はすごく楽しみでした。

中学生になってみると部活があり忙しくはなりましたが、私の入ったテニス部は日曜日は試合以外は部活動がなかったので、礼拝には毎週行くことができました。
私の家は6人家族だったので、私が家に一人になることはほとんどありません。寂しくないかわりに、いつも誰かがいるのでなかなか一人にはなれません。昔から頭の中には自分の世界があって、本の中の 世界を想像したり、漫画を読んでその世界に入り込むのが大好きでした。
なので、私は礼拝に行くと静かな空間で、讃美歌を歌い、聖書を読んで、説教の間は楢本先生が語られた「一つの言葉」に引っかかると、その言葉から誰にも邪魔されることなく連想ゲームを心の中でしていたように思います。

中学生になったら、夏には立花教会中高生キャンプに行きました。聖書も読んでお話も聞いていたのですが、覚えているのは、はじめての聖書の御言葉との出会いです。
その年のキャンプの課題はすごく難しかったのです。「それぞれ自由な場所に別れて、一人で聖書を読んで、イエスさまの御心が聞こえたら全体会へ戻ってきなさい。」というものです。「どうしよう!」と思いました。これま で生きてきた中でイエスさまの声が聞こえるなんて、そんなこと起きたことがありません。自分の思いすらわからないし、うまく表現できないのに「神さまの思い」「イエスさまの思い」なんて気にしたことすらなかっ たのです。ひたすらに与えられた聖書箇所(Iコリント 12 章 12~31 節)を読みました。 するとその時、一体何が起きたでしょうか。すーっと言葉が私の中に入ってきました。初めての感覚です。
これまで何度読んでも、自分と関係のなかった「聖書のおはなし」が、この時、私が聖書の中に立っているのです。これは私のことだ、私に今、イエスさまが語りかけてく ださっている。そう気づいたのです。それからは、聖書を読むのが楽し くなりました。どこかの誰かのお話ではなく私に向けられた神さまからの手紙だと思えるようになったからです。

幼児洗礼を受けた子供はある一定の年齢になったら、自動的に教会員になるのではありません。
自分の口で「信仰告白」をしなければなりません。少しずつ聖書を読めるようになってきたからと言っても、 告白できるほどの信仰は与えられませんでした。
かつて、私が目撃した洗礼式のように、礼拝の中で震えながら御前に進み出て、「神さまこそ私の救い主です」と告白するまでの決定打がないのです。 そんな私に神さまはある出来事を起こされます。
それがガンという病気と闘う祖父(母方)の姿、そしてついに天に召されるその姿を近くで目撃したことでした。祖父は最後まで私たち孫に信仰が受け継 がれることを願っていました。病気が重くなり、病院のベッドの上で、ほとんど息もできなくなった時、突然祈り始めました。苦しい声で「神さま、この子のことを頼みます」と私のために祈ってくれたのです。そし て、祖父は息を引き取りました。その時、私は思いました。おじいちゃんは、ただ死んだのではなく、死にさえ勝つことのできる主イエス・キリストに従い、神さまの御許へと召されたのです。その姿を見て、心が 定まりました。命をも支配される神さまに、私もお従いしよう。

そう決心してから、誰にも相談せずに、楢本先生のところへ行き、「信仰告白をしたい」と申し出ました(これが、信仰告白をした中学3年生の時の写真です)。
ちょうど新しい礼拝堂が建設中で教育館 の小礼拝堂で礼拝を守っている時でした。立花教会の人たちの表情はどうでしょう。とても喜んでいるように思えます。私自身も、この時は家族にも立花教会の人にも喜んでもらえて、信仰を告白するって、 こんなにもうれしく、喜ばれることなんだと、はじめて知らされました。そしてとても幸せな気持ちになったことを思い出します。
あれから25年たった今、実はあの時、一番喜ばれた方は誰なのかを知っています。それは神さまです。「私のものになりなさい」。私が命を受けて、母のお腹にいるときから神さまはずっとそのように願って おられたのです。そして今もずっと願い続けてくださっています。だからこそ、その思いに精一杯お応えしたいと、毎週教会へ行き、「私は神さまのものです。あなた様に従います。」と御前に出て告白し、礼拝 をおささげしているのです。

〈祈り〉 天の父なる神さま。生まれる前から私を覚えて、熱いまなざしで見つめ、「私のものになりなさい。」と願い続けてくださりありがとうございます。今、サムエル礼拝に集っている一人ひとりにも神さまが同じ ように臨んでおられると信じます。どうぞ、自分の口で信仰を告白し洗礼を受ける時をそれぞれにお示しください。そして、いつか天に召されるその時まで神さまの者として生きる道を備えてください。この 感謝と願い、主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。 アーメン