西国の雄 毛利元就

一、西国の雄 毛利元就の生涯


三、元就の初陣

元就の初陣は1517年(永正十四年)、二十一才の時。当時二十一才での初陣は決して早くない初陣でした。
この合戦は安芸有田城合戦と言われており安芸国守護、佐東銀山城主・武田元繁と戦いました。
ちなみにこの武田元繁の一族は安芸武田氏と言われ清和源氏の流れをくみ、甲斐の武田氏とも関係があります。
この元就の初陣の背景には兄・興元の病死があげられます。二十四才の若さで当主・興元が病死し、毛利家宗家を相続
したのは興元の嫡子でまだ三才の幸松丸。(興元が病死した当時、毛利家は大内義興の命で五龍城の宍戸元源(ししど もとよし)を攻めていましたが和睦。)

その虚に乗じて武田元繁は安芸山県郡に侵入し、有田城を攻め毛利領を侵してきました。
この有田城は吉川領の南部・毛利領との境にあり吉川元経の家臣・小田信忠が守っていたのですが、一度武田元繁に横領
されそれを毛利興元が奪い返して吉川氏に与えたという経緯があり、武田元繁は当主を失った毛利の弱みにつけ込んで
再び有田城を奪い返し、さらには毛利領にまで侵攻しようとしていました。
これに対して吉川元経や小田信忠から毛利家に対し救援を求めてきました。この吉川氏と毛利氏とは吉川元経の妻が興元
の妹で婚姻関係にあったこともあり、また有田城が落ちれば武田軍が次は毛利領に攻め入るのは火を見るよりも明らかだった
ので毛利家も有田城への救援を承知しました。

だが、いざ武田軍四千が有田城を包囲すると毛利家重臣は有田への出兵をためらった。これに対し元就は出兵を主張。
有田城を包囲した武田元繁はさらに毛利領吉田との国境一帯にも放火してまわっていた。
軍儀の結果、結局元就が多治比勢を率い先鋒として有田城救援におもむくこととなり、百五十騎の手勢を率いて武田軍の
先陣・熊谷元直(くまがい もとなお)の軍勢と交戦しました。(ちなみにこの熊谷氏は源平合戦時に平敦盛を討ち、無常を
感じて後に出家した熊谷直実(くまがや なおざね)と関係があります。)
熊谷勢は元就率いる多治比勢を小勢と侮り六百騎をもってひと呑みにしようと攻めかけたが、元就はこれを深田に誘い込み
熊谷勢の動きを封じて勝利を得ました。
この後、元就は加勢にやってきた毛利本隊七百と吉川元経の軍勢三百を率いて有田へ押し寄せ中井出で熊谷元直を
討ち取り、さらに進んで又打川で武田元繁をも討ち取りました。

熊谷元直との戦いでは元直を弓矢で狙い打ちし、また武田元繁との戦いでは武田軍四千数百対毛利軍一千余騎と
圧倒的に毛利軍不利な状況の中、元就は味方に退却を命じながら冷静に戦局の推移を見守り、その毛利軍の退却に
血気にはやった元繁が毛利軍を追撃しようと自ら又打川を渡ろうとしたところを矢で射抜かれました。

このように元就は初陣で武田元繁と熊谷元直の首級をあげ、わずか一千余騎の軍勢をもって安芸守護の軍勢五千騎を
撃破し、これにより今まで無名であった多治比少輔次郎元就の名は一躍有名となったのです。



《元就の初陣について安芸中納言の考察》

元就の初陣となったこの有田城合戦は後世「西の桶狭間」と呼ばれるようになり、また元就は大内義興から感状を授与され
元就の名を一躍有名した戦いでもありました。この元就の初陣での大勝利には当時の人々は大変驚いただろうと思いますし
、私もまた改めて元就の凄さに驚かされます。
一説にその勝因は多治比の不遇時代に勉学にいそしみ家伝の大江流兵法を会得したため、といわれています。
毛利家の本姓大江氏の始祖、音人の孫である維時は大江流兵法の祖と称され維時が書いた『闘戦経』はわが国固有かつ
最高の兵法書とされ、大江流兵法の秘伝書『江家軍略』として子孫に継承され毛利時親が吉田に下向した際にも愛蔵
されて代々、安芸毛利家に伝えられたものでした。
ちなみにこの大江流兵法は大江匡房が源義家に、また毛利時親が楠木正成にそれぞれ伝授したことで有名です。
この大江流兵法と『江家軍略』はその後も、代々安芸毛利家当主に伝えられ元就の父弘元はこれを元就と庶弟・元綱に
直接伝授したといわれています。
この先祖代々にしてわが国最高とされる兵法を元就が会得した結果、庶弟・元綱とともに有田城合戦でその成果を発揮し
武田元繁を打ち破ったのではないかと思います。

製作者:安芸中納言
2001年8月13日


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