西国の雄 毛利元就

一、西国の雄 毛利元就の生涯


二、元就の生い立ちから元服までのエピソ−ド (EPISODET)

ここでは元就が生まれてから元服するまでに残した有名な(?)エピソ−ドを紹介します。
真偽のほどは別にして皆さん、是非覚えて帰って下さいね♪


エピソ−ドT

松寿丸(元就)七才の時、屋敷で鶏を飼っていたがある晩鶏小屋が破られ鶏が行方不明となった。
驚いた松寿丸が翌朝あたりを探し回ったところ、その鶏の白い羽が庭の築山で発見され、そこに狐の巣穴があり
その巣穴の入り口にも白い羽があった。
鶏がその狐に食べられたことを確信した松寿丸は怒り、下人に命じて松葉を集めさせ狐をいぶり殺そうとした。
これを知った杉の大方は松寿丸のもとへ使いを出し、生き物をみだりに殺してはならぬと戒めたところ、松寿丸は
「家臣が喧嘩をし、一方的に殺されたのに、殺した下手人を助けては不公平です。鶏は狐に対してなにも慮外なことを
しかけたものでもないのに、狐はこれを殺したのです。その罪は軽くありません。鶏も家臣、狐もわが屋敷内に住まいせば、
わが家臣も同然。これを殺すのに無理はござりますまい。」と言って杉の大方からの使者を追い返したといいます。


エピソ−ドU

また松寿丸が年少のころ、守役が松寿丸を抱いて川を渡ったとき、過ってつまずき松寿丸を川へ落として溺れさせた。
守役は恐れ入って謝罪したが、松寿丸は「道を歩けば誰でもつまづくことはある。」といって守役をなぐさめたそうです。


エピソ−ドV

松寿丸十一才のとき、井上光兼という家臣の屋敷に旅の聖が来て念仏講を催すとさっそく松寿丸を連れて聞きに行き、
特別に聖上人から念仏の大事を伝授してもらった。それ以後、元就は杉の大方の薫陶で、毎朝、日輪を拝して念仏を
唱えるようになり、これを生涯の日課としました。


エピソ−ドW

松寿丸十二才のとき、厳島神社に参拝した。参拝を終えて境内に出たとき松寿丸が従者に向って何を祈ったのかを聞いた。
家来たちはみんな松寿丸の気に入るように答えたが、その中の一人が「松寿丸様が安芸、備後をなど中国を治める主に
なられるようお祈りいたしました。」と答えると、
松寿丸は「中国をみんなとは愚かなことじゃ。なぜ日本国の主となるようにと祈らなかったのじゃ。」といって口を尖らせた。
家臣は笑いながら 「まず中国一円を領有し、そのあと日本国全土をと望まれるのが、ものの順序かと」と大人の常識を
披瀝したが、松寿丸は「この世の中この世の中、棒ほど願うても針ほどしか叶わぬのが人生の常と聞く。日本国全土をと
望んでもせいぜい中国が関の山で、はじめから中国を望んで、なにほどのことがあろうか。」とたしなめたという。



《これらのエピソ−ドについて安芸中納言の考察》

これらのエピソ−ドは岡谷繁実氏の『名将言行禄』に記載されています。これらの話が本当にあったかどうかはさておき(笑)
これらの話を初めて知った小学生高学年時の私は幼年期の元就の利発さに大変驚いたことを覚えています。
エピソ−ドTとVからは杉の大方の信仰深く、慈悲深い人柄を、またエピソ−ドUとWからは幼年期の元就の利発さを
それぞれ感じました。
エピソ−ドVの日輪を拝して念仏を唱えることを生涯の日課としたのは有名な話で、同時に元就自身の信仰心の深さも
見て取ることができるでしょう。
特にエピソ−ドWの話は、山岡荘八著『毛利元就』からはじめに知ったのですが、正直感動しました。(←さすが小学生。
単純!!!(笑))
ですが、大志を抱くことは大切だということを当時の私はクラ−ク博士からではなく、毛利元就から教わりました。

 

製作者:安芸中納言
2001年8月13日


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