読み飛ばしてもらうために行う最大限の努力
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竹宮惠子「漫画の脚本概論」を読む(2012.5.14)
そもそも、竹宮惠子は徳島大学教育学部に籍を置いたこともあり、「つばめの季節」という教育実習をテーマにした作品も描き、
JUNE誌上の「ケーコたんのお絵描き教室」では疑似師弟関係を築くことで現在のBL文化の礎を築くこととなった
教育者の志を持ったマンガ家だ。
それゆえ、2000年から京都精華大学芸術学部マンガ学科教授に就任し、
2006年マンガ学部が設立されるや2008年からは学部長を務めるまでに至ったことは、
ある意味、運命的でもあり、また、非常に納得できることだった。
そして、マンガ家としてはファンの前から長く遠ざかることになってしまった竹宮惠子だが、
数年ぶりの著作として世に問うたのが、この「マンガの脚本概論」である。
7章18講に「Q&A」と「あとがき」代わりの結びの章を加えた9章建てで、マンガの基礎から実践までを、整然と論理的に説明し尽くしている。
いわゆるネームや構成などの「脚本」めいたものばかりではなく、コマ割りや効果線、オノマトペといった「マンガ言語」についても言及する。
また、竹宮惠子は、「マンガ脚本」を具体的に示すために、「CMを4コマで表現する」「短歌を2ページで表現する」といった演習を行い、
学生の作品を添削しながら、マンガ家がアイデアをどう構成し、どう印象的な画面に仕上げるかを、具体的に理解できるようになっている。
講評だけではなく、竹宮自身の模範解答も示されているのだが、これがまあ、なんとも上手い。
竹宮惠子作の模範作品がアイデアからネームを経て、原稿として完成するまでの詳細な解説を見ていると、
その鮮やかな手さばきとともに、竹宮惠子が一つのコマに封じ込めようとしている情報量の多さに圧倒される。
教授としての竹宮惠子は、5W1Hという表現の基本を踏まえて描きなさいと教える。
ところが、同じ短歌を題材にしていても、学生の作品と竹宮作品とでは、31文字の和歌から読み取っている情報が違いすぎる。
しかも、言葉では表現していないが読み取ることができた情報を具体的な映像としてとらえなおし、
自分のアイデアを加えながら、その場面を、どのように伝え、どのように表現すれば効果的に伝わるかを構成し、
また、その浮かんだ像を表現するだけの力を持っている。もちろん、読みやすさを意識したテクニックも駆使する。
そうなのか、マンガ家って、こんなにたくさんのことに気を遣いながら、こんなにたくさんの情報をマンガの中に描いていたのか、
と改めて感動する。 その究極は、冒頭に、さも当然のことといわんばかりに置かれた次の言葉だろう。
読者の意識を滞らせないために、読むスピードが自然と上がるようコマのつなぎ方は工夫され、
その工夫が気付かれないことをよしとします(p10)
つまり、読み飛ばしてもらうために最大限の努力をしろというわけだ。
それにしても、こんなに手の内を全て明かしてしまってよいのだろうかとも思うが、
こうしたことをきちんと学ぶことで、マンガ家を志す人々の水準が上がるのであれば、
竹宮惠子がマンガ学部で教鞭をとった甲斐があったというものかもしれない。
さらりと書かれているようでいて、実は40年を超えたマンガ家生活があってこそできる労作である。
心して読むべし。
京都精華大学
漫画学部ストーリーマンガコースサイト
竹宮学長の本気ぶりがうかがわれるマンガ教育への情熱
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内田樹・竹宮惠子「竹と樹のマンガ文化論」を読む(2015.2.12)
実は、ともに1950年生まれの竹宮惠子と内田樹による対談本だ。
どことなく、タイトルも竹宮の代表作「風と木の詩」を思わせる。
現代思想家であるとともに、24年組少女マンガを含む熱心なマンガ読者であった内田樹は、
少女マンガのトップランナーから大学でマンガを教える側に回った竹宮惠子から、
ほどよい距離感で創作現場や教育現場の実態を聞き出す、良きインタビュアーとなっている。
また、若い才能を積極的に受け容れ、毎週・毎月必ず雑誌が刊行する出版社側の習慣、
新しい表現技法を誰でも使ってよいとされる集合知とも呼ぶべき漫画家側の慣習、
日本のマンガ業界が世界から見て特異な発展を続けてきたことについて、
双方の知識を重ね合わせながら、わかりやすく分析してくれる。
後半、念入りに語られていた京都精華大学マンガ学科のカリキュラムに関する対論では、
そうした作者の側も編集者の側も強い思い入れと勢いのあった時代が終わり、
そこまで丁寧に教えなければならないのかと思わせるほどに、丁寧に教えなければならない時代になってきたことも示唆される。
また、単なる技術の伝承だけではなく、「機能マンガ」(「実用マンガ」を言い換えた竹宮の新語)の開拓など商圏の拡大や、
「原画’」で試みられている原画と同じ状態の複製の作成など原画の保存の視点など、
まさに、前半て語られたマンガ業界の持つ運命共同体的な使命感を体現しているようでもある。
余談だが、別の対談で出た話として紹介されていた大正生まれの7人に1人が戦死していて、
戦後、その世代が担う文化活動が低調となり、明治生まれが担った映画、若い才能を吸収したマンガが先に復活し、
小説が一番遅くなったとの指摘も面白かった。
それはそれとして、「竹宮学長は本気だ」と思わせる力の入った対論だった。
小学館サイト内「竹と樹のマンガ文化論」ページ
増山法恵への謝意にあふれた竹宮惠子の苦い青春記
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竹宮惠子「少年の名はジルベール」を読む(2016.4.17)
今や京都精華大学の学長として、教育者・研究者としても名を馳せる竹宮恵子が、
本格的にマンガ家として活動するために東京で暮らし始めた20歳から、
ライフワークとされる「風と木の詩」の連載が決まった26歳までの7年間を回顧する自伝である。
冒頭、1970年の神保町界隈の描写から始まる。
輪転機の音が響き、大きな紙を巻いた筒を担いだ人が足早に歩く。
黒い自転車が通り過ぎたかと思えば、小さなリヤカーがゆっくりと道路を横断している。(p5)
近年、なかなか見かけることがなくなった仕事と人のかかわりや手ざわりを感じさせる。
締切に追われた「缶詰旅館」で編集者から紹介された萩尾望都との出会い、
萩尾の文通相手で、東京在住の音大浪人生だった増山法恵との出会い、
増山が仕掛ける形で始まった竹宮と萩尾の共同生活、
後に「大泉サロン」と呼ばれるようになる二軒長屋は、増山の実家の目の前にあった。
思いのほかにオンボロだった「大泉サロン」での暮らしぶりやイラスト付きで描かれる間取りや家具の配置などについての記録も貴重だが、
それ以上に驚かされたのは、竹宮惠子と萩尾望都に対する増山法恵の影響力だ。
映画・文学・音楽の豊富な知識と圧倒的な分析力と批評力を持つ増山は、
竹宮や萩尾を美術展や映画を観に連れ出しては語り合い、古今東西の小説を読むように薦めては感想を求める。
増山が薦めてくる小説は、「間違いなく私の琴線に触れた」と竹宮は言う。(p35)
増山は、さらに激を飛ばす。
「まず自分たちにできることをやる方が先だよ。」 「少女マンガを変えようよ。そして、少女マンガで革命を起こそうよ。」(p60)
言い回しはなんとも70年代的だが、増山の思いはよくわかる。
つまり、増山法恵は抜群の表現力を持つ新人少女マンガ家の萩尾望都と竹宮恵子を見出し、
友人として交流しつつ目の届くところに住まわせ、 知識や教養を惜しみなく伝えることで技量を高めさせ、
一度は自ら少女マンガ家となって実現させようと思った少女マンガ革命を 竹宮と萩尾を使って実現させようとしていたのである。
いつしか、大泉サロンはささやななえこや山田ミネコなどの少女マンガ家が集うようになり、
伊東愛子、城章子、たらさわみち、佐藤史生、まだ高校生だった坂田靖子、花郁悠紀子など、
後に少女マンガ家としてデビューすることとなるファンも出入りしていた。
そして、ファンレターの中から大泉サロンに招待するファンを選ぶのも増山の仕事だった。
竹宮は、当時の大泉サロンをこう証言する。
「こたつに入って、こっちではペンを入れているし、2階ではネームを作っているし、誰かがご飯を作って、 誰かと誰かが真剣に話をしている。」(p72)
「理想の環境だ、と思わず胸がいっぱいになったことがある。」(p73)
転機は、竹宮のスランプだった。
もともと石ノ森章太郎好きで量産型で娯楽志向の竹宮恵子は、オーソドックスな話づくりや演出をしっかりと確立しているマンガ家だった。
一方、萩尾望都はどんどん新しい表現や演出を生み出すことで、マンガ家仲間から注目されるようになっていた。
客観的に見れば、コンスタントに週刊連載を続ける竹宮恵子は順調そのものだった。
まだ、月刊の「別冊」が週刊連載するだけの力のない若手の修業の場と見られていた時代である。
「空が好き!」にしても、前後して描かれた短編にしても、今読んでも楽しい作品ばかりだ。
でも、竹宮恵子は過剰に自分のことを悲観していた。 「あれほど反発していた古い型に、自分も陥ろうとしている。」(p135)
すでに、「風と木の詩」の構想はできていた。
ミレーの「ダフニスとクロエ」のポスターを眺めながら浮かんだストーリーは、「少年の名はジルベール」という確信とともに展開していった。
そのまま、増山に電話をかけ、夜10時から8時間しゃべりっぱなしだったというこの電話は、
「風と木の詩」が一晩にして生まれたという伝説として語り継がれている。まだ、大泉サロンが生まれる前のことだ。
しかし、少年同士の恋愛を描く問題作は、そう簡単には実現しない。
「風と木の詩」という目標が定まっていたことも、竹宮の焦りにつながったのかもしれない。
そんな折、竹宮恵子が提案するかたちで、萩尾望都、増山法恵に、山岸涼子を加えた4人によるヨーロッパ旅行を実現する。
当時、ヨーロッパを45日間も旅行することは大変高価なうえに、困難なものであった。
しかし、それだけに、ヨーロッパの本当のところを伝えてくれる情報や資料があまりにも少なかった。
ヨーロッパに足を運び、「実物を知ってしまった私に、逃げ場はなくなった」(p163)と竹宮は言う。
むしろ、本物を見て自信がついたところがあるのではないか。「もう描くしかない。」
萩尾望都を意識することで。竹宮が身体に変調をきたすことは分かっていた。竹宮は大泉サロンを出ることを決意する。
そして、驚くべきは、この時、竹宮はまだ23歳。 大泉サロンでの日々は、わずか2年間だった。
その後、竹宮恵子は、マンガ家としての体力や実力をつけ、ようやくスランプを脱した。
相性の良い担当編集者とも出会い、長期連載「ファラオの墓」も成功した。
ようやく「風と木の詩」の連載にこぎつけたのは、1976年、竹宮惠子26歳のことである。
大泉サロンを出る時、竹宮は増山を誘った。
もともとテクニックで器用に娯楽作品として仕上げるマンガ職人だった竹宮恵子は、
少年マンガ育ちで根本的なところで少女マンガになじめないところがあった。
それゆえ、(少なくとも、当時の)竹宮恵子には、少女マンガとしてのあるべき方向を指し示してくれる増山法恵が必要だったのである。
増山法恵は、竹宮恵子を献身的に支えた。
マネージャーという肩書だったが、 作品作りにかかわるプロデューサーに近かった。
「風と木の詩」にしても、竹宮が語るストーリーに増山が問いを投げかけ、
それに対してさらに竹宮が答えるという形でアイデアが膨らみ、出来上がったものだ。
実は増山が原作だった「変奏曲」については、
竹宮恵子のイメージに傷がつくという理由で、増山のマネージャー時代には自分が原作者であることを明かさなかった。
夢を壊さぬようサイン会にドレスアップをすべきと提案したり、ファンクラブの組織化など、
竹宮恵子のイメージ作りにも増山が力を尽くしていた。
当時の「少女マンガ家・竹宮恵子」の半分以上は、増山法恵から出来ているのではないかと思わせるほどだ。
この本については、萩尾望都との対比ばかりを取りざたされるが、
むしろ、増山法恵の仕事を正しく紹介することに竹宮恵子の力点があるように見えた。
そして、終章に置かれた「大学でマンガを教えるということ」からは、教育者の立場になったからこそ、自分たちが若かった頃のことのことを、
それも、高い理想を求めて仲間たちと刺激し合う日々を送り、高い理想を持っていたからこそ苦しむこととなった日々のことを積極的に語りたい、
という竹宮恵子の意気込みが見てとれた。
それゆえ、この本は、やはり竹宮教授が著したマンガ学科の学生のための教材であり、
すべてのマンガ家を目指す若い人たちに向けられたメッセージでもあるだろう。
少女マンガ研究をする上では、BL前史を研究した石田美紀「密やかな教育」や
24年組とは別の流れを編集者の立場から記述した小長井信昌「「わたしの少女マンガ史」と あわせて読んでほしい一冊と言えそうだ。
小学館サイト内「少年の名はジルベール」ページ
「少年の名はジルベール」を経て到達した冷静な自己分析
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「竹宮惠子 カレイドスコープ」を読む(2016.10.23)
私が、しばしば言うところの「昔の<ぱふ>みたいな本」だ。
先に発表した「少年の名はジルベール」が竹宮恵子の「心の負の歴史」であるとすれば、
こちらの「カレイドスコープ」では竹宮恵子の「輝かしき成功体験」を、惜しみなく詰め込んでいる。
いわゆる「スランプ時代」についても、
「少年の名はジルベール」では当時の記憶をたどりながら自己否定的な感情を腑分けして見せていたのに対し、
「カレイドスコープ」では、もう少し客観的に、あるいは冷静に評価している。
あえていえば、先に「少年の名はジルベール」を上梓していたからこそ、
心おきなく「竹宮恵子 カレイドスクープ」に取り組むことができたと言えそうだ。
美しいカラーイラスト、カラー作品のフルカラーでの再録(実は貴重)に始まり、
竹宮恵子とファン代表で作家の原田マハとの特別対談、60ページ・40数作に及ぶ竹宮本人による自作解説、
「密やかな教育」の石田美紀による評論「竹宮恵子の少女たち」、
美少年図鑑などの企画ページ、年譜、全作品リストなど、お決まりのメニューだけでも十分に豪華だ。
それ以上に貴重なのは、衝撃で迎えられた「風と木の詩」の冒頭14ページを
1971年のクロッキーノートと1976年に発表された原画を 2ページずつの見開きで対比していることだ。
というのも、「風と木の詩」を構想し始めた当時の1971年に描き始めたクロッキーの時点で、
すでにジルベールやセルジュのキャラクターが固まっていることはもとより、
ネームやコマ割り、人物の配置といった構成の部分に至るまで、一部の端役を除いて、そのままペン入れしたかのように発表原稿に活かされていた。
それほどまでに、竹宮恵子の中での「風と木の詩」のイメージは、
1971年に描き始めたクロッキーの時点で揺るぎなきものであったということだ。
それにしても、「年譜」のタイトルが、「革命だよ、人生は!」とされていたのには驚いた。
「全共闘」とか「革命」などという言葉は時代とともに封印されたと思っていたのだが、
うんと若い世代が編集することで、一周回って「革命」という言葉や竹宮恵子の「少女マンガ革命」な生き方が
オシャレになったということなのだろうか。
それと、なんかなあ、竹宮さんの近影が小さくなった感じで、
たぶん40年くらい前の、まだ竹宮さんが20代のころから見てきたから、
たった一度だけ、サイン会でお見掛けしただけなのだけれど、ともに年齢を重ねてきたのだな、と勝手に共感していたのだった。
ファンの身勝手ではあるのだけれど。
新潮社サイト内「竹宮惠子 カレイドスコープ」ページ
京都国際マンガミュージアム「画業50周年記念展 竹宮惠子カレイドスコープ」ページ