「落語の国」の合理性から、現代社会を見る
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堀井憲一郎「落語の国からのぞいてみれば」を読む(2009.11.28)
タイトルを見ただけでは何のことかはわからないが、読んでみると見事にタイトルどおりの本である。
「落語の国」、それは落語の舞台となっている江戸末ごろの日本である。
「のぞいて」見られるのは現代日本の私たちの暮らしである。
つまり、江戸末ごろの日本人の生活は、今の日本と比べて、どこがどう違うのだろうか、ということを描いた本なのである。
そんなころの日本人の感覚なんてどうやって調べるのかという問いには、答えは落語の中に残されているというのが著者の主張である。
「昼と夜とでは時間は違う」という章がある。
確かに、日の出と日没の間を6等分する「落語の国」では、昼と夜では一時の時刻が違う。
今の時代に暮らす私たちの感覚からすれば理解できない世界だ。
しかし、電気のない「落語の国」では、人々は太陽に合わせて暮らしている。
たとえば、旅立ちは、しばらく歩いて夜明けを迎えるくらいの時刻がいい。
つまり、いまだと「夏なら3時、春と秋は4時、冬だと5時に旅立ちましょう」 と言わないといけないが、
昔の言い方だと「旅は七つに立て」で済む。
なるほど。
「落語の国」も、「落語の国」なりの常識と合理性で生きている。
今の感覚だけが正しいと思い込んでいる身には、目からウロコである。
年齢も名前も結婚も、個人の視点で語られる現代は自由でいいが、その分、責任が重い。
なぜ、個人ごとの誕生日が必要なんだ。正月にみんなで1歳ずつ年をとればいいじゃないか。
名前は先代から受け継ぎ、隠居すれば次の代に譲るもの。
結婚相手は誰かが世話してくれていたのに、自分で相手を探せと言われるからあぶれる人が増えるのだ。
「落語の国」には外から決められた約束事が多いが、それでもいきいきと暮らしていた。
個人という近代の病に疲れたら、そうじゃない生き方もあるんだよ、と教えてくれるようでもある。
著者の堀井憲一郎は、京都出身で大学から東京に移ったライターである。
高校までは上方落語をしっかり聞いたうえで、今は江戸落語につかっているらしい。
巻末につけられた詳細な参考文献と落語解説も読み応えがある。
さすが、「ずんずん調査」の著者というところか。
講談社サイト内「落語の国からのぞいてみれば」紹介ページ
Wikipedia堀井憲一郎ページ
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