「異界の伝達者」が描く異界の物語

                                  ―――― 森山東「お見世出し」を読む(2005.4.10)
第11回日本ホラー小説大賞において「本来ならば大賞となってもおかしくはない」(1)短編賞を受賞した
森山東の作品集「お見世出し」を読みました。
受賞作である表題作に書き下ろ し2編を加えた短編集で、3編とも京都の花柳界とその周辺を舞台にしています。

著者の森山東は学生時代の友人で、やはり小説を書いていました。
当時から老成した作風で、多彩な形容を粘り強くつなげていく描写は、現在の彼にも通じるものがありました。
その分、けっして若々しくはなく、達者で読ませる作品を書くのだけれど、
時代の気分を体現する青年作家
(2) として颯爽と登場することだけは、絶対にないだろうと評してお りました。
けっして若いとはいえない年齢になってのデビューは、はからずもその予言が当たったことになりますが、
逆に、文体と人生経験がなじんできたということなのかもしれません。

それはともかく、最初に読んだ印象は「これはホラーなのか」というものでした。
ホラー小説を読む習慣がない者がホラーを語ること自体おこがましいのですが、私の中でのホラーのイメージというと、
日常生活の中に異界の者が闖入してきて、私たちが常識だと信じていたものを揺るがし、
当たり前の世界が当たり前でなくなってしまうことで恐怖心をかきたてる物語というものでした。

ところが、この作品集は私がイメージしていたようなホラーとは違っていました。
確かに、人は死にます。霊も出てきます。
しかし、異界の者に呪われたり、美しいヒロインが泣き叫んだり、邪悪な者を死闘の末に倒したり、倒したと思ってもまた復活してきたり、
最後に平和が訪れて村人が感謝する中をヒーローが去っていったりはしないのです。(それは、違うだろう。)

それでも、作品全体を通じて薄気味悪さというか居心地の悪さというようなものが常に底に流れており、
その拭いきれないイヤな感じが、小説の世界と私たちが住んでいる世界がどこかで違っていることを教えてくれます。
その「どこか」が何であるかがわからないことが、ますます居心地を悪くさせ、作品を謎めいたものにしているのです。

例えば「お見世出し」における薄気味悪さの「犯人」を、不幸な死をむかえた舞妓・幸恵にしてしまうのはたやすいことでしょう。
しかし、それにしては幸恵にかかわった人たちの「常識」が、それほど揺るがせにされているようには見受けられません。
確かに奇怪な事件が起こってはいるのですが、その奇怪さの割には、彼らはそのことをどこか当たり前のことのように見ているのです。

むしろ、このイヤな感じの正体は、確かに事件が起こり、人が死んだり霊になって現れたりしているにもかかわらず、
そんなことなどおかまいなしに当たり前のように暮らしている主人公たちの揺るぎなさの方にあるのです。
つまり、森山の作品は私たちの世界の中に異界が闖入してくる物語ではなく、
物語の世界の方がすでに異界にあるという物語であったわけです。
このことは、「お見世出し」において、物語の世界の住人である語り手の外側に、
話を聞く客という私たちの世界の側の人物を置いていることでもよくわかります。

とはいえ、「私たちの世界に闖入する異界である物語」というのも、簡単に見えて容易ではありません。
仮に大変優れた「もう一つの世界」を創造した作者が賞賛されるのは、ホラーとしてではなくファンタジーとしてでしょう。
だから、創造された異世界が何らかの恐怖心をもたらすとためには、その異世界が確かに私たちの暮らしている場所とつながっており、
ひょっとすると私たちのすぐ隣にやってくるかもしれないという可能性を感じさせる必要があるのです。

そうした点で京都の花柳界というのは、異界であるための条件をクリアするには適切であり優れた題材であったといえるでしょう。
「一見さん、お断り」に代表される敷居の高さ、いつの時代から受け継がれているのか想像もつかない独特の伝統や習慣、
そんなことからいつしか京都の花柳界は、お金持ちの粋人だけが享受することができる秘密の世界であるというようなイメージがあります。
新幹線の京都駅を降りればそう遠くない距離に現実に存在しているにもかかわらず、です。

そんな京都の花柳界だからこそ、どんなにありえないはずの物語も当たり前に起こっていそうに見えてしまうし、
私たちが知らないだけでもっと恐ろしい事件がおこっているに違いない、そんな思いにもさせてくれます。
京都の花柳界は、見事に私たちの世界に闖入する異界であるのです。

ならば、私たちにとって異界であるのは、何も花柳界だけに限定されません。
「ぶぶ漬けでもどないですか」を早く帰れと悟らねば常識がないとされたり、
「このあたりは、前の戦で焼けた」という「前の戦」が応仁の乱だったり、
いずれ去っていく学生には優しくするが永住しようとすると突然態度が冷たくなったり、
仮に伝説であるとしても伝説として語られるほど頑として京都だけに通用するルールがあって、
しかもそのルールをけっして曲げないという京都の独特の「底意地の悪さ」のようなもの
(3) を考えるなら、
京都という街そのものが、私たちにとっては現存する巨大な異界といわざるを得ません。

つまり、森山東の作品をホラーとして成立させる源泉は、京都そのものにあったのです。
この普段はおとなしく歴史を売り物にしている観光都市は、
その歴史ゆえに異界であり、私たちの暮らしを揺るがせにする恐ろしい地であったのです。
 
ご存知のとおり、森山東は京都に生まれ育った人間です。京都がどんな街であるかは百も承知です。
つまり、森山氏は異界の中心に生まれ育った異界の伝達者なのです。
「リアル森山東」を知る人からはエログロで敬遠された「呪扇」がスケールの大きい話として玄人筋には評判が良いのは、
実は荒唐無稽としか言いようがないこの物語を京都という異界が支えているからに他なりません。

そうでなければ、「ところで、呪扇って、本当にあるんか」などという問いを、かなり本気でなされたという事実をどう理解すればよいのでしょうか。



   (1) 「お見世出し」の魅力(高橋克彦)・第11回日本ホラー小説大賞選評(「お見世出し」・角川書店・2004・197p) 
         その一つ前の荒俣宏の選評に「古臭いが、二十年前の埋もれた小説誌にふと見出した発掘品、といった手堅さがあった」とあり、苦笑してしまった。
         二十年ばかり前の森山も、古臭いが手堅い純文学を書いていたからだ。

  (2) 当時で言うと、春樹・龍のW村上や田中康夫あ たりだろうか。
  (3) イケズというもっと的確な表現があることを、 「イケズの構造」(入江敦彦・新潮社・2005)という本が教えてくれた。 




    垣間見せる物語を紡ぎだす力

                      ――――森山東「デス・ネイル」を読む(2006.8.2)


森山東の第二作品集です。
主に京都の花街を題材にした第一作品集に対して、今回は「京都」を禁じ手にしたかのように、
ネイリスト、ペットの熱帯魚、学童保育のキャンプと、より私たちの生活に近いものを題材にしています。
最後の「感光タクシー」は一応京都を舞台にしているのですが、題材は修学旅行なので京都ネタを使ったとまではいえません。

新進作家・森山東が「京都」を使わずにどこまで書けるのか見極めたい、と考える編集の意向もあったのでしょうか。
善意に解釈すれば、より大きく育てようということなのかもしれません。
それはともかく、得意技である「京都」という衣装を脱がせることで、
森山東という作家の本質をはっきりと見せてくれる作品集になりました。

表題作の「デス・ネイル」は、主人公のネイリスト養成学校への入学から、さまざまな人々との出会いを経て
カリスマネイリストへと上り詰めていくまでの成功譚を、森山東は流れるように読ませてくれます。
まったく予備知識がない者にもネイリストの世界を興味深く伝えてくれるし、
周辺に配した脇役の魅力もあって主人公の成功を素直に喜びながら読み進めることが出来ます。

しかし、この作品はホラーであり、
腰巻の表現を借りれば「カリスマネイリスト・奈々子に襲いかかる「死神の爪」の恐怖!」という物語です。
「恐怖!」の側の物語が始まる51ページまで読み進めたときの私の正直な感想は、これはもうこのまま終わってもいいじゃないか、
わざわざホラーにしてしまう必要があるのか、せっかく丁寧に作り上げられた世界なのに
ホラーによって乱暴に破壊してしまうのはのはもったいないんじゃないか、というものでした。

本格的にホラーの世界が始まる後半部分は文体もいくぶん変化しているようだし、
文章そのものよりも踏み込みの大胆さで読ませているように感じられました。
本編部分と特撮部分がつなぐことで一本の作品となっている「ウルトラマン・シリーズ」のような、と申しましょうか。
(時おり、本編部分が妙に大人向きに作りこまれているせいで、特撮部分が浮いてしまう異端の作品もあったと聞きます。)
両方あわせて一つの作品であることはわかっていても前半の出来が良かっただけに、ことさら継ぎ目が気にかかってしまうのでした。

つまり、「デス・ネイル」は、ホラー作品としての評価はともかくも、
ネイリストの世界を取材し、そこで発見したものを再構成しながら魅力的な物語に紡ぎなおしたという点では、
大変評価することができる作品であるということです。
「お見世出し」「お化け」で描かれた花街の世界も、「呪扇」で描かれた扇子職人の世界も、
その綿密な取材を再構成することから出発したものでした。
そうした事実から物語を生み出すという小説家としての基礎体力の強さが森山東の本当の魅力なのであり、
「京都」や「舞妓」はもとより「ホラー」というスタイルさえも、
その上に重なる単なる衣装にすぎないのではないかと感じさせてくれるのでした。

ちなみに、森山とその家族らしき人物が登場する二作は、やはり、どことなく家族に対する遠慮が感じられました。
「こんなことを書いているけれど、本当は家族のことを愛しているんだよ」
というようなマイホームパパとしてエクスキューズが、筆の勢いを鈍らせてしまっているようです。
最後の最後にハッピーエンドに仕上げた「感光タクシー」は、
最後の最後にバッドエンドにしてしまった「デス・ネイル」と 好対照の作品といえましょう。
誤解かもしれませんが、森山の中のハッピーエンドへの欲望が、「感光タクシー」にあのような決着を付けさせたようにも思います。

というわけで、京都を封印するという森山東の実験から、私が得られた結論は次の二つです。
 ・森山東は単に京都や花街を魅力的に描くだけの作家なのではなく、取材を再構成することから魅力的な物語を紡ぎだす本格派の作家である。
 ・しかし、その力を発揮する場所をホラーという世界に限定することが森山東にとって本当によいことなのだろうか。

はたして、この二つの発見がどの程度妥当なものかはわかりまんが、
とりあえず、検証の意味でも、森山東の次回作を楽しみに待っていたいと思うのでありました。


  

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