・ 初出1981.11.6.NECO1号。書き直したいのはやまやまだが、やたら多い句読点とともに、そのまま書き移した。あまりにも言いっぱなし の部分が多く、現在手に入りにくい作品にもふれているため、念入りに註(というか言い訳)をつけた。註はすべて、1999年現在のものである。
註をつけるにあたって、単行本情報を中心にインターネット上のさまざまなページを参考にした。
少女漫画におけるメガネキャラクターの研究―メガネの人格と役割期待に及ぼす影響 (上)メガネキャラクター、要するにメガネをかけている登場人物のことなのだが、少女漫画などを見ていると、メガネをかけた人間が出て来て、かなりいい仕事をしているのに出くわす。それも、メガネをかけている人物に共通した、メガネキャラクターならでは、というような場合が多い。作者の方とて、わざわざ、そのキャラクターにメガネをかけさせたわけであるから、彼らがメガネをかけていることには何らかの意味があると考えていい。そこで、少女漫画に出て来るメガネというものの意味について、少しばかり考えてみたいと思うのである。少女漫画に限定したのは、私自身、少年誌をほとんど読まないということもあるが、なにより、それらの場では、メガネは肯定的に描かれないということがある。動きの中で人間をとらえることの多い少年誌等においては、メガネキャラクターは必要とされないのだ。 (1)(2) (1) このあたりに、清原なつの「青葉若葉のにおう中」(1977/「花岡ちゃんの夏休み」・集英社RMC140・
1979・ p135)の「星がいっぱい だね」「そう星の数ほど男はおるのだ」のカットがあると思ってほしい。同人誌当時は、無断コピーの画像を平気でバンバンと貼って いた。以下、当時のカットについては、同じ表現をする。
1. メガネキャラクターは主人公になれない。メガネキャラクターを見ていてまず気づくのは、彼らが主人公になっていないということである。理由は簡単。メガネをかけているというのは普通じゃないからである。健全な少女たちがページをめくりながら一喜一憂する健全な少女漫画においては、主人公は読者と同じようなそこら辺にいる女の子でないといけないのである。おもしろい例がある。人気の「はみだしっ子」シリーズ、当初は「仲間以外は誰にも理解されない家出少年たち(それも10才に満たない)」の話だった。 彼らは一般の少女たちにすれば可哀相な子だったわけで、グレアムは片目で、アンジーの右足は重かった。ところが、「両親との衝突」などのテーマが読者の共感を呼ぶようになり、人気も出てくると、アンジーの足は訓練の末に回復し、グレアムの目も(皮肉にも最後まで理解しあえなかった父の角膜によって)甦るのである。そうやって彼らは、一般の少女たちに近づき、人間不信の中で生きる子供という役割に専念するのである。 (1) 話を元に戻そう。メガネをかけたことのない大多数の少女たちにとって、メガネ、メガネをかけた状況、メガネをかけねばならぬ状況、というのは、まるで想像のつかぬ世界である。しかも、メガネをかけている人間は、それを体験しているという証明書を鼻の先につけて歩いているのだ。当然のこととして、そのような人物は、ある種の羨望、好奇の目とともに、小さな違和感(「別のもの」という意識)で迎えられるようになる。 従って、メガネキャラクターは基本的に主人公になれない。主人公になっている場合もないわけではないが、極めて少数である。後でまた述べるが、もしメガネキャラクターが主人公になった場合、その主人公には特別な意味付けがされているのが常である。メガネに対するコンプレックスそれ自体がテーマになっている「うるわしのメガネちやん」(くらもちふさこ) (2)は良い例だろう。ただし、今の世の中、メガネをかけていることくらい、さほど変なことではないので、逆にそのあたりをうまくついたのが、酒井美羽(「通り過ぎた季節」シリーズ)ということも言えるだろう。 (3) (1) 「はみだしっ子」シリーズは、三原順の代表作(1975-1981)。白泉社から13巻のコミックス、5巻の愛蔵本などがでている。当初の 設定は、それぞれの事情で親から愛されることのなかった4人の子供たちが自ら家を飛び出し、「ホントに愛してくれる人」を求めて、 あたりまえの子どもらしい暮らしから「はみだし」て生きる物語であった。彼らの身体的ハンデは、彼らが愛されることのなかった徴(し るし)であるとともに、「はみださ」ざるをえない彼らと一般の読者との距離を指し示す指標となっていた。ところが、連載が進むにつれ て、彼らの「はみだした」生活や葛藤が読者の少女たちの共感を受けるようになると、身体的ハンデが必ずしも必要な設定ではなく なっていく。そして、共感する読者の視線を受けた彼らは、(4人の仲間以外を信じない「はみだした」生活と現実社会とのおりあいをつ けるという物語の展開の上でも重要な意味をこめながら)自らのハンデを克服していくのである。そのことによって彼らは、文字どおり 「はみだしている」のだけれど、むしろ、そのことだけで十分多くの少女たちの共感を生んだ子供たちとなった。
2.メガネキャラクターは醒めている主人公になる道を絶たれたメガネキャラクターたちは、必然的に醒めた目をというのを与えられる。醒めているというのは単に感情的にならぬことではない。事件に対して第三者であろうとすること、そして、第三者としてそれを見極める独自の価値体系を持っていること、この二つが必要である。メガネキャラクターは、そのどちらをも持つべき宿命にある。第三者の反対語は何か。当事者である。当事者とは主人公に他ならない。主人公として登場した人物はもちろんのこと、他のメガネをかけていない登場人物も全て、主人公になりうる可能性をもって行動している。彼らは主人公になれるからだ。たとえ一場面であっても、読者からの支持を得て状況の主人公になるべく行動している。みんな己が主人公であると思ってせめぎあうというすさまじい人間ドラマさえある。 (1)ところが、メガネキャラクターは主人公になれない。なれないものだから、めったなことがない限り、主人公じみた行動はしない。したところで、読者からは他者としてしか認められないのである。彼らにとって事件は、「窓のとおく」の出来事に過ぎない。彼らは、「ガラスの向こう側の安全なところから」見つめているのだ。 (2) 従って、メガネキャラクターは、当事者たり得ないわけであるが、そうかといって群衆に埋没してしまうこともない。彼らは、常に「別のもの」として注目されている存在でもあるのだ。「別のもの」である限りは、主人公やその他のどうでもいい連中とは違った行動様式を持っていなければならない。そうでなければ、彼らはわざわざメガネをかける必要はないのである。 彼らは、時として全てを知りつくしながら、問題解決の役割を、他の者に譲り渡してしまうことさえある。「トーマの心臓」(萩尾望都)において持ち上がった事件は、トーマ・ヴェルナーの死である。ストーリーは、その死の意味が明らかにされ、「天使の翼」を失ったユリスモールが、トーマの愛によって救われ、もう一度ただの人間として再出発するまでが描かれている。そこにおいて、結局ユーリにトーマの死の意味を理解させることができたのはエーリクだった。そして、その愛を受けとめることが間違っていないことを知らしめたのは、オスカーだった。しかし、彼らよりも先にトーマの愛に気づいていた人間がいた。レドヴィである。彼は知っていたが何もしなかった。「人間なんて、もともと罪深くできてるんです。」そう言って、小さな盗みを繰り返すのみだった。本を贈ったのも、全てカタがついた後でのことなのだ。彼がユーリの苦しみの原因を知らなかったからだといわれるかもしれない。しかし、トーマだってそのことは知らなかったのだ。 (3)(4) ところで、この話にはもう一人印象的なメガネキャラクターが登場する。バッカスである。彼とオスカーの行動を比べてみるのもおもしろい。オスカーは、ユーリがリンチを受けたことを知っていた。だから、何とかユーリを前のユーリのようにしてやりたいと思っていた。一方バッカスも、ちょっとしたきっかけからその日ことを調べ始めた。しかし、彼はユーリに何も働きかけようとはしなかった。自分ではどうすることも出来ないのを知っていたからだ。この「この上なく彼らしい」行動は、オスカーをイラ立たせるが、そのイラ立ちの真の原因は、オスカー自身も待つことしかできないことにある。結局同じ位置にいる二人の違いは、主役級と脇役の違いであり、普通のキャラクターとメガネキャラクターの違いなのである。 このように、主人公になれず、なおかつ醒めているという性格を持たされたメガネキャラクターは、どんな場所で活躍しているのだろうか。そのあたりのことについてもう少し、書いてみたい。 (1) 「みんな己が主人公であると思ってせめぎあうというすさまじい人間ドラマ」と書いているが、今読むと何を念頭においていたのかよ
く分からない。後の流れからみると、「トーマの心臓」を意識していたのか。本来なら脇役であるはずのオスカーが読者の熱い視線を 受けながら、いわゆる主人公的位置にあるユーリやエーリクと交錯するドラマは、「みんな己が主人公であると思ってせめぎあ」ってい るようなものだ、と言いたかったのだろうか。現に、オスカーは後に「訪問者」(1980/萩尾望都・「萩尾望都作品集8・訪問者」・小学 館・1985)で主役をはっている。
3.メガネキャラクターは何になれるのか(1)---愛すべき仲間たち前にも少しのべたように、主人公たちは、常に他の登場人物たちからその地位をおびやかされている。主人公たちは、どの人物といる時も、より強く自分を印象づけさせるべく緊張しておらねばならない。強い友情と呼ばれるものもこの範疇に入るくらいで、それ自体否定的なものではないが、緊張してばかりでは精神衛生上よくないので、どこかに気のゆるせる人間が必要になってくる。この役目を果たすことができるのが、メガネキャラクターなのである。このような、ある種宦官的でさえある特権によって、また、その独特の個性をアクセントとすることによって、メガネキャラクターは、主人公グループになくてはならない存在となるのである。「精霊シリーズ」(萩尾望都)のカチュカ、「ユーティシリーズ」(成田美名子)のヤマザキさん、吉田秋生の色々の作品に登場するブッチ(「カリフォルニア物語」で時折見せるシリアスな面は、ここではあてはまらないだろうが)など、これらの人物は、実に愛すべき人物として存在している。ただし、「愛すべき」という言葉の裏には、「主人公として見られていないメガネキャラクター」という面が含まれていることを忘れてもらっては困るのだが。 (1)(2) 異性関係でもこのようなことが起こりうる。相手がメガネキャラクターであるがゆえに、まるで恋愛という雰囲気でなく男女関係が成り立ってしまうのだ。「ジョカへ…」(大島弓子)のピエロとジョカ、「キャベツ畑でつまづいて」(和田慎二)の岩田慎二とエコ、「青葉若葉のにおう中」(清原なつの)の宮嶋桃子と金之助など、いずれの場合も、前のメガネキャラクターたちは、後の主人公たちにとって、恋愛の対象というより、良き仲間として、彼らのストーリーに彩りを添えているのである。 (3) もっとも、男性主人公に、女性のメガネキャラクターという組み合わせの場合、最終的に結ばれてしまうこともある。「ヨハネが好き」(大島弓子)のやすべえとヨハネがそうで、これは、少女漫画の中での男性主人公というものが、(いわゆる「少年」を除くと)恋におちるためにあるからだとも言えるだろう。誰もがあこがれるヨハネと「別のもの」たるメガネキャラクターのやすべえとが結ばれてしまうことは、それを読むあらゆる普通の、そして自分ではやや普通じゃないと思っている少女たちに希望を与えることになるのだ。 (4)しかし、「ぼくの中のアリスへ」(清原なつの)の静御前のように、主人公が別の女性に目を向けてしまった場合は、しっかり失恋という風になることもあるわけだ。 (5) 繰り返しになるが、彼らは皆「愛すべき」という、最高に主観的な感情に客観性を持たせる助動詞をつけた言葉で包み込まれることができるように、他人まかせの主観的支持を受ける人物である。(6)この他人まかせという面が強くなってくると、彼らは読者からさほど期待されぬ存在になり、主人公からやや距離を保ったところから登場してくることになる。 (1) カットは3点。まず、吉田秋生「カリフォルニア物語」(1978-81/小学館叢書「カリフォルニア物語1」・小学館・
1989のp268)、ブッチと ヒースのかけあいの場面。 本文での「色々の作品に登場する」という表現は、デビュー直後から断続的に発表された「楽園シリーズ」 (1977-1982/
「夢みる頃をすぎても」・小学館・ 1983)の猿渡基が、ブッチと同じような(スター・システム的な)キャラクターであること を指していたのだろう。
4.メガネキャラクターは何になれるのか(2)---傍観者としての忠告者
忠告者であるには、その問題についてより高い次元でものを見れる冷静な人間であり、その問題を正しく分析できる能力と、強い説得力を持たねばならない。メガネキャラクターは、これにも適役である。彼らは醒めた目を持っているし、知的である。(このことについて註釈は不必要だろう。メタルフレーム出現以前の(?)メガネキャラクターのイメージは、無能な秀才かイヤミなガリ勉かしかなかったのであるから) (1)これに、年長などの説得力を持たせる要素を加えれば、彼らは立派にその役目を果たしてくれる。 ただし、メガネキャラクターでなくても、冷静な人間はいるわけで、忠告者という役割はメガネキャラクターの専売特許ではないのだが、メガネキャラクターの忠告者の場合、他とは際立った特徴がある。それは、彼らの本質が傍観者であることだ。彼らが忠告するのは、(言葉は悪いが)彼らが鑑賞する作品をよりおもしろく、より望ましい方向へ進めたいがためなのであって、自分が何もしなくてもおもしろい事件が鑑賞できるのならば、彼らは何もしない。このことは、パスカル(風と木の詩・竹宮惠子)しかり、月夜麿(摩利と新吾など、木原敏江)しかり、前述のバッカスしかりである。 (2) しかし、これの最も典型的な例は、「ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ」(大島弓子)のポルフィーリィ判事であろう。この作品は、言うまでもなく「罪と罰」の漫画化であって、彼の役どころは、まさに「傍観しつづけることによって忠告しつづける忠告者」である。 (3)そして、彼は、原作においては「背は中背よりやや低く、肥って幾らか腹の出張った男」(新潮文庫版)(4) とされているにもかかわらず、やせた長身の「メガネをかけた」人物として登場する。この原作と異なったイメージは、当時のロシアの社会状況や感覚からすればおかしなものかもしれないが、それだけに、彼というキャラクターに対しては、かなりリアルなものになっている。忠告者としてのポルフィーリィが、その役割なり、イメージなりをもとに再構成されるならば、十分な必然性をもって、やせた長身のメガネをかけた人間として登場してくるのである。 また、時として彼らは、忠告者というよりも、まるっきり演出者として登場することがある。というのは、当事者の方に問題が起こっているという意識が希薄で、忠告なり演出なりを必要としているのが、もっぱら彼らを見つめている忠告者の方である場合があるのだ。 海堂茗(さようなら女達・大島弓子)は、館林毬に対して、その兄の代用とも、真実ともつかぬ好意を持っていた。だから、毬の漫画の「でたらめ」なラストシーンを見て、それを再現した。そして一言。「ふん。あんたまだ全然めざめていないわ。」この、突然の額へのキスと「人間へのボウトク」とまで言った彼女の言葉は、毬を当惑させるが、それがなければ、毬は一生、何故自分が応募作品コンテストに落ちたかわからなかっただろうし、もちろん、茗の好意にも気づかなかったに違いない。 (5) また、人ぎらいなはずの(この言葉は、メガネキャラクター、もしくは少女漫画全体の、自閉的という一つの側面を、端的に表している。)ホルバート・メチェック(変奏曲シリーズ・竹宮惠子)が、エドナンに特訓を施したのは、よい音楽を得たいという彼自身の欲求のなせる技だろうし、「緑茶夢」シリーズ(森脇真末味)の中核をなすスランは、マネージャーの水野の演出(忠告、マネージメント)が動かしているバンドだと言ってかまわないだろう。 (6) このように、主人公に対するライバルたりえないメガネキャラクターは、主人公たちが身を置くストーリーの流れから少し離れた所に立つことができ、そこから流れを遠目に眺めて、主人公たちに忠告、あるいは、それに近いような何らかの働きかけをすることがある。その一方、彼らが主人公に何ら働きかけない場合も考えられる。別の流れとしてあるメガネキャラクターに、主人公の流れの方が近づいて来る場合である。 (1) 全く不必要な一文だったが、当時は、黒ぶちフレームがマジメで、銀ブチがカジュアルだった。
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