・ 初出1982.2.1.NECO2号。註はすべて、1999年現在のものである。 少女漫画におけるメガネキャラクターの研究―メガネの人格と役割期待 に及ぼす影響 (下)5.メガネキャラクターは何になれるのか(3)---独立した世界の所有者たち醒めているメガネキャラクターとか、第三者的なメガネキャラクターなどと言ってきたが、第三者的にしきれない部分、当事者としてありたい部分に関しては、逆に、極端に神経質になってしまうものである。メガネキャラクターたちは、主人公のようにどんなものに対しても自分をうちこんでいく権利がないかわりに、自分自身の人生観にもとづく、自分だけの独自の世界をもつことができた。 (1)そして、事の大小はあれども、これこそ彼らにとってまさしく当事者たるべきことである。ホルバート・メチェックにとってのギリシャ語の「覚え書」 (2)という具体的なものである場合もあるだろうし、アイルショー(D班シリーズ・坂田靖子)にとっての「脚本を書くこと」というような抽象的なものであってもかまわない。 (3) テオ委員長(小鳥の巣・萩尾望都)にとって、現代科学を信じること、バンパネラなどというものは存在しないということ、というのもその一つと言える。バンパネラたるエドガーとアランはそれを侵したわけだが、テオが彼らに対して持った恐怖は、他のものが持ったような半ば宗教的なものではない。彼自身が現代科学を否定せざるをえないことへの恐怖なのである。だからこそ、彼は、二人の胸に杭をつきさして彼らがバンパネラであることを自分から証明してしまうより、「もうアメリカからがどうなってもいいから」自分の目の前から消えてくれることの方を望んだのだ。そのためなら握手をするぐらいは平気だ。 (4)そして、この後彼は、(「ランプトンは語る」で明らかにされるように)秘かに血液の研究をしている。(5) それは、彼自身の世界である現代科学をバンパネラの存在から守るための研究である。バンパネラについて彼なりの結論づけをできるようになるまで彼は安心できない。その日が来るまで、彼は、たった数ヶ月間彼の世界を侵したものと闘うために、その一生涯を費やすことになるのだ。 これらとは少し違うかもしれないが、大島弓子の描くところの中年男性もまた、独特の世界を有している。 (6)彼らは、主に主人公の父、あるいはそれに類するもの(母の再婚相手とか、飼い主の家の主とか)として登場し(7) 、典型的な小市民として、つまりはある種「典型的父親」(当然、彼の妻は、「カッポーギ」か「若くて素敵な」という典型的な母親だ)として主人公たちに働きかける彼らは頑固である。その頑固さゆえに、「ささやか」という形容詞がふさわしい彼らの生活、仕事、家族、とりわけ妻をかたくなに愛している。それらのものは、彼らにとって至上であり、何物にも換えがたいものなのだ。このような彼らの態度は、若い主人公たちの行動と衝突しがち、否、主人公たちは、彼らの世界を犯しがちだ。当然、彼らは世界を守ろうとするが、守りきることはあまりできない。何といっても、その主人公たち自体彼らにとっての大事な世界なのである。 (1) このあたりには、倉多江美「黄楊の木」(1975/「ジョジョの詩」・小学館・1977のp8)のジョジョとその飼い犬ソックスのカットがあると 思ってほしい。ちなみに、メガネをかけているのは犬のソックスで、この犬は「恐ろしいめにあうとすぐに失神するので番犬としてはあ んまり役に」たたない、という設定。端役だが。
6.メガネキャラクターは何になれるのか(4)---主人公であるための条件
メガネキャラクターの主人公というと、まず出てくるのは、「花岡ちゃん」こと花岡数子(花岡ちゃんの夏休み他・清原なつの) (1)であろう。彼女はけっして「健全な」少女たちが自分と同一視するような人物ではない。「学問こそ人生、知性こそすべてよォ」と軽い調子で雄叫んだりする、極めてユニークな人間である。この悩める(?)大学生、その個性ゆえに、「健全な」少女よりも(ヒモとじ雑誌「りぼん」に掲載されているにもかかわらず)一部男子学生にも人気あったりするのだが、実はいきなり主人公として登場したのではない。彼女の初登場は、「アップルグリーンのカラーインクで」で、役柄としては、「平凡(ノーマル)な」主人公の元クラスメートというところであった。また、名前は違うが、前出の「青葉若葉のにおう中」の宮嶋桃子も、ほぼ同じキャラクターと言ってよい。 (2)すなわち、花岡ちゃんは読者にとって十分既知な人物なのである。「どんかん! ばかまぬけ、おたんこなすのあんぽんたん…」と萩原クンをののしって、美登里と萩原クンの仲をとりもった、あの花岡ちゃんだからこそ、主人公になっても安心して見ていられるのだ。 既知な人物という意味では、連作シリーズが続くうちに、登場人物のメガネキャラクターの一人が、主人公またはそれに近い役割をする作品が創られるということがある。「菜の花畑シリーズ」(樹村みのり) (3)は、一応六十年代後半を舞台に、四人の女子学生と彼女らを下宿させている女性ばかりの三人の家族を中心とする十編ほどの連作なのだが、これと言って主人公といえる人間はいない。前段階的作品の「菜の花」では、まぁちゃんという家主の子供が主人公だったのだが、(もともとは、彼女の回想の一つだったのだ。) (4)はっきりシリーズとなってからは、ホームドラマ的になって、誰が主人公であるとは言えなくなっているのだ。このような状況でなら、メガネキャラクターはでも主人公的な役割をはたすことができる。最初は家主一家が物語をリードしていたのだが、段々と四人の下宿生に中心が移り、その中で結果的に一番その場の状況を体言しており、主人公らしい働きをしているのは、メガネキャラクターの森ちゃんなのである。 (5) このような話の場合、読者は必ずしも特定の登場人物の視点に立って物語を眺めているわけではない。言わば状況自体が主人公なので、主人公と呼ばれる人物に期待されているのは、読者に対するスポークスマン的役割を(その状況の中での役割以外に)行うことなのである。このような、ストーリーの流れにいながら、それを評価してゆくという作業は、やはりメガネキャラクターの得意とするところと言えよう。 「変奏曲シリーズ」の中のホルバート・メチェックの役割も、それと似たような側面がある。シリーズの中核たる「変奏曲」は、彼の回顧的独白によって始められている。シリーズ全体を通しても、彼は主人公二人の後見役的な立場にあるのだが、この作品においては、明確にスポークスマンとして、物語をリードしてゆくのである。また、彼は、後に外伝的コメディの主人公にもなるのだが、このような(外伝的な)作品自体、シリーズの流れ全体に対する彼のスポークスマン的役割を表わしているのに他ならないのだ。 (6) (1) 「花岡ちゃんシリーズ」(1977-1981)は、清原なつのの出世作。大学生の花岡数子と同じ大学に通う簑島さんとのさわやかな恋愛 をめぐる短編連作。(「花岡ちゃんの夏休み」・集英社・1979、「3丁目のサテンドール」・集英社・1981に所収)カットは、「花岡ちゃんの 夏休み」p27の1/4ページスペースの花岡ちゃん。
7.メガネキャラクターは何になれるのか(5)---倉多江美の場合これまで色々とメガネキャラクターの例を出してきたが、数多くのメガネキャラクターを輩出しながら、あえて論評を避けてきた作家がいる。倉多江美である。彼女の場合、犬でもメガネをかけている例があるように、(ソックス・「ジョジョの詩」シリーズ)女性以外は、主役、脇役、人間、動物の区別なく、メガネキャラクターが多い。(ちなみに、女性はというと、それとわかるように見栄えの悪い子が出てくる。実際、このことは重要であって、一般に、少女漫画では、「私なんか、全然美人じゃないんだから」などと言ってるのに限って、十分すぎるほどかわいらしく描いてあるのだ。) (1)従って、彼女の作品を考える上では、個々の作品を云々するよりも、彼女の作風そのものとメガネキャラクターとの関係の方が問題になってくる。逆にいうと、そこからメガネキャラクター自身が持つ意味が明らかになるとも言える。倉多江美の世界を探るということが、メガネキャラクターの世界を探るということにもつながってくるのだ。 橋本治の言を借りるならば、倉多江美の描く世界は、「水分が三割方欠けている」世界である。従って、そこに登場する人物も、「どうでもいい」という「開き直り」と「バカバカしい」という「ふてくされ」という、水分の欠乏した世界観でもって生きている。 (2)たとえば、「ロングフォー」は、主人公但馬庄司の次のような独白で始まる。「そりゃあ ぼくが生まれた時は ありとあらゆる可能性があったはず」「しかし、いかに努力したって ぼくはぼく以外に絶対になれっこないってこと」そして「今やその前途可能な道はほとんど絶たれ、別になんのとりえもない平均的高校生にみごとに成長あそばしたわけ」 (3)、つまり(もう一度、橋本治を引用すると)「庄司クンの将来および現在に関して云えば、絶望もなく、希望もなく、ただ現状だけが目の前にグダーッと寝そべっているだけ」というわけだ。この事自体、「殆ど大部分の人間に該当する事」なんだが、水分十割人間には、このことは窮屈すぎて、こんな形では出て来ない。ところが、「水分三割欠乏人間が主人公であれば快適になれるのです。」 (4) 彼らが「バカバカしい」と思っているのは、世間的な価値基準(いわゆる「日常性」)である。彼らは、それを拒否してはいるのだが、反抗しようとしているわけではない。結局、「どうでもいい」といってすましてしまっている。「どうでもいい」というのは「全てをおっ放り出してしまう」ことなわけで、その中にあるのは、あらゆるものを価値のない、意味のないものとすることから始めようという姿勢である。アイマイな現実に対して、そのアイマイさの元凶である日常性を捨て、「人の思惑一切に頓着せず」当然そうあるべきという方向にだけ思考を進める、この疑いの姿勢こそが、水分三割欠乏人間、あるいはメガネキャラクターの本質とも言える部分なのである。(これは前に言った「独自の価値体系」云々というのを、より正確に言い直したものと言ってよいだろう。) (1) たとえば、「ロングフォー」(1976/「ドーバー越えて」・朝日ソノラマ・1977)の福子である。カットは同書p146、映画の券をもらったから と強引に主人公の但馬を誘う福子。何より目付きが悪い。
8.メガネの表わすもの---仮面としてのメガネ
コンタクトレンズの利点は、よく見える、邪魔にならない、外から見てもわからないなどだろう。欠点は取り扱い注意ということ。メガネはその反対で視野は狭いし、少し動くとズレたりするなど、実際に何かをする場合に支障が多い。その代わり、お世話の方はほとんど不必要なわけで、結局、近視になった人間は、次の二つのうちのどちらかを選ばねばならなくなる。 A. コンタクトレンズにして、自ら節度を持った行動をしながら、形の上で今まで通りの生き方を続ける。 どのみち一般人と同じようには生きてゆけない。行動の制約が自律的になされるか、他律的であるかの違いでしかないのだ。そうした中で、メガネをかけることにした人間は、面倒な自律的な制約よりも、保護という面さえある、他律的な行動の制約のもとで、狭いながらも自由な世界を楽しむ方を選んだ人間なのだ。 酒井美羽の「通り過ぎた季節」シリーズの一つ、「コンタクトレンズ騒動記」 (1)は、メガネキャラクターの亜紀子のコンタクトレンズ初体験記なのだが、言ってみれば、メガネ人間のコンタクトレンズに対するカルチュアショックの物語である。小学校からメガネをかけてきた亜紀子にとって、まわりの人間の中にコンタクトレンズを使っているものが多いのは、十分驚くに値する事実だった。「メガネの亜紀子」から見れば、コンタクトレンズをしている人達は、同じ近視でありながらも解放されている人間であったのだ。コンタクトレンズを再認識した彼女は、(友人の「メガネのない亜紀子なんて考えられない」という言葉にもめげず)自分もコンタクトレンズを使ってみることにする。しかし、実際に使ってみると、メガネ人間の亜紀子には結構大変だったわけで、あれこれとあったあと、結局目の方が炎症をおこして、メガネにもどることになってしまう。コンタクトレンズでついてしまった傷は、コンタクトレンズへの不適応の傷だったのであり、自律的生活に対する不適応の傷と言ってもよいかもしれない。 「メガネの亜紀子」は、結局「メガネの亜紀子」にしかなれなかった。この言葉には二つの意味がある。メガネは顔の一部であるとともに、人格の一部でもあるのだ。「ワンピース カールのかかったふわふわ髪 夏の麦わら帽子」全て遠くへ行って戻っては来ない。「メガネの亜紀子」は「いろんなものになれた」はずの亜紀子とはもう別の人間なのだろう。「メガネをかけて一人前だなんてぜったいまずい。早くおさらばして自分の顔をとりもどさなくちゃ。」 (2)メガネをかけた亜紀子にとって、自分の顔は、とりもどさねばならない、隠されたものなのである。 「いろんなものになれた」自分に対する亜紀子の思いと、先にでた但馬の思いはけっして別のものではない。彼も実際に「生きている」自分と「本当の」自分との間の距離を強く自覚している。自覚し、どうにもならないとわかっているからこそ、彼の「水分が三割欠乏した」世界観が生まれるのだ。そして今度は、メガネの方が、その距離感を常に確かめてくれるのである。 このように書くとメガネに仮面としての機能があることがわかると思う。仮面は、隠し、制限し、そして、保護する。仮面をつけることは普通じゃないかもしれないが、けっして
苦痛ばかりとは言えない。そのことは述べるのでもないだろう。メガネのこのような側面を指摘して、この文章を終わろうと思う。(3) |