ヒットマンとHBK part7



長らく書いてきた「ヒットマンとHBK」ですが、今回で最終回です。
二人のラストマッチについて書こうと思うのですが、少々切なく悲しい内容となってしまいます。



HBKの正式な引退試合は、2000年4月に自らが率いるローカル団体TWAにて行ったのですが、事実上の引退試合はWM14でのスティーブ・オースチン戦です。この試合でストーンコールドはWWFヘビー級を初戴冠し、まさに時代がニュー・ジェネレーションからアティテュードへと移行した、歴史的な一戦でした。

ところが、この試合は内容的にはイマイチです。それは、HBKの引退理由でもある椎間板ヘルニアが相当悪化していたからです。
HBKはこの年の1月以来、試合にはずっと欠場していたのですが、レッスルマニアのメインだということで、強行出場したのでした。

痛み止めの注射を打っていたのは確実ですが、痛み止めの効果は10分くらいできれてしまい、あまりの痛みに珍しく声を上げたりもしています(痛み止めは、きれた直後が一番痛いのだそうです)。
終盤は痛みにも慣れてしまったようで(?)、一応の試合の形を作るのですが、低すぎるショルダースルーへの受身、ジャンプしていないフライングフォーアーム、などHBKの本来の姿を知っている者が見ると、切なくなるような動きしかできませんでした。

それでも最後は、スウィート・チンをよけられる → トーキックからスタナーへ… → 寸前でストーンコールドをロープへ押す → 返ってきたところへ再びスウィート・チン… → 足をキャッチされる → 今度こそ完璧なスタナー!、とpart5の方で言った「素早くお互いの技を何度か返していった末に、ドーンと技が決まる」という型が披露されたのでした。

試合後にはマイク・タイソンのパンチをくらってKOされるのですが、受身の天才であるHBKの最後の受身がプロレスラーではないタイソンのパンチによるものなのは、果たして幸福だったのかどうか…。



次がヒットマンなのですが、こちらはさらに悲劇的な話です…。

ヒットマンはホーガン離脱後のWWFを支えた最大の功労者なのですが、サバイバーシリーズ97で疑惑の裁定によってベルトを奪われ、13年間在籍したWWFを去ることになります。そして、ビンス・マクマホンへの復讐の念を抱いたままWCWに移籍します。
しかし、WCWは決してヒットマンが望んでいたような団体ではありませんでした。むしろ、完全にテレビ局に支配されたプロレス団体というのは、ヒットマンのような本物のレスラーにとっては、極めて居心地が悪かったのではないかと思われます。

どうしてプロレスが、こんな姿になってしまったんだ?」
96年にWWFを長期欠場して以来、リング外ではこのようなことを言い続けていたヒットマンでしたが、WCW時代に彼が理想とするレスリングをすることができたのは、クリス・ベノワと対戦したオーエン追悼マッチくらいではなかったでしょうか?

ヒットマンの最後の試合は2000年初頭に行われたTVマッチだそうですが(2000年に4試合行った)、事実上の引退試合はゴールドバーグとの試合でしょう。

ゴールドバーグはキャリアこそ浅いですが、恵まれた体格・パワーと格闘技に対する貪欲な精神で(WCWに遠征していた永田も影響を与えたそうです)、瞬く間にWCWの頂点に登り詰めた選手です。最後の相手がこういう骨のある相手だったことは、少しだけ幸運でしょうかね。
99年12月19日と翌20日に、ヒットマンはゴールドバーグと二日連続で対戦しました。両方の試合とも、序盤は見応えがあったが不可解決着、というWCWらしい内容だったそうです。

19日の試合でゴールドバーグのトラースキックを喰らい、それが原因で脳機能障害を起こし(症状は後々悪化した)、そのまま戦線離脱。
2000年10月20日にWCWから解雇通知を受け、10月28日に引退を表明。
90年代のMr.プロレス・ヒットマンは、プロレスに対する苦悩の出口を見つけられないまま、静かにリングを去ったのでした。


ヒットマンとHBKという、90年代を象徴するレスラー二人が、「引退試合」と銘打たれた試合をすることもなく、引退セレモニーが開催されることもなく、スッと我々の前から姿を消したのは、何とも寂しいことのような気がします。
アメリカではプロモーターとレスラーの関係が、日本とは比較にならないくらいドライであり、また、現在のアメプロは非常に早い展開でドラマが進んでいきますから、過去を振り返ったりする暇はなかったのかもしれませんね。


<おまけ>
珍しいふたりのツーショット in HeartBreakHotel



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全日本ドーム大会予想



全日本プロレスの東京ドーム大会が迫ってきました。
今の全日本に東京ドームをやる体力と意義があるのかは疑問なところですが、せっかくですので個人的な見所や意見を書いていきたいと思います。



第1試合から第5試合までは、バトルロイヤルと各種タッグマッチです。
淡々とした内容の試合になるとは思いますが、第3試合のマスカラス&サント組というのは、それなりに楽しみではありますね。
で、一番注目なのが第4試合のカート・ヘニングです。6メンなので出番は少ないと思われますが、“アメプロ最後の職人レスラー”と呼ばれている彼の実力はかなりのものです。もし先発で登場するのならば、2回目に組み合うときのバックに廻る動作を見逃してはいけないですね。


第6試合はテリー&大仁田vsブッチャー&キマラです。
遂に大仁田が全日本に参戦します。昨年、一度は武道館大会に参戦が決定されたが、川田が強い拒否反応を示したため撤回になった、ということがありました。この時、私は川田の行動に感心しました。蝶野や武藤は自分の会社のために電流爆破までやったことがあるわけですから(特に蝶野は引き分けた)、川田はこの二人よりはサラリーマンレスラーから脱皮してるのだなぁ、と思ったわけです。
が、さすがに東京ドームの観客動員のためには、川田も折れるしかなかったのでしょうか……。大仁田目当てでドームに行く人なぞ皆無だと思いますけど…。


次が、個人的にはメインイベントの「スタン・ハンセン 引退セレモニー」です。ハンセンの実績は今さら述べるまでもありませんが、この引退セレモニーで要注目なのがテリー・ファンクです。
ハンセンの自伝によると「私にとってのレスラー生活最大の、そして最高の相手は誰であったか? と問われたら、その答えは間違いなく一人しかいない。テリー・ファンク。」「私とテリーの、どうしようもない感情のもつれこそ、名勝負を生み出していくうえでのキィ・ファクターであったのだ。」とのことです。

果たしてテリーがどのようなアクションを起こすのか?
テリーが「お前が先にテキサスの化石になったな。おとなしくテキサスで隠居してな!」とハンセンを罵り、怒ったハンセンがテリーにラリアット! で、最強タッグに乱入したこととかを思い出すかのようにドームの天井を見上げ、最後の「ウィーー!!」。なんてのをやってくれると私は涙を流してしまいそうですが…、ま、そこまではやらないでしょうね。
でも、テリーがブロディの遺品のブーツ(もしくはチェーン)をハンセンに手渡す、くらいはやってほしいもんです。


第7試合は渕正信vs獣神サンダー・ライガー。
ライガーはかなり昔に渕との対戦を熱望していましたし、楽しみなカードです。ただ、新日ジュニアスタイルと渕のレスリングスタイルがマッチするかどうかは分かりませんけどね。

第8試合スティーブ・ウイリアムスvsマイク・バートン 。
約1年前に大阪府立体育館で実現したカードです。バートンには期待していますが、今のウィリアムスはあまり期待できませんけどねぇ…。

セミファイナルは太陽ケアvs武藤敬司。
モスマン(あえてこう呼ぶ)の実力は結構高いと思っていますので、内容的には期待できる試合ではないでしょうか。
武藤が負けることはまずありえませんが、武藤が軽くあしらったりしなければ(武藤は若手相手ではしばしばこうする)、この大会のベストバウトにもなれると思います。


メインイベントは、天龍&馳vs川田&健介です。
どうしてメインをこのタッグマッチにしたのか、さっぱり理解できません。やるならこのタッグマッチを分解して天龍vs川田、 馳vs健介のシングルマッチ2本立てにした方が(試合数が増えることを差し引いても)20倍くらいは良いマッチメイクだと思います。
試合が健介−天龍のチャンピオン同士で決まれば、まだ面白いと思いますけどね。馳がフォール取られるってのは、どうしようもなくダメです。


最後に観客動員数ですが、前売り状況はかなり悪いそうなので、公式発表41000人といったところでしょうか。



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ノア1・13観戦記



※フォントは小さめの方が見やすいです。


2001年1月13日、ノア大阪府立大会の観戦記です。
ノアに移籍した選手達の動きをじっくり見るのは久しぶりでしたので、各選手の動きについて詳しく書きたいと思います。


第1試合 3wayマッチ
○スコーピオ(二本目、450°スプラッシュ)丸藤正道×
○スコーピオ(一本目、ギロチンドロップ)金丸義信×
小林健太が欠場のため、急遽組まれた3wayマッチ。3wayダンスではないので、要はバトルロイヤルです。序盤にトペ、三角飛びトペコンヒーロー、ローリングブランチャと3選手が景気良く飛んで、一気に盛り上がってました。3wayであることを意識した攻防も随所で見られましたので、意外と定番になるかもしれません。
スコーピオの体は他の二人より一回り以上大きいのですが、跳躍力やバネでも丸藤・金丸に決して劣っていません。丸藤と金丸にとってはスコーピオというのは何とも高い壁のようです。
ところで「丸、頑張れー!」という声援が多く飛んでいたのですが、“丸”って丸藤か金丸かどっちのことなんでしょうね?


第2試合
ラッシャー木村
百田光雄
池田大輔
サムソンクラッチ
をさらに丸め返す)
永源遥
菊地毅
泉田純
×
ノアになってもこのタッグマッチは変わりませんね。
でも、渕さんがいなくなったからラッシャーさんはネタ不足に苦しんでそうです。


第3試合
× 志賀賢太郎
橋誠
(浴びせ蹴り) 斉藤彰俊
青柳政司
橋はとにかく蹴られまくってました。何度か得意の頭突きで返したりもしていたのですが、まだまだといった感じでしたね。
志賀は全く見せ場はありませんでした。秋山に徹底的にやられた後遺症がいまだ残っているような感じです。
青柳館長は本当に打撃技しか使ってませんので、そのうち頭打ちになってしまうでしょうね。
斉藤彰俊はこの4人の中ではズバ抜けてました。体の張りや動きが他の3人よりも明らかに上でした。中途半端に館長とのコンビにこだわるよりは、新たな路線を模索した方がいいと思います。ノアとしては彰俊を所属選手とすることができれば、随分と安い買い物をしたことになりますね。


第4試合
△力皇猛(30分時間切れ)森島猛△
巨漢同士、(名前が)猛同士のシングルマッチ。休憩明けでもありますので、両者とも意気込んでいたのではないでしょうか? 案外将来はライバルとなるやもしれません。
二人ともスピードもなかなかに持っていますので、タックル合戦だけでどよめきが起こっていました。特に各界出身の力皇のタックルは素晴らしいですね。使い所とかを研究すれば、十分フィニッシュにも使えるほどです。
ただ、さすがにデビュー1年に満たない力皇に30分の試合をやらすのは難しかったようで、技の少なさからくる中だるみはありました。


第5試合
大森隆男
高山善廣
浅子覚
(アックスボンバー) 本田多聞
井上雅央
杉浦貴
×
期待の新人・杉浦です。
デビュー戦ではスープレックスが大きく取り上げられましたが、素早いタックルやプロレスの基本ムーブ(ハンマーロックの攻防、ヘッドシサーズからの抜け方、など)も披露したので、個人的に好感度大。カレリンズリフトも出しましたが、大きな大森相手では(杉浦は小柄でした)それほど奇麗に投げ切れてはいませんでした。とりあえずは多聞とアマレスコンビを組んでいけばいいんじゃないでしょうかね。
試合そのものはノーフィアー軍が常にペースを握ってました。杉浦をイジメるような展開が多かったです。いつの間にか大森・高山にも風格が漂うようになりましたね。


第6試合
三沢光晴
小川良成
(タイガードライバー) 橋本真也
アレクサンダー大塚
×
この日一番の注目カードです。もちろん三沢と橋本の絡みが注目されるわけですが、先発は小川とアレク。直接対決もあまりありませんでした(エルボーとケサ斬りの打ち合い、橋本が三沢にDDT、の程度)。
橋本のミドルキックに小川と三沢は一発毎にビッグバンプを取っていました。特に小川は8発くらい喰らったはずですが、ああいう喰らい方だと見た目ほどダメージはないはずです。これが“全日本的”ということなのでしょうね。
アレクは何故だか元気がなくて、もう呼んでもらえないかも。むしろZERO-ONEのセコンドについていた安田が(試合後の)乱闘でえらく強かったことの方が印象に残っています。


第7試合
× 小橋建太
田上明
(ムーンサルトプレス) ベイダー
秋山準
この試合の一応のテーマとしては有明以降の小橋vs秋山となるのでしょうが、極めて密度の高い攻防で「内容で勝負!」といった趣の試合でした。
ノアの小橋は「熱き青春」から「強さを発散する」というスタイルに変わったようで、序盤から大技を使っていく姿からは新生・小橋が感じ取れました。ま、最後はフォール取られてしまいましたけど。
ベイダーは珍しくムーンサルトで見事(トップロープで手こずってたけど…)フォールを取りました。ビッグクランチ・チョークスラム・リバースプレス・ラリアット・ベイダーアタック……、3カウントを取れる技をこれほど持っているのは脅威としかいいようがないですね。
試合をコントロールしていたのはやはり秋山でした。ベイダーが暴れられるような状況を作ってからタッチする、なども目立たないがファインプレーでしょう。単発のすごい技のベイダーと高度な技の応酬の秋山、というコンビはうまく作用していたと思います。
田上の元気の無さが少し気になりました。奈落喉輪やダイナミックボムも使わなくなってしまってますし、試合のテンポもゆったりしているので、時流に乗り遅れてしまっている感じです。小橋と秋山はノアになってからイメチェンしたのに、 田上はアトミックドロップ → バックドロップを使ってました。それじゃあ、イメチェンどころか鶴田軍時代に逆戻りですよね(苦笑)。


総括
客席は95%くらい埋まってました。十分に満員or超満員というくらいに入ってました。これもひとえに“橋本効果”なのでしょうが、ベストマッチは断トツでメインです。全日本時代を彷彿とさせる試合内容は団体が変わっても衰えず、ということなのでしょう。
シリーズ途中の試合(6連戦の3日間)でこれだけ体を張る試合をしてても、セミファイナルの方がマスコミでは大きく取り上げられるのでしょうね。セミファイナルは打撃技の応酬が試合の大半を占めていましたし、そんなにすごい内容だとは思わなかったですけど…。
「プロレスの試合で観客を満足させる」というのがプロレスラーのあるべき姿であるならば、メインに出場した4選手こそ讃えられるべきでしょうね。

ところで、ノアのパンフレットって1500円なんですね。そんなに中身が濃いわけでもないのに、500円アップしてる理由は何なんでしょうか? おそらくは「(ホッチキス止めではなくて)製本してある」というだけなのでしょうが…。



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技の話6「ランニングネックブリーカー」



早いもので、世界の巨人・ジャイアント馬場が亡くなってから2年が経とうとしています。
突然の訃報に我々は驚きましたが、その後マット界の流れは加速度的に早くなり、馬場の死は随分昔のことのように思えてなりません。


さて、その馬場が「大技中の大技」として最も大事に使っていた技がランニングネックブリーカーでした。
初公開は69年12月3日のドリー・ファンクJrとのNWA世界タイトルマッチでのことです。カウンターの16文キックを狙ったがタイミングが合わず、咄嗟に左手を出したらランニングネックブリーカーになったのだそうです。これでドリーから見事3カウントを奪い、以後大試合でのフィニッシュ技として、技のレパートリーに加えられました。

自分からダッシュして決めるパターンと、突進してきた相手にカウンターで決めるパターンがありましたが、馬場は後者の方をフィニッシュとして多く用いてました。
特に、ジャック・ブリスコからNWA王座を奪取した試合のフィニッシュシーンは、日本プロレス史上に残る名シーンでしょう。


馬場の次に名手として現れたのがマスクド・スーパースターという選手です。
スーパースターはネックブリーカースインギングも腕をロックする独特なものでしたが、ランニングネックブリーカーも巨体を大きくジャンプさせて決めており、実に迫力がありました。
スーパースターはとにかく足を高く上げていたので、ランニングネックブリーカーではなく、ジャンピングネックブリーカーと呼ばれることが多かったです。
余談ですがこの選手、他にもビル・イーディ、ビリー・クラッシャー、ボロ・モンゴル、スーパー・マシン、アックス・デモリッション、とやたら多くのリングネームを使い分けた選手でした。


その後、ランニングネックブリーカーにも多くの改良型が登場します。

アニマル浜口のランニングネックブリーカーは、フワッと旋回しながら体重をかけるもので、ラグビーの首タックル(禁止技)を応用したものだそうです。
このスタイルは小原道由が受け継いでいます。

ジュニア選手で巧かったのが保永昇男(現在はレフェリー)です。
自ら勢いよく走り込み、体重をかけるのではなく半ばラリアットのような体勢で、相手の後頭部をマットに叩きつけていました。現在このスタイルはケンドー・カシンが受け継いでいます。
また、保永はハンマースルーと見せかけてネックブリーカーや、ミサイルキックを迎撃するネックブリーカー、等のバリーエーションを持っており、この辺りは小橋建太がうまく盗んでいます。

また、初公開で馬場からピンフォールを奪った三沢のダイビングネックブリーカーは、以後“奥の手”として小橋や田上からフォールを奪っています。
馬場、小橋、田上と、通常のランニングネックブリーカーの使い手からネックブリーカーでピンフォールをとる、というのは三沢のこだわりだったのかもしれませんね。



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ヒットマンとHBK part6



今回のテーマはヒール・ベビーフェイス論です。
アメプロではヒールとベビーフェイス(以下、ベビー)をはっきり分けて、観客が応援しやすいようなマッチメイクをするのが基本です。


まずは二人のヒール・ベビーの変遷を大まかに見てみましょう。

ヒットマンがデビューしたのは地元のスタンピートレスリングです。この頃はプロモーターの息子ということで、有無を言わさずベビーのポジションだったそうです。その後WWFに参戦するのですが、参戦当初はポジションが明確ではなく、明確にヒールになるのはハート・ファウンデーションが結成されてからです。
ベビーに転向してからシングルプレイヤーとなり、ブレット“ヒットマン”ハートと名乗るようになります。ヒットマンとは“殺し屋”という意味なのですが、ブレット・ハートが演じていたヒットマンというキャラは「子供からも愛される絶対的なヒーロー」というキャラクターでした。
このヒットマンはブルーノ・サンマルチノ、ハルク・ホーガンとNYに続いてきた絶対的ベビーフェイスNo.1のポジションを引き継ぐもので、ブレット・ハート=ヒットマン、ブレット・ハート=ベビーフェイス、という固定概念を抱かせるほどの期間をNo.1ベビーとして活躍しました。
その後97年上半期にカナダ国粋主義・アンチアメリカを掲げるヒール(カナダではベビー)に路線変更となり、WCW移籍後も一応はヒールだったようですが、明確なポジションというのを見つけられないまま引退表明となりました。


HBKはデビュー当時からベビーでやっていたようで、M・ジャネッティと組んでいた頃もずっとベビーでした。ヒール転向と同時にシングルプレイヤーとなり、その後ベビーに転向、再びヒールに転向という道を辿ります。
彼の絶頂期はベビーのチャンピオンだった頃で、当時ヒットマンが欠場していたこともありますが、WWFはまさにショーン・マイケルズを中心にして回っていました。



スタン・ハンセンの著作「魂のラリアット」中に、以下のような記述があります。
『要するに、“小さなベビーフェイスを大きなヒールが倒す”という図式が、ハウスショーを盛り上げる上では絶対に必要なシナリオなのだ』。絶対に必要とまでは私は言い切れませんが、色々とあるヒールとベビーの在り方の中で、最もオーソドックスなのものであるのは確かでしょう。

しかし、80年代のWWFマットではホーガンのような「大きくてパワーがあって、理屈抜きに強い」というタイプがファンにうけていました。
ヒットマンをタイプでいうと「小さいけどスピードとテクニックがあって、文句無く強い」とでもなりましょうか。基本的にチャンピオンは受けを主体にする選手が多いのですが、ヒットマンは試合の主導権を常に握るタイプの選手でした。

え〜、つまり……、伝統的な正統派チャンピオン像(ルー・テーズ、ドリ・ファンクJrなど)にホーガン風味を足したのがヒットマンである、というのが私の意見です。

HBKは受け主体の選手ですし、体も小さいのでベビーのチャンピオンに適したレスラーであると言えます。
ヒールとしてのHBKも高く評価されていますが、私としてはHBKはベビーが合っていたように思います。そのもう一つの根拠は「持ち技がベビー向きである」という点です。
つまり、デビューからロッカーズ時代までずっとベビーでやっていたので、基本技が全てベビーフェイス向きの派手な技や華麗な技が多いというわけです。ヒール時代は意識的にサミングを多用していましたが、チョンと目をつつけば即ヒールになれる、というほどプロレスは簡単ではないと思います。



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