2007.12.31up

やいてんねん 1

上郷  伊織

   ◇ ◇ ◇

 金木犀きんもくせいの匂いが流れてくる。
 甘い香りに鼻を擽られ、麦田むぎただいは逞しくも太い首を廻らせた。
 夜も8時を回り街路灯の淡い光は足元の歩道を照らすだけ。
 辺りを見回しても他の樹木の葉ばかりが視界を覆う。
「しゃーないか」
 夜の金木犀もオツな眺めではないだろうか、と一瞬は期待したものの、当初の目的、週に何度かの銭湯を思い出し、いつものように近道の公園内を歩き出した。
 元々、端整な顔立ちの筈が、野性味の強い浅黒い肌と、口を開けば零れだす飾らない、ともすれば下品とも取れる言葉が折角の容姿を台無しにしていた。
 一様に大を見た人は格好いいとは思うらしいのだが、ガキ大将がそのまま大人になったような、溌剌とした格好よさなのだった。
 大衆の中に混じっても目立つ程の長身と鍛え上げられた体躯、鋭い目付きに、一見近付き難い強面であるにも関わらず、博愛主義者で進んで近所付き合いもする。
 その不可思議な魅力は中年層が多い商店街の店主達にも人気がある。
 銭湯通いは、一人暮らしの大にとってご近所のオヤジ達との貴重なコミュニケーションの場であった。
「な、何すんねん! 触んな。いややっちゅーねん」
 今日は近所の蒲団屋ふとんや店主のげんさんと会えるだろうか、などと呑気な事を考えていた大の耳に不穏な罵声が届いた。
「……君が悪いんだ。僕から逃げるから……」
「これ以上の事してみい。次、会おたらタダじゃおかへん。いてこましたるからな、わかってんのかこのボケ。今の内やったらどつくだけで済ましたる。せやから腕解かんか…うぐっ!」
 喧嘩でもしているのか、と声の方向に見当を付け条件反射のように走り出す。随分と威勢のいい啖呵とは対象的に怯えたような声も混じり出す。
「一度だけで良かったんだ。なのに君は……。大人しくしていればこんな手荒な事なんてするつもりもないのに……。下品に喚いたり暴れたりする君が悪いんだ」
「うぅーーーー」
「これで逃げても人前には出られないよ」
 何処かで聞き覚えのある啖呵を発していた声が急に途切れた。大は奇妙な予感に焦りを滲ませ、木立の中に身を滑らせた。
 薄暗がりに二人の男が座り込んでいる。一人は後ろ手に縛られ、猿轡さるぐつわを噛まされているのか、やたらに呻きばかりを発している。もう一人はしゃがみ込んで片手に刃物を持っているようだった。
(なんや、あれは……。男相手に強姦か)
 二人の元に走り込んだと同時に刃物を持つ男の右手に蹴りを一発お見舞いすると、カシャンと尖った音を立て裁断用のハサミが滑り落ちる。すかさず、後ろから男の襟首を掴み、後方へと引き剥がした。
 襲われていたもう一人の姿を目にした途端、大に怒りの感情が沸々と湧き上がる。
 忘れようにも忘れられない。大の心のアイドル。生まれたての頃から大切に慈しんできた花街はなまち商店街の酒屋の看板息子。小関おぜきみのるその人だった。
「おんどりゃあ! 俺のみっちゃんに何しくさっとんねん!」
 低く野太い咆哮を上げ、相手に掴みかかろうと歩を進めた途端、大の形相に恐れをなし、男は泡を食らったように逃げ去った。
「………う?」
 残されたもう一人。「俺のみっちゃん」こと、穣はといえば、見事に強姦された被害者のような様相を醸し出していた。
 髪はくしゃくしゃに乱れ、頬は殴られでもしたのか少し赤らんでいる。そしてネクタイで猿轡を噛まされ、両腕は後ろにネクタイで縛られて銀杏いちょうの木の根元に座り込んでいる。
「えらい目にうたなぁ。大丈夫か?」
 穣の足元にしゃがみ込み、あやすように抱きしめてから口元のネクタイを解いてやる。
「………大…さん?」
 やっと大の存在に気付いたように、穣はキラキラと輝く薄茶色の瞳を瞠って見つめてきた。5年ぶりになるだろうか。高校を卒業と同時に、東京へと旅立って行ったかつてのアイドルは、頬の肉が少しばかり減って多少大人びてはいたものの、その美貌は損なわれる事なく、余程恐ろしかったのか、怯えを含んだ不安気な表情が言い表す事の出来ない色気を含んでいる。
「手も解いたる。立てるか?」
 両脇に腕を差込み穣の体を持ち上げてやる。足に力が入らないのか、穣は固く閉じた膝を曲げたままキチンと立とうとはせず、しきりに首を横に振るばかり。
「あ、あかん。大さん、あかんねんて……」
 まるで何かを隠すようなその仕草に、固く結ばれたネクタイを解きながら、大も視線を下に向けた。そこにはワイシャツで半ば隠れてはいたものの、素肌の尻が覗いていた。よくよく穣の姿を眺めるとズボンと下着は真ん中からバッサリとハサミで切り裂かれ、二枚に分かれた布地が太腿を通っているだけ。ワイシャツの裾も所々刃物で裂かれた惨い有様になっている。
(なんちゅー事しよってん、あの男)
「あの野郎、半殺しにしとくんやった」
 大の脳裏に走り去った男への殺意が芽生えた。解いたばかりのネクタイを握り締めた手は色を失くさんばかりに引き絞られていた。
 両腕が自由になった穣は、慌てて股間を押さえ、身の置き所も無い様な素振りで小さくなっていく。
「怪我は? 怪我はせぇへんかったか?」
 その仕草にハッと正気を取り戻し、大はズボンがずり落ちて露になった穣の下肢を念入りにチェックする。とりあえず、見える所は土で汚れてはいるものの、小さな擦り傷程度しか見当たらない。 「ない。怪我なんかないから。……あんまり見んといて」
 股間を覆う両手に力を込め、穣は再び体を小さくして蹲ってしまう。余程、恥ずかしいのか、俯いた襟足と耳が真っ赤に染まっている。
「みっちゃん、上着は?」
「どっかで落とした。走って逃げてる最中に最初に脱がされて……。あ、財布。上着の中や。どないしょ。………もう、こんなんいやや」
 上着を無くした事に、更に落ち込み、膝の中に顔を伏せてしまう。
 このような姿で薄暗い場所に穣を置き去りにするのは偲びないが、かといって財布を放置するのも後々困りものである。
「どの辺か分かるか?」
「…えっと。駅方向からの入口んとこやと思う」
「コレ、腰に捲いて待っとり。ココ、動いたらあかんよ」
 おもむろにパーカーを脱ぎ、穣の背中にかけてやる。穣は不安気に大を見上げて瞬きをした。少しタレ気味のはっきりとした二重の瞳を縁取る睫から頬に薄っすらと陰が差し、穣を儚く見せている。あまりの可愛らしさに抱きしめたくなったが、揺らぐ心をグッと堪え、公園の入口に向けて大は走り出した。

 幸い穣の上着は入口近くの植え込みに引っかかっていて、すぐに見つけ出せた。取り急ぎ穣の元に戻ると、大のパーカーを腰に捲きつけ、袖でしっかりと結び、膝下は生足に靴下と靴を履き、おかしいなりにも身なりを整えていた。大が上着を渡してやると小さく礼を言う。
「どないする?」
 膝を抱えて座る穣の視線に合わせて屈み込む。
「どないって?」
「家に帰れるか? その格好やで」
「………あ、ああ」
 自慢の可愛い一人息子である穣が、妙な格好で自宅に帰れば、両親に理由を追求される事は目に見えていた。男に強姦されそうになったなど、自ら語りたい者はいまい。穣は大に指摘されるまで、自分が置かれている立場など思い至らなかったようで、苦笑交じりに頷いた。
「俺ん来るか?」
「……迷惑ちゃうん?」
「かまへんよ。どうせ独りもんやし。そや、そうしい。俺とこで風呂入って、服なんか貸したる。そないしとき」
「うん」
 あられもない姿の穣を誰の目にも触れさせたくはない。誰とも知れない男に陵辱された痕跡を一刻も早く消し去りたい。幼い頃から愛想も良くて器量よしと誰からも噂され、学業においても非の打ち所がなく、一点の曇りもなく成長した筈の穣に、こんな姿を晒させるわけにはいかない。
 大の気遣いに穣は力なく微笑む。
「やっとわろたな。そうと決まったら帰るで。ほれ、おんぶや、おんぶ」
「僕、歩けるよ」
「その格好で? 歩くん?」
「………あ」
「そんな顔したらあかんて。こないやっておんぶしたら他のもんから見てもあんまわからへんから。な? 誰かに見つかったら酔っ払いって事にしといたるし。顔、背中で隠しとき。みっちゃんってバレへんようにするから」
「うん。……大さん、ありがと」
 この場所から大の自宅兼店舗まで、徒歩にして十分程度。しかし、その間、誰かとすれ違うとも限らない。大も穣も生まれ育ったこの界隈では、あまりにも知り合いが多すぎた。もし、誰かに見つかりでもすれば、たちどころに噂が広がり、穣が実家では暮らして行けなくなる可能性も大きい。商売柄、顔が広い事がこんな時には裏目に出てしまう。
「久しぶりに会えたのに……。ごめんね。……大さん、寒いよね」
 背中に負ぶさるほっそりとした肢体が揺れる。冷たく白い綺麗な指先が生身の腕に触れてくる。大はピクリと肩を小さく震わせた。自分と比べてなんと柔らかい指だろうか。パーカーを貸したせいで半袖のTシャツとジーンズという姿になった大に、申し訳無さそうに穣は小さな呟きを漏らす。最後に会った時、大の顎の辺りまでしかなかった背丈は唇の高さまで伸びている。にも関わらず、やたらに体重は軽く感じた。
「気にしたらあかん。みっちゃんのおかげで背中はぽっかぽかや」
 気遣いは無用とばかりに軽口を返す。穣は安心したのか、口元から漏れた小さな笑い声と共に、大の首筋を暖かい吐息が掠めた。五年前、決して手の届かない場所へと送り出した高嶺の花が、今、己の背に身体を預け、その体温や鼓動が薄い衣服越しに伝わってくる。平静を装いながらも大の心臓は割れんばかりに鼓動を高めていた。
(相変わらず、罪作りな子や)
「なんで大さんなんやろ……」
 公園を抜けて国道から2つ程南の奥まった道を歩いていた時だった。
「みっちゃん、顔隠しや」
 後方から近付く足音を聞きつけ、大は穣に警戒を促した。足音は徐々に速度を増して近付いてくる。大の自宅が視界に入り、もうすぐ穣を人目の無い場所へ隠してやれるという所だったというのに。
「大、やっぱり大や、花の湯で待っててんで。こないだの飲み会でおもろい話があってん、せやからお前にも………。なんや、客か?」
 毎週、何度か通う銭湯「花の湯」の常連。昔馴染みの源さんだった。当年とって五十四歳の中年男が銭湯の帰りに大を見かけて声を掛けてきた。いつもなら気のいい源さんの世間話に付き合って、店に招き入れビールの一杯でもご馳走する所なのだが、今日はそういう訳にもいかない。
「ああ、ウチで酔っ払ってもうてな。さっきまで正気やったから送って行こうとしててんけど」
「こいつ、ズボンはいてへんやん」
 背中の穣を酔っ払い客という事にして、さっさと話を切り上げようとしてはみるが、源さんは目敏めざとく穣の足元に気付いてしまう。
「そやねん。ズボンにモロに吐いてしもた。その上おねんねや」
「ははーん。時期ハズレの『半殺し』か」
「や、まあ、そんなもんや」
「それやったら、これからが大変やん。ほな、ワシ帰るわ。話はまた今度な。養生したりや」
 内心、冷や汗を掻きながら源に話を合わせ、なんとかやり過ごせた事にホッとする。もしも、コレが穣だと源に気付かれてしまったら、明日にはこの事実が穣の父母の耳に入ってしまう。
「………ははは」
 乾いた笑いを漏らしながら、精一杯の空元気で笑顔を作り、源に手を振った。
「『半殺し』って何?」
「ん? みっちゃんおった時なかったか。『半殺しタコヤキ』ちゅーメニューがあんねん」
 人の気配が消えた頃合いを見計らったように、穣が問いかける。
 数年前から大が経営する『粉モノ屋』というお好み焼きやタコヤキを中心として扱う飲食店に特色を与えようと始めたメニューの一つである。花街商店街の近くには結構有名な大学があり、学生寮も数多存在する。そこの飢えた貧乏大学生をターゲットにした激辛メニューに『半殺しタコヤキ』がある。一人前十二個のタコヤキそれぞれの味を変え十二種類の辛味が一度に楽しめる。これを三十分以内に完食すれば、タコヤキのタダ券を十枚プレゼント。完食できなければ五百円のお支払い。
 他にも、特大のタコヤキ一個に入手可能な限りの香辛料や辛味成分の高い食材を詰め込んだ『皆殺しタコヤキ』もあり、こちらは4人掛かりまでならば複数の人間で一皿に挑戦してもいい。三十分以内に完食すれば『粉モン屋一年間無料優待券』が贈呈され全てのメニューが無料、完食出来なければ千五百円を支払う事となる。
 しかし、このメニューを食した者は必ずといって良いほど腹を下す。もう、何も出ない、という程に排便が激しくなるのだ。そして暫くは口の感覚がなくなる。人によっては食べた直後に嘔吐する。にも関わらず、四月、五月には挑戦する学生が必ず現れる名物である。
「俺も考案した時食うたけど、もう、死ぬか思たわ。一口目で吼えたい衝動に駆られるし、食うてる最中は汗と鼻水と涙が止まらんし、身体に震えはくるし、食い終わって落ち着いたなぁ、と思ったら今度は腹痛や。その後は一日中トイレとお友達やで。もう、まともに立ってられへんくらいクルクル。しかも後々、出し過ぎと刺激で、もう、ケツの穴まで痛いんや。内臓から殺される感じやで」
「……なんちゅーもん作んの。あほや……ふ…はははっ」
 詳しい話を大から聞いて、背から落ちそうになりながら穣は声を抑えきれずに笑い出す。いつまでも止まらない体の小刻みな揺れを感じながら、大は店へと歩みを速めた。
(そや。みっちゃんはそないやって陽気に笑てんのが一番や)

                         つづく

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