Brambly Hedge
―茨の境界―
〈3〉
いつもよりも大きな熱。少し大目に入った人。ほんの微かな、心地よい不安と緊張。
いつもとは違う、一部の者しか知らないトクベツな夜に、ナイト・リリーは今夜もそ
の不夜の門を開いた。
質素な部屋。白いシーツが掛けられた、シングルよりも多少大きいベッドにナイトテ
ーブル。一脚ずつのテーブルとソファ、それからきちんと本が納められている本棚。た
ったそれだけしか置いていない、飾り気が全く無い空間にぽつりと佇む彼に、シホは思
わずその中に踏み込む事を躊躇った。
薄いカーテンの端を掴んで細く空いた隙間から外を見下ろす彼を、月がその淡い月光
で彼を儚く照らしている。自分が来ているのは解っているはずなのに、じっと知らない
振りをしたまま佇む彼の姿は絵画のようにも見えた。
全身から、何とも言えない哀愁が漂っているような気がするのは気のせいだろうかと
考える。そして、シホは気のせいではないのだとあっさり自分に肯定した。
しかし、その原因を言及する術はない。否、その必要も無かった。彼がずっとそれを
謀っていることを、シホは知っているのだから。
しばらく、神秘的だとも言えそうな彼が生み出したその光景を眺め、シホは漸く彼に
声を掛けた。
「・・・・・・時間よ」
「ああ、悪いな、シホ」
呼ばれて。さほど驚いた様子も見せずにこちらを振り返る彼の容貌は、毎日見ていると
いってもやはり息を呑むほど美しかった。
しかし、一応その美貌を「見慣れている」方に入るシホはさっさと服を脱ぎ出す彼の
着替えを手伝うべく手に持っていた衣装を手近なナイトテーブルに皺にならないように
置いた。その衣装を見て少し彼は顔を顰めたが、諦めたように息を吐くだけで何も言わ
ない。
「・・・無理、しないでちょうだい。また私の手間が増えるでしょう?」
溜め息を吐きたい気持ちは痛い程分かるが、シホは全く気にせずに心にも無い、わざと
突き放すような言葉を不器用に言った。それに堪えた様子もなく、彼はクスリと笑って
軽く肩を竦めた。
「わかってるよ。コナンも補佐してくれるんだろ?」
「・・・そうだけど。でも、貴方は本っ当によく無茶するから警告しているだけよ」
脱いだ服をテーブルに放っていき、彼はシホに手伝わせながら素早く着替え・・・ゆっくり
と、彼女と共にその部屋を出た。
起こっているはずの熱の渦に、更に新たな熱を巻き込む為に。
白いスーツを纏う紳士に変装した快斗は、ナイト・リリーの前でジイと別れ、人種を
問わずに人を受け入れる館の門を潜った。
壮麗さを崩さず、しかし野性的な派手さを持って佇むそこは迫力があり、店というよ
りも寧ろ館という方が正しいだろう。
外の闇を完全に無視した異常な程に明るい空間。巨大なシャンデリアが高い天井から
ぶら下がり、多色の電飾が壁に張り巡らされ、それに加えて火まで灯されている。
そこに落ちつきと言う言葉はなく、その奇怪で面白い外観の中には一定の国のイメー
ジを掴ませず、形式化された国々のモラルも常識もぶち破って、そこにはただただ奔放
に楽しめるという雰囲気があった。
どんなに落ち込んだ者がいても、ここに来れば必然的に体が高揚してしまうだろう、
と予測できる、非常識な位に騒がしく明るくそして自由な逃げ場所だ。
隠れ家、と呼んだ方が良いかもしれないが。
結構な速度で流れる周りの人並みの中を、比較的ゆっくりとした速度で進んだ。門を
開いたところには小さな人の吹きだまりのような空間が在り、更に短い廊下があって、
その先に、明りの中で慣らした目でも一瞬眇めてしまうような光が目に入った。
眩しい光は、中で踊る様々な人種、性別、年齢の人間の煌びやかな衣装を鮮やかに照
らして見せた。
カイトは怪盗としての性で、ホール全体に包む熱に呑まれそうになりながらも「clerk
only」(店員専用)と板が打たれている扉がホールの中だけでも多数在る事を確認して、
間取りを頭に叩き込んだ。
ドンドンとテンポをとって響く大太鼓。
リズミカルに叩かれるマリンバ。それに合わせたマラカスやタンバリンを持った者達
が、それらを鳴らしながら腰を振り踊っている。
傷の入った使い馴らされたヴァイオリンが、ステップを踏むでもなく踊っているヴァ
イオリン弾きによって高く通る音を奏でている。
それらの出鱈目のようで一応筋の通った曲にかなりこの場に不自然なグランドピアノ
がまとめる。
大ホールに響き渡る音楽。否、音楽というには余りにも乱暴だ。これは人の欲を煽る
熱だった。度の過ぎるほど明るく賑やかな音は、その熱の中にいる者達の脆い理性の箍
を簡単に打ち破っていく。
何もかもを捨てて、たった身一つで倒れるまで楽しめる、楽しませる場所だ。
滅多に無い高揚感に、カイトは自然と湧いてくる自分の中の熱に苦笑した。
(・・・・・・一応、下見のつもりだったんだけど)
そんな気分も失せてしまった。初めて体験する類の熱に身を任せるべく、もっと踊り
子達と時折誘い出される客達が踊っている中央近くへと移動した。
するする・・・と気軽に人の混雑している中を歩いていると、突然ガシッと腕を掴まれ、
ぐいぐいと内側へ引っ張っていかれた。腕を掴んでいるのは褐色の骨張った手。
「あ、あの〜〜僕が何か・・・?」
前を向いて振り返る事もなく、さっさとカイトを輪の最前列に並ばせた男はどこか見覚
えのある後ろ姿をしていたが、今の自分は変装しているのだから相手には自分が解らな
いはずだった。
「まぁ、アンタも丁度ええとこに来よったなぁ」
と質問には答えずに勝手に喋り出した相手は、確かに昨日カイトの自室の天井を突き破
った張本人・・・ヘイジだった。
「いや、あの〜〜?」
だから、人違いじゃねーのかよ、と考えながらヘイジを下から覗き込むと――実はヘイ
ジは自分よりも背が高いらしかった――ニカッと屈託の無い・・・というよりも面白おか
しそうな笑顔をヘイジはカイトに向けた。
「昨日は、すまんかったなぁ」
と事も無げに言ってくる。天井をぶち破るのは「すまんかった」で済むような問題では
ないはずなのだが。それはともかく、くどいようだが自分は変装しているのだ。一応、
白を切るのが筋と言うものだろう。
「・・・なんのことでしょう?」
「コナンに命令されてな、「変装」解いてとっとと素顔出させてこいて言われたんや」
まあ、わいも気づいとったけどなぁ、とぽんぽんと飛ぶ話題に怪訝な顔をしながら、カ
イトは先の発言ですでに自分がカイトであるとばれているらしい事が解った。・・・下手す
れば副業も既にバレているのかも知れない。
「・・・・・・それで?」
「取り敢えずそのマスク剥がし。その方が後々ソッチにもええはずや」
「どういうことだよ?」
ソッチにも、という事は、カイトにもここで素顔を晒す事で何らかのメリットが在るら
しい事が伺えた。
「俺、一応素顔を見せたらやばい人種なんだけど」
犯罪者という「やばい人種」であることを微かにほのめかしてみせるが、ニカッという
やたらと爽やかな笑顔を向けてきた。
「コナンの人選が間違った事ないしな〜その辺は信用しとんねん。・・・え〜と・・・?」
相手が詰った時点で、そう言えば話はした事があっても彼に名前を告げていないことに
気づいた。
「ああ、カイト、だよ。よろしく」
「わいはヘイジや。よろしゅうな」
そういうヘイジにニヤっと笑う。差し出された手を握り、一瞬で自分達の方に周りの
視線が無いのを確かめ、バリッと素顔を隠していたマスクを引き剥がした。
薄い人工皮膚を遣っているので、滅多な事では「変装」とはばれないような最早職人
技とも言えるような代物なのだが。あっさりとこれが偽者なのだと見抜いていたヘイジ
とコナンをカイトはつい見直した。
カイトが纏っている白いスーツは、先程の紳士の変装の時よりも寧ろカイト自身の素
顔の時に着ている方がしっくり合っていた。彼の為だけに作られたと言っても過言では
ないだろう、と思えるほどに。
「・・・コナンは、俺が誰だか知ってたのか?」
天井をぶち抜かれた怨みも多少は在るのか、些か刺の多くなりやすい声色を留めて、カ
イトは「見直した」という感情は一切出さずに至って冷静にヘイジに聞いた。
「・・・「一階下のお兄さん♪」としか言われへんかったわ・・・」
苦笑してヘイジは言い、見てやこの傷、とコナンに蹴られた跡らしい傷を見せてくるの
をちょいちょい、と突付いてやる。
それに何とも言えないような顔をヘイジは返した。
「なんや、面白ないなぁ〜」
「俺はお前を楽しませる溜めに来たんじゃなくて、俺がここで楽しむ為に来たんだよ!」
つまらなさそうに肩を竦めるヘイジに思い切り嫌味混じりの視線とクククっと微笑みを
向けて、更にからかってやろうと思って口を開こうとした時。
突然、流れている曲が変わった。ほんの少しだけ輪の大きさが広がり、踊り子達の動
きも違うものになった。
「・・・へぇ、今日やったんか・・・」
ふと、隣に立つヘイジが感嘆と期待に満ちた嬉しそうな声で呟いた。ナルホドな、と一
人で勝手に納得している男にカイトは問い掛ける。
「・・・何がだよ?」
変装の理由については何も聞かないヘイジに訝しく思いながら、カイトは横目でちらり
と男を見上げ、もう一度「ステージ」とも言うべき輪の中へ視線を戻した。
「ラッキーやで、お前」
「だから何が!?」
いい加減に吐きやがれこの似非黒人!と酷い事を口走りながらカイトはぐいぐいとヘイ
ジの着る襟の広いシャツを締め上げた。そんなに楽しそうな顔をされては意地でも聞き
出したくなるというものだ。
「ぎっっぎぶぎぶ!!言う言う!言うつもりやってんって!」と言う言葉に漸く手を放
してやると、少し咳き込んでからヘイジはやはり楽しそうににやりと笑った。
「・・・この曲はな、『7変化の日』の曲や。うちのお姫さん専用のな」
「・・・お姫さん?」
リズミカルなヴァイオリンを主音とする音だ。思わず高揚して興奮したままの体が乗っ
て踊ってしまいそうな、そんな明るい曲。
7変化、の前に「お姫さん」の正体が気になったカイトだが、それを問い詰める前に
「ほら、滅多に無いモンやねんから、見れる時に見とき」
と問い詰める相手によって言われたので、素直に輪の中に目をやると、丁度輪の奥にあ
る一番端の「clerk only」の扉からコナンが出て来た。
コナンもこちらに目をやって、驚いた様子もなくニッコリとカイトに笑いかけてさっ
と人の中に入り込んだ。まだそこから出て来るのだろうか、とカイトはコナンが出てき
た扉に目を向けていたが、誰も出てこなかった。
そして、改めて前に目をやると、今度は誰かがコナンが出てきた東側の端ではなく西
側の端の扉から出てきて、さっと人の中に隠れてしまった。――青の衣装など沢山いる
のに、目に映った真青のドレスの切れ端がやけに印象に残った。
トントン、と肩を叩かれ、いつのまにかすぐ傍にコナンがいた。目線でどうしたんだ?
と問い掛けると、コナンは意味深に笑って
「今回のボクの位置はここなんだ」
とまた謎の言葉を言って、「始まるよ」と楽しそうに壁の薄くなっていく輪の向こうに
目をやった。踊り子達の向こう側に、やはり先程も垣間見た青いドレスが小さく揺れて
いる。その音に合わせて、カツカツという靴を踏み鳴らす微かな音が耳に入った。
曲がまた変わった。解りやすい曲で、やはりリズミカルな音だ。少しテンポが速く、
踊り子達の踊りが早くなり、ホール内の熱がぐっと上がったような気がした。
ドオン、と大太鼓が大音響を響かせた。それと同時に、輪の最前列が開き、一人の女
が現れた。
肌が粟立つのを感じた。これが悪感ではない事をカイトは確かな意志を持って確信し
ていた。
美しい、と。
たったそれだけの言葉でも言い表せ切れないような美貌がそこにはあった。
心が空になってしまうまで、たった一瞬で全て「彼女」に吸い取られてしまうような
感覚に襲われる。
こんな感情は全く初めてで、それをカイトは心底から心地良いと思った。
あの煌く青い瞳に魅入られたのだ。
一瞬にしてすべてを魅了する大きな蒼い瞳。それを縁取る睫は目を少し伏せると影を
作るほど長く、細い眉毛はキリリと長い弧を描いていて、スッキリと筋の通った鼻梁に、
紅く小さな形の良い唇が、完璧な配置で小さな白い顔の中に収まっている。
肌の白い頬もホールの熱気の所為か美しい薔薇色に染まっていて、白い頬を縁取る艶
やかな漆黒の髪は軽く結い上げられ、艶めかしく誘う項を晒している。
キメ細かい肌にはシミ一つ無く、折れそうなくらいに細い腰から下に広がるタイプの、
真っ青なドレスに包まれる肢体はスラリとして美しく儚い印象を与えながらも、最高の
プロポーションを見せている。
ドレスにはスリットが大腿の付け根辺りまであり、思わず目を釘付けにされてしまう
脚線美を惜しげもなく晒し、目の毒と気づかせる前に男を欲情させる効果を持っていた。
彼女の持つ余りにも儚く清楚な少女を思わせる印象に驚き、そして見惚れていたカイ
トは、曲が終わったと思った次の瞬間、戦慄した。
タンタンタン、と力強く石造りのホールが踏み鳴らされる。
前奏も何も無い「バラトーレ」をかなり乱暴な旋律で楽器が奏でている。
先程とはあまり変わったとは言えない光景。曲も同じ。振り付けもあまり変わってい
ない。しかし、明らかにそこにある空気は変化していた。
ささやかな水の流れを感じさせる儚く清楚なものから、力強く、野性的なものへと彼
女の纏う雰囲気がホール全体の色ごと変わったのだ。否、彼女の強烈な気配がこの場を
変えたといった方が正しいだろう。今、「彼女」はこの場を一番圧倒し、支配している
のだ。
左手はドレスの裾を軽く掴み、石の床を蹴り、力強い音を刻みステップを踏む足が際
どいところまで露になる。スラリと上がる、強く掴めば折れてしまいそうなくらいに細
い右手には強烈な存在感があった。
蒼い目は炎のような輝きを持ち、近づくものを威嚇し、焼き尽くさんとする危険な光
を放っていた。しかしその紅い唇に宿るのは常に獲物を誘い込むような微笑みは、拒絶
ではなく、罠に掛かる獲物を心待ちにしているような企みの気配。
少女から「女性」ではなく、もっと原始へと戻った「雌」への変貌に、カイトは一種
の恐怖とそれを上回る興奮が、体中を暴れ回るのを感じた。
そう、ここにいるのは人ではない。情動を起こさせる獣なのだとカイトは彼女に魅入
られながら想った。
「・・・・・・うわ〜〜初っ端から飛ばし過ぎだろ・・・」
コナンが心配そうな声音で言った。それに反応して「何?」と聞き返すが、何でも無い、
というだけでまたコナンは彼女を眺めた。
一分弱という短い曲を終え、終わるかな、と思ったそれは間違いだった。先程の変化の
時と同じ様な戦慄がカイトの体に走ったのだ。
一瞬の気の緩みが命取り。仕事の時に良く言い聞かせている事だが、今回ばかりは少々
勝手が違った。2度目の変貌だ。
パンパンパン、と彼女は手を鳴らて踊るものは、同じ振り付けではなく少し控えめな
ものだった。しかし、彼女からは生唾を飲む緊張を強いられるような、高貴な者の持つ
プレッシャーが放たれていて、逆に捻じ伏せたいという支配欲が擽られる。
誰かに屈する事を決して良しとしない、高貴な者のみが持てる特有の威圧感。ほんの
一瞬の、脆く崩れてしまいそうな気配が「独占欲」や「支配欲」と同時に「庇護欲」を
疼かせて、カイトは力ずくでも抱き締めたいという衝動に駆られた。
野性の獣の雌から気高い貴女への変貌。止まる気配の無い熱のうねりに、次は何かと
カイトは隣でほくそえむコナンを視界から切り離して彼女に見入った。
曲の終わり。彼女は勢い良く手を振り上げる。それと同時に、ずっと静観していたコ
ナンが動いた。
ヒュンっと二本の棒が空を切って彼女の下へ向かう。彼女はにやりと笑って鮮やかに
それを受け取り、切れの良い動作で一回転してから弾けるような笑顔を見せた。3度目
の変貌。
彼女が受け取ったのは二本のマラカスだった。小さく手首を動かず度に小気味良い音
を立て、彼女はそれを手の中で弄び、無邪気な笑顔を見せながら子供の様に踊った。
一回転した時、一瞬気づくのに遅れたが彼女のスカートの丈が微妙に短くなっている
のにカイトは気づいた。深く入ったスリットの隙間からちらちらと紅い布が垣間見えて
視覚的に客を煽情する。
そこから匂わせる色香は彼女の今纏う雰囲気からは全くかけ離れていて、そのミスマ
ッチが目も心も楽しませた。
カイトは振り付けを変えて踊る彼女を眩しそうに目を細めて見ていたが、突然彼女が
こちらに駆けてきたのに驚いて硬直した。しかし、すっと隣に佇むコナンが駆け出した
事によってすぐに正気に戻る。
二人で手を取り、可憐な子供の顔で踊る姿を微笑ましいなと思いながら見詰めた。
正直、コナンは気が気ではなかった。
踊る「彼女」は美しい。はっきりきっぱり、それだけは誰が何と言おうと天地がひっ
くり返ろうと断言できる。だが、今はそんなことは問題ではないのだ。
「バラトーレ」が4度目に入り、四人の「彼女」が出て来た。踊りも順調だし、傍目
には全く問題がないように見える。それが、一番の問題だった。
隠し持っていたマラカスを投げ、彼女が受け取るのを見てから慎重に自分が入ってい
くタイミングを計り、彼女がこちらに駆け出すのと同時に自分も駆け出した。補佐に入
る為に。
彼女よりも少し身長が低い自分を心の中で呪いながら、コナンは彼女の手を取ってマ
ラカスを一本引き受けて、少女へと変貌した彼女と共に曲に合わせて気ままに踊りなが
ら薄っすらと汗を浮かべる彼女に囁いた。
「体、大丈夫?」
「・・・多、分」
トランスするように踊りに集中している彼の人は、途切れ途切れながらにもしっかり答
えた。やはり、息が少し苦しそうだったけれど。
「今、四人目だけど。あと三人、いけそう?」
ここで「やる」と言われれば、シホとの賭けは負けてしまうのだが、姫君は至極当然と
ばかりに短くキッパリと答えた。
「やるよ」
それに、ほんの少しだけ苦笑し、コナンは
「・・・わかった。頑張って」
とだけ囁いて、表面上は無邪気に微笑み、軽く姫君の頬にキスをしてから曲の終了と共
にマラカスを取り上げ、タンバリンを高く投げて再び彼女に熱い視線を送るカイトの隣
へと戻った。
そして、戻った途端、カイトが少しだけ屈んで耳元で囁いてきた言葉に小さく驚き、
少しだけ笑った。
今度はタンバリンを鳴らしつつ、彼女はこれ以上内ほどの無表情で踊った。まるで人
形のような、無機質というよりは透明な顔。しかし、その内側には炎よりも熱い激情を
湛えていると解る。
ピンと感覚が研ぎ澄まされる。ほんの少しの動作をも見逃させない何かが彼女にはあ
った。
一瞬足りとも彼女から目を離さず、カイトは頭の片隅で先程のコナンとの会話を思い
返してみた。
『・・・あの人、なんか具合でも悪いのか?』
とカイトは戻ってきたばかりのコナンに聞き、聞かれたコナンは少しだけ驚いた顔をし
て曖昧に笑い、彼自身にも言い聞かせるように『大丈夫だよ』と言うだけだった。
体の切れは全く緩まず、踊りには情熱と力強さが全身で感じられた。ぴんと伸ばされ
た細い首に緊張した項から背中に掛けてのライン。強く石の床を踏む脚。高く高くと上
げられる右腕。ピンと張り詰められた緊張に、いつ切れるとも知れない危うさに思わず
カイトは心配になったのだ。
そんなカイトの心配など関係ないものだとばかりに彼女は感情を持ってしまった完璧
なる人形を演じ、タンバリンをコナンに投げ渡してから同時に投げられた大振りの鈴が
連なるブレスレット状の物を取って腕に通し、口元に蠱惑的な笑みを刷いた。
清純なイメージの青から、情熱的に欲を煽る赤へ。
一瞬にしてドレスを脱ぎ捨てた彼女は妖艶な美しさで微笑み、情事の後を思わせる些
か緩慢且つ気怠げな仕草で手を振った。シャン、と細かく鼓膜を擽る音が小さく響いた
直後、大きくドレスのスカートの裾を左手が掴み、変わらず石の床を踏み鳴らす脚を晒
し、赤い衣を翻した。
高慢に人を見下し、媚びるでもなく挑発し、挑発する一方、歪められた紅い唇で甘く
囁き誘惑する。
ここにいるのは紛れもない娼婦なのだとカイトは体感する。結い上げられていた筈の
漆黒の髪は白い肌に流れていて、乱れるそれを指で梳いて口付けたい衝動に駆られる。
衣装が少なくなった所為で更に細い事が解った折れそうな腰に、腕を絡めて抱き締め
てしまいたいという欲求ははっきり言って抑え難いものとなっていて、思わずカイトは
欲望のままに動き出しそうになる手を握り締めた。
・・・自分のその反応は結構正常な――というか、まだマシな方――ものだと分かるのは、
そそくさとヘイジが密かにその場を立ち去る後ろ姿を見てからだったが。
曲はあっという間に佳境に入り、ダンッ!と今まで以上に力強く床を踏み鳴らし、終
わりと同時に彼女は一回転してまた衣装を変えた。
情熱的な赤から、惹き込み吸い寄せる黒へ。
髪の色にも負けない闇よりも深い漆黒の衣装は、彼女の透けるような白い肢体を浮き
立たせ、明るすぎる空間の中に突如現れた夜そのもののようにも思えた。
最高潮に張り詰める緊張と興奮。蒼い目は今まで以上に輝き、紅い唇は挑むような、
それでいて誘っているようにも見える不敵な笑みが刻まれている。
石の床を蹴る脚の動きは些か乱暴だがかなり自然な動作で、情熱的とも言えず、かと
いって冷めてるとはどう考えても見えない踊りからは、内側から燃え上がる蒼い炎が見
えた気がした。
先程から変わらずに彼女の細い手首に巻きついている鈴が、シャンシャンと立て続け
に鳴る。綺麗な脚が、床を力強く蹴る。バサッと左手に掴まれた漆黒のスカートの裾が
翻った。
・・・そして、気がついた時には彼女は元の青いドレスに戻り、再び踊り子達の壁の向こ
うへ戻ってしまっていた。
要するに、惚けていたのだが。
(・・・・・・ど〜しよ、これ・・・)
心臓がバックンバックンと乱れ打っているのが解る。後少しでも遅ければきっと失神し
かねないくらいに激しく。
(う〜〜わ〜〜〜〜・・・・・・ヤバイ)
「・・・惚れた」
身体機能に支障をきたしかねないくらいに乱打し続ける心臓の音と湧き上がってくる感
情の渦の正体を、カイトは消えていく青いドレスの裾の端を見かけ惚けたまま見送りな
がらボソリと呟いた。それから、頭を抱える。
(マジかよ〜〜・・・・・)
娼婦で(余り気にしないのだが)次のターゲットの店の(多分)看板で(情報収集に使
えるとか割り切れれば良いが、絶対無理だ)しかも向こうの気なんて全く解らないよう
な(それは初対面も果たしていないから当然だろう)・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ま、いいか)
と心の中で踏ん切りを付けたカイトは、いつの間にか自分の隣に立っていたコナンがい
なくなっている事に気づいていても、それを追っ駆けようとは微塵も思えなかった。
惚れてしまったものは仕方ないんだし。さぁ〜てどうやって落そうかな♪なんて考え
ているカイトは、自分と同じ様に彼女が消えていった「clerk
only」の扉を見入ってい
る青年には気づかなかった。
その男も、カイトと同じ企みの顔をしている事も。
自分のモノなのに、心と体が全く違う方向へ機能するのはいつもの事だと「彼女」は
解っていながら、ほんの少しの違和感を感じていた。
こうして踊っている時、自分は全くのトランス状態に入る事を知っている。つまり、
何も考えていない状態に陥るのだ。だから、普段の自分からでは到底しないような事も
出来るし、羞恥心も特に湧かない。
バックのヴァイオリンの音が遠くで聞えている中、「彼女」は実はかなり危ない状態
だった。コナンに「最後までやる」と言ってしまった以上、ちゃんと遣り通すつもりだ
ったが、6人目を出した直後、心臓が異常な程に乱打しているのを感じたのだ。
呼吸が乱れるくらいならまだ大丈夫。でも、心臓が痛くなってきたら黄信号。目の前
が真っ暗になってきたら赤信号だ。
(・・・ちょっと・・・危ないかも)
そう考えていても、自己暗示に近い言葉を吐いた体は止まらない。それに、最後の曲な
のだから、と痛みを訴えてくる心臓を息さえも堪えて踊りきった。
(・・・あ。ヤバイ・・・・・・)
ふうっと力が抜ける。視界が暗くなって、強制的な眠りの縁に立たされた。
彼女・・・否、「彼」は、駆け寄ってくるコナンとヘイジとシホの姿を視認した後、急速に
目の前が真っ暗になるのを感じた。
踊り子達の後ろで崩れるようにして倒れた彼・・・シンイチを、ヘイジは間一髪で抱き留
め、「clerk only」の扉を開けて促すコナンと後ろから急かすシホに押されてながら急
いで3人揃って彼の寝室へと向かった。
静かにヘイジが眠るシンイチの体をベッドに寝かせ、コナンが掛布を掛けて、シホは
それを横目で見ながら腕を取って脈を計った。
「・・・大丈夫。セーフよ」
ふう、と息を吐き、テキパキと点滴の用意をしながらシホが言うと、コナンとヘイジも
心底からほっとした様子で息を吐いた。
そして、先程までホール中の客を魅了していたとは思えない幼く見えるシンイチの寝顔
を愛し気に覗き込み、コナンは軽くシンイチの額にキスを贈ってから、後はシホに任せ
ようとヘイジを引っ張って部屋を出た。
少し暗くなるようにカーテンを引かれている部屋の中、シホの目に映るシンイチの顔
色は泣きたくなるほど悪かった。
点滴の短い針を彼の細い腕に慎重に刺し、マキシングテープでそれを留めたシホは、
軽く額に掛かった彼の前髪を梳いてやり、静かに立ち上がった。
「・・・・・・もう少しよ・・・・・・」
皆、協力してくれるから。貴方の味方だから。
願うというよりは祈るような気持ちでシホは囁き、良く眠っているのを確認してから、
極力静かに外に出た。
夜の女王は中天にあり、それは今、薄い雲に隠されていて見えなくなっていた。
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さぁて、漸く接触・・・しかし、実はこの時シンイチさんの意識のなかには殆どカイト君はいなかったりします(苦笑)
私の趣味と好みと趣味の塊みたいな一本・・・これを書く為だけにこの中編を書き始めたといっても
過言ではないです(オイコラ)いやぁ〜満足までいってませんが楽しかった楽しかった♪