Brambly Hedge
―茨の境界―
〈14〉
階段を上る。老朽化している所為か、板張りの階段は足で踏みしめる度、ギシギシと
不気味に軋んだ。
コナン達の部屋はここの宿の最上階フロア全部。彼の部屋はナイト・リリーが見える
最上階より一階下の部屋だった筈だ。ヘイジが床を突き破ってカイトの部屋に落ちたの
が初対面だったらしいが、どこまでも傍迷惑な男だと思う。
手を伝う壁の感触はざらざらしていて冷たく、どこか柔かい。暖かい色彩の木を使っ
ている所為か、前世紀から立っていると聞くこの宿は古びていながらどことなく懐かし
い場所に来た気分にさせる。
ナイト・リリーの別館にも部屋はあるくせに、わざわざ向かいにあるこの宿にコナン
が住んでいるのは、こういう所が気に入っているのかもしれない。
感慨に耽っている内段々部屋に近付く。小さなランプが灯った廊下を三つの足音が進
み、微かに聞えてくる鈍い音にシホは思わず眉を顰めた。
歩を進める度近付くそれは、何かを打ち付ける音によく似ている。物を投げる時や人
を殴る時とも違う硬質で鈍い・・・嫌な音だ。
すっとシホの横を一緒に付いて来ていたマコトが摺り抜ける。大柄の男の背中は傍目
にも焦って見えた。一緒に付いてきていたソノコが不思議そうに声を掛けるが、それに
すら答えず急ぎ足で目的の扉に近付き、取ってに手を掛ける。・・・が、
「・・・・・・・・・っ」
ガチャッと中途半端に回るだけのそれ。いつも冷静な彼には相応しくない舌打ちが聞え、
一瞬息を吸って目前の障害物を睨み付け――強烈な蹴りを食らわせた。
何をするのかと黙って見守っていたシホは突然の行動に驚いたが、ズカズカと遠慮無
く部屋に入るマコトの切羽詰まった様子に慌ててその後を追った。滅多に見ないマコト
の荒々しい様子に思わず見惚れていたソノコも続く。
問題の部屋に踏み込んだ三人を待っていたのは、何かを吐き出すような赤に染まった
床に座り込む、切り札となる筈の男だった。
彼は――カイトは、突然の侵入者に気付いた様子も見せず只じっと己の拳を見つめ、徐
にそれを近くの壁に叩き付けた。
「・・・・・・っ何をしてるんです!」
ダンッ!と古びた窓を震わす程の衝撃に、ソノコは思わずびくりと肩を揺らし、マコト
が慌ててまた壁に打ち付けようとする彼の手を掴んで止めた。
だが、どこか虚ろな目をしたカイトの力は凄まじく、屈強な体と巨躯の男一人を軽々と
投げ飛ばせる腕力を持つマコトが、危うく振り回される所だった。
「こんな事をしても自分を傷つけるだけですよ!」
なんとかマコトはカイトの手がこれ以上傷つかない様に正面から押さえつけ、何処かに
墜ちてしまっている意識を引き戻そうと声を掛けるが、戻ってくる気配はない。第一、
基本的に口下手なマコトには説得という器用な芸当は向いてないのだ。
そこで虚ろなカイトと必死なマコトをじっと冷静に見つめていたシホは、ゆっくりと
マコトの背後に歩み寄る。
「マコト、どいて」
手を放して良いわ。
冷然と言い放った言葉は、お願いというより命令に近い。それでもマコトが今にも打ち
付けられようとしている手を放せずにいると、
「どきなさい」
はっきりと怒気を露にした彼女が命じた。どんなに気丈で根性のある男であっても、
この声には逆らえない。否、逆らっちゃいけない。ゾクリとした寒気と同時に実感した
マコトは力が入りっぱなしの右手を離し、素早く下がった。
目を細め、無駄の無い動きでカイトの正面に移動したシホは、再び痛みを求めるよう
に床を殴ろうとした拳を足で蹴りつけて止め――
腕力、遠心力を有効に使った特大の平手を、無表情な男の左頬に叩き付けた!
バシィッ!と聞くだけで痛そうな音が響いたと思うと、今度は振り下ろした手を親指
を中に入れて握り、裏拳を右頬にお見舞いする。
ゴスッと鈍い音がしてカイトは横に倒れたが、やった本人は気にする素振りも見せず、
今度は彼の胸倉を乱暴に掴んで上下左右に激しく揺さぶった。それも時折、バシバシと
平手を交えながら。
「シ、シホ、その辺で止めないとカイトが死にますよ」
「死ぬもんですか。これくらいで死んだりしたらお姫様を助け出す資格ないわよ」
言いながら、文字通りの叩き起こす作業を止めないシホ。ソノコはというと、あくまで
も傍観役に徹し、どこか楽しそうに二人の会話を聞いている。
しかしそれもあまり長くは続かず、遂には切れたシホが、強烈な一発を色んな意味で自
失中の男の脳天に炸裂させて怒鳴った。
「寝汚い子供じゃないんだから、いい加減に起きなさい!!さもないと一生後悔させる
わよ!!?」
ブルッ。マコトは思わず彼女の言葉に身を震わせた。「後悔させるわよ」とシホが宣言
した場合、彼女にその言葉を吐かせてしまった事以前に、何故だか自分が今生きている
事すら後悔してしまった輩を数多く見てきたからだ。
表のユキコ、裏のシホとアカコ。この名前を出した時、ナイト・リリーの関係者なら即
こう応えるだろう。
ナイト・リリー―夜の隠れ家―のバミューダ・トライアングル。決して、怒らせては
ならない魔界の女王様だと。
紛れも無い事実を知っているマコトは、切実にカイトの生還を願った。――飛び火すれ
ば、確実に巻き添えを被る己の身の安全の為に。
実に幸運な事ながら、彼の命の懸かった願いは間もなくして叶えられた。
「・・・シホちゃん?」
彼女の剣幕に驚いたのか、それとも殺気に気付いて目を覚ましたのか、胸倉を掴んだ
ままのシホを間抜けた子供の様な顔で見上げたカイトは、ゆっくりと目に光を取り戻し
ていった。
一応還って来たらしい様子にほっと一息つくマコトとソノコ。傍観者であった彼女は、
今はちゃっかり恋人の傍らに佇んでいる。
「シホちゃん?じゃないわよ馬鹿。貴方は魔術師なんでしょう、魔法を扱う手を貴方が
大事にしないで誰がするの。自分の心を体に変換しないと解らない程、貴方が単細胞の
愚か者だとは思ってなかったわ」
表面上は淡々としていても、彼女の怒気は、いつもよりかなり低い地響きのような声と、
それだけで相手を殺せそうな殺気の渦が物語っている。
「・・・・・・・・・」
「何でこんな事したの。何を見たの。何を聞いたの。貴方の事だからシンイチに関して
だって事はいいとして、どうせ、裏稼業の事で無駄に色々悩んでたんでしょう。五感で
判断したものを碌に考えもせず自認するだけなら小さなガキでも出来るわ」
こういう時の言葉は、怒鳴り声よりも低くドスを効かせたモノの方が依り痛く効く。
実際、カイトはどんどん追いつめられるように顔を俯かせ、「・・・悪かった」と一言呟い
た。
「良い?貴方は、どうあっても自分で決められない勝負に勝ったのよ。何で悲観に呉れ
て泥沼に嵌まったかは聞きたくないけど、その先にこんな事をする人と彼を結び付けた
い訳じゃないんだから」
やめなさい。
理由は聞かないが、続けるようなら彼に相応しくないのだと暗に述べながら、シホはど
こからか出した医療キットの中を漁り、カイトの右手を取って傷口を消毒し、丁寧な手
つきで包帯を巻いていった。
血は乾いていたが、あのまま殴り続けていたら完全に右手は使い物にならなくなって
いただろう、と小さく溜め息を吐く。
「・・・・・・ごめん」
少しでも頭が冷めたのか、ぺこりと頭を下げて子供の様な男は、ばつの悪そうな顔で謝
った。
「カイト君は奇術・・・いいえ、魔術が得意なのよね」
すっかり眉尻を下げてしまったカイトにクスクスと笑いながら、至極楽しそうにソノコ
はシホの隣に座り込んで彼と向き直った。
「貴女は・・・・・・」
今までその存在に気付いていなかったらしい彼が、軽く目を見開いて驚きを表すと、
ソノコは苦笑して白い左手で怪我の無い左手を握り、
「スズキソノコよ。スズキ家の次女にあたるわ」
と形ばかりの自己紹介をした。愉しそうに笑いながら、彼女の目は鋭い光を湛えている
のに気付いたカイトはふっと目を眇め、その左手に額を寄せた。
普段なら口付けるところだが、シンイチを知った今は無駄にフェミニストを発揮する
気にはならない。
「存じ上げております、ソノコ嬢。俺は、クロバカイト・・・夢を見せて旅をする者です」
改めて言われる言葉には、その絶対性と覆らない決意めいたものがあった。そうまでし
て魔術師である事を誇る男が、何故利き手をここまで痛めつけたのかとシホは密かに眉
を寄せる。
「私は彼に味方する者よ」
それも、ずっと幼い頃から。と告げて立ち上がる。生まれながらの貴族である彼女は、
ほんの一動作にも人目を引く気品を感じさせる。
「自覚があるんなら、自傷はやめなさい。大体、売り物の手を自分で使い物にならなく
するなんてプロ失格だわ」
出来たわよ。包帯を留めて皮肉混じりにシホが言うと、完全に調子を取り戻したらしい
カイトが眉尻を下げて、
「ぅうう・・・肝に銘じておきます」
と反省の色を見せ想い人の主治医に礼を言った。
「・・・本当に大事にしなさい。貴方の手は、奇跡を生み出す手なんでしょう」
あの人が言ってたわ。
救急キットの中に道具を収めながら呟く。表情は相変わらず無表情だが、漂う雰囲気は
いつもよりどこか柔かい。
「・・・シンイチが・・・?」
「他に誰がいるのよ」
「へぇ・・・シンイチ君、そんな事言ったんだ」
珍しいわね、それは。興味深そうにソノコがイイ男を眺めた。マコトが視線でその意味
を問うと、楽しそうに声を潜め、内緒話のように彼の耳元に唇を寄せて何事かを囁いた。
未だ床に座ったままの二人は、下から如何にもラブラブな密談を交わす恋人達を凝視し
ている。シンイチの事は知りたいが、会話に入ればもれなく殺人キックが飛んできそう
な雰囲気に声を掛けられない。
実の所、この中でシンイチとの付合いが一番長いのはソノコである。一緒にいる時間
で言えば断然シホなのだが、抜け目の無いお嬢様は、幼い頃からお供も連れずこの物騒
な街に良く遊びに来ていたのだ。
シンイチと偶々出会ったのが8つの時。11年越しの幼馴染なのだから、勿論彼等より
知っている事は多い。
「・・・・・・それは・・・」
本当ですか?とでも続きそうな驚愕を浮かべてマコトが問うのに、ソノコは満面の笑顔
で頷く。そして内緒よ?と言うように口元に人差し指を立ててウインクしてみせた。
「・・・・・そろそろ、行きましょう」
どうやら教える気はないらしい事を悟ると、シホはゆっくりと立ち上がってカイトに付
いて来るよう促した。
「そういえばコナンは?」
良く彼女と共に行動している少年の姿が見かけないのに今更ながらに気付いて聞くと、
シホがどこか楽しそうに
「宝捜しよ」
と応えた。宝捜し?と不思議に思って首を傾げて考えてみるが、答えを知っていそうな
シホは既にカイトに背を向けて歩き出していた。目の前のカップルはというと、相変わ
らずいちゃついて、二人の世界に巻き込まれるのは真っ平だったカイトは彼女の後を追
った。
「どこに?」
行くんだ?
「店に決まってるでしょ」
何なら美味しいお茶もご馳走するわ。
「作戦会議よ」
夜が更ける。それは策謀の夜。
日毎に大きく、完全なる形を取り戻す月が姿を現す夜。
永久の祈りを捧げ、闇に差す一条の光を望む者達の不眠の夜が。
ベランダで風に吹かれながら月を眺めていたシンイチは、誰かが部屋に入ってくるの
に気付いて静かに振り返った。一粒だけ零れた涙の後は消え、それを齎した男はキスを
するだけしてまた夜にと帰って行ったのだ。
他には誰もいなかった部屋に侵入してきたのは、彼の両親とアカコだった。伯爵に触
られた箇所に立った鳥肌を収めようとしていたシンイチは、意外な組み合わせに思わず
目を瞠り、腕を擦っていた手を止める。
「・・・さっき、伯爵が来たよ」
「知ってるよ。わざわざ鎖をつけに来たんだろう」
脆い、鎖を。
状況を見もしないで確信した口調で言うユウサクに、シンイチは憮然として頷きながら、
何の用だよ、と父親を睨み付ける。
「なあに、明日のショーの事さ」
「・・・・・・出ろって言うのか?俺は――」
ステージに。おそらく人生最悪の日になるであろう夜に、歌って踊る気に到底なれそう
にない。
だが、すかさず否を告げようとすると、ニッコリ笑ったユキコがそれを遮った。
「最後になっちゃうでしょ?シンちゃんのショーが」
伯爵の元に行ってしまうから、とは言わない。ただどんな風に転んでも彼がこの先館の
ショーに出ることが無いと分かった以上、後一度彼はショーに出る義務があった。それ
は・・・
「‘テルプシコラ’か・・・」
「当りvちゃんと次に継がないとね♪」
テレプシコラ。テルプシュコラーやテレプシコレなどと呼ばれるそれはギリシア神話の
歌舞の女神の名前である。そして、‘テレプシコラ’は数年前にユキコからシンイチに
受け継がれたブルーダイアモンドの名前でもあった。
ナイト・リリーのショーの花を飾る者に継がれるそのビッグジュエルは、実はユキコ
がユウサクの元に来た時に、前に働いていた娼館の主人から餞別として貰ったものだ。
ショーのトップに引き継ぐ、という形はその館での風習だった。
だから、シンイチもショーから降りるからには、まずテレプシコラを誰かに引き継ぐ
必要がある。そしてそれは、ショーを最後にこなした後と決まっていた。
「後継は誰にするんだ?」
シンイチと張る踊り手や歌い手は、ナイト・リリーに殆どいない。何人かいるにはいる
が、加えて器量良しと来ると該当者はゼロだ。
「私よ」
訝しげに首を傾げて訊ねると、ユウサクやユキコから一歩離れた所に佇んでいたアカコ
が言った。
「アカコが?・・・・・踊れたのか?」
シンイチがアカコを拾ってから随分と長い付合いになるが、彼は彼女がショーや内輪の
パーティでも踊った所を殆ど見た事が無い。客の男とペアで踊る事は何度もあったが、
彼女一人でショーに立つ事は皆無だ。
そう微かな驚きを露にして聞くが、
「嘘よ。ショーなんて表舞台に私が立つと思って?」
サラッとした否定が返された。
「思わねえよ。思わねぇけど・・・」
がっくりと肩を落すシンイチに対し、好みの反応を引き出せたらしいアカコは満足そう
に微笑んでいる。
「コナンに頼もうかと思ってね」
「あいつはまだ12だぜ?」
「お前が立ったのはいつだった?」
「・・・・・・・・・10になるかならないか、だった・・・」
小さな歌姫と呼ばれていたのを覚えている。あの頃は男なのになんで姫なんだ、と良く
怒っていたのに、今では姫と呼ばれるのに随分慣れてしまった。周りの影響だろうが。
「コナンなら、なんとかなるだろう。・・・まだ歌はイマイチだけどね」
くすり。微笑む顔は、父親らしい慈しみに満ちている。こんな男の顔を子供はきっと見
た事がないだろう。
だが、生きている年数が長い分、シンイチやコナンを館で働かせている割に、この男は
父親としての愛情を深く持ち合わせている事を知っていた。
「・・・・・・・・・―――解った」
長い葛藤の末にシンイチは重く頷くと、ユウサクは頷き返して静かに背を向けた。
「最後のショーだ。楽しみにしているよ」
お前も楽しみなさい。いつもの余裕な微笑みを残して去って行く姿は普段と変わりなく、
キッパリと向けられた背中に別れへの哀惜は一切感じられない。その必要はないのかも
しれないし、または其れが彼の館長としての義務なのかもしれなかった。
「ねえ、シンちゃん」
「何だよ母さん」
扉に向かう夫の背中を見つめながら、ユキコは大輪の花を思わせる笑顔を向け、細い腕
を彼のそれに絡め、頬にキスを贈って囁いた。
「私は・・・私達は、シンちゃんの味方よv」
「・・・・・・あんまり説得力ねえよな」
味方なら・・・否、普通の親なら子供を男娼になんかしないだろう。子供の頃から其れが当
り前だと受け入れていた自分にも責任があるのだろうが。
「うふふふ〜vだって親だもの。親らしい事はしてないんだから、せめて子供の味方で
いたって良いでしょう」
らしくなくても、ちゃんと生みの親なんだしぃ。そう、この夫婦が子供達を愛していな
いなんて有り得ない。親としてではなく、常に館長として、また対等の人間として扱わ
れてきた事に、シンイチは不満を持った事はなかった。
「わかったわかった」
子供の様にハイテンションではしゃぐユキコを受け流し、額に軽くおやすみのキスをし
て彼女を送り出す。先程閉められたばかりの扉の向こうには、しっかり妻を溺愛する夫
が待機しているのだろう。
パタン、と密やかな音と共に扉が閉まり、ユキコの姿がその向こうに消えた。
しんとした静寂が部屋を流れる。沈黙が続く内に、今夜も盛況なステージの音楽の音
が聞える。この時期の夜は長く、その分ナイト・リリーの火は強く明るく灯っているの
だ。
ごそごそと、何かが暗い所を這っている。別に卵一個で大繁殖の八足節足動物や台所
の天敵ではない。れっきとした人間である。ずり落ちる眼鏡の奥は楽しい遊びをする時
の様に爛々と輝いており、部屋の隅々まで目を走らせる眼光は大人顔負けの力強さだ。
小さな体で屋根裏部屋に入り込んで何かを探す子供は勿論、シホが『宝捜しに行った』
と説明した当人のコナンであり、彼がいる屋根裏部屋の真下の部屋ではヘイジがベッド
をひっくり返してやはり何かを探していた。
そこは、シンイチの部屋の向かい側・・・ナイト・リリー別館の最上階にある二部屋の内
のもう一つである。
「大体、どうしてシンイチに貰ったもんを自分でも解らん所に隠すんや!」
コナンまで聞えるように、今度は小さな衣装箪笥をずらして壁の間を探すヘイジ。
「仕方ねえだろ〜俺あの時まだ3歳だったんだぜ?『宝の地図』なんて言われて、宝を
探すのは条件付きだったんだから、普通隠すだろ」
ひょいと屋根裏に通じる天井板から顔を出して言い、又引っ込んで捜索再開するコナン。
「いや、隠すんはお前くらいやと思うぞ・・・」
「何か言ったか〜?」
「なんも言っとらん」
ボソリと非難混じりに呟けば、素晴らしい地獄耳で聞きつけたらしいコナンのどす黒い
声に、ヘイジは即座に返答する。そこに焦りも慌てる様子もなく、彼等の付合いの長さ
が窺い知れる。
そもそも彼等が何を探しているのかというと、話は約9年前・・・・・・つまり、シンイチ
が初めてショーに立った頃まで溯る。
『これは、大事なことなんだ』
自分の膝に乗せたコナンに手の平サイズの紙片を握らせ、シンイチは優しく握らせた手
を包み込んで言った。
『これはな、コナン。俺だけが知ってる宝物の地図だ』
『たからもの?』
『多分俺には必要のない物。・・・でも、コナンやシホには必要となるかもしれない物だよ』
じっと見つめてくる瞳の蒼を未だ鮮明に思い出せる。その時シンイチが纏っていたのは
紺の燕尾服で、丁度初ステージの直前の話しだった。
『シン兄ちゃんはいらないのに、たからものなの?』
『そうだよ。でも、きっと・・・必要となるものなんだ。だからもし、シホやコナンが自由
を手にしたくなった時、此れを元に探して欲しい』
宝物を。シンイチはコナンの手を開かせ、少し皺になった紙片を差した。それにはどこ
の物か解らない地図と、暗号のような文字が書かれていた。
そう言いながら、シンイチは彼自身の助けの為に使えという事を一切言わなかった。
彼は持つ宝物をすべてコナンに託し、「シン兄ちゃんは?」と改めて訊く子供に微笑み
かけて「必要ない」と短く答えた。
彼の微笑みは十歳の子供にしては達観し過ぎたもので、コナンには其れがとても儚い
ものに見えたものだった。
今探しているのは、今まで心の奥底で引っ掛かっていた小さな紙片である。しかし、
流石に九年前とだけあって全然作業は進まない。
「大体、9年も前っつったら俺まだ3歳だしな〜。自我を持ち始めたばっかの頃の記憶
なんて殆どねぇよ・・・」
天井裏が終ったらしく、身軽な動作で穴から降りたコナンは体に付いた埃を軽く叩きな
がらぼやいた。まだ発育途中の小さな体から落ちた埃が宙を舞い、空中を漂った後床に
落ちて行く。
「・・・大切なものを隠すとしたらどこやねん」
「見つからない所、だろ」
尤もな事を聞いてくるヘイジに、ふぅと溜め息を吐きながら床を見下ろすと、光の加減
でその塵がある一点に向かっているのが見える。つられるようにヘイジも視線を落し、
ヒクリと頬を引き攣らせた。
吸い込まれるように動く空気中の塵は、まるでそこにある何かを示唆しているようで。
何気なしにその様子を見ていたコナンは、ふと思い付いて埃が向かった一点を足で押
してみた。
すると、ぐっと体が僅かに沈み、ガコンッと何か外れるの音がする。其れは当然足元
から聞えてきて・・・ぐるりと床板の一枚がが回転して外れた。
「・・・・・・・・・あ」
出て来たのは、小さな封筒。
「お前・・・・・・・」
どこの世界に、隠蔽用のカラクリを自室に作る三歳児がおんねん。
はぁあ〜〜。半ば呆れ、半ば気の抜けたような溜め息を吐きながら、ヘイジは封筒を拾
い上げてコナンに渡す。彼は其れを受け取り、素早く封を切って中身を確認すると、や
はり思い通りに目的の紙切れが入っている。
古びた紙切れを慎重に取り出し、かなり簡単な部類に入る暗号に脳をめまぐるしく回転
させてヘイジに渡した。
「よし・・・じゃあ、次は」
「お宝、やな♪」
「遊びじゃねえんだぞ」
「わかっとるけど。シンイチも楽しませる為にこんなん作ったんやんけ」
ピラピラと紙切れを手の中で弄びながら言うヘイジは、目に極々真剣な色を湛えていて、
普段はおちゃらけているこの男も又、実はよく回る頭で10歳の頃のシンイチの暗号を
解こうと思考を巡らせている。
「行くか」
「おぅ」
短いやり取りの末、バタンと閉じられた扉の向こう。大きく切られた窓には、大きな
月が時間切れを迫るように星達を押しのけて沈んで行く。
静けさに合わせて段々研ぎ澄まされてきていた聴覚の隅で、徐に衣擦れの音が聞えた
かと思えば、今まで影のように部屋の片隅に佇んでいたアカコがゆったりとした濃紫の
ナイトドレスを揺らめかせ舞うような動作でシンイチの前で跪いた。
「・・・自分を見捨てないで。諦めないで。貴方の光明への道は貴方の望むままに」
ずっと、それが言いたかったの。
そっと彼の手を取って、祈るように口付けて囁く。占い師の・・・魔女の言葉。時にそれは、
力を持ち言霊のように人の心を揺さ振り、人に力を与える。
「アカコ・・・俺の生は俺の物だ。でも、俺の未来は・・・・・・」
「違うわ」
跪いていたアカコを優しい仕草で立たせてから、穏やかに否定を紡ごうとしていた言葉
は、キッパリとした自信満々の女の声に遮られた。
「貴方の生は勿論、貴方の未来はあくまでも貴方の物よ。誰かに縛られそうになったら
縄を切ってしまえば良い。鎖を外してしまえば良い。―貴方の想う未来を甘受しないで
って言ってるの」
「甘受・・・しているように見えるか」
「見えるわ」
正面から蒼を見つめながら、すぐそこまで迫っている現実に対し辛辣に否定論を掲げる。
確定されない筈の未来について、口調だけでここまで断定的に行ってしまえるのは魔女
の異名を持つ彼女くらいだろうとしみじみ思う。
「貴方は・・・自分から光の出口に背を向けてるのよ」
シンイチの指に己の白い指を絡めて囁く声は、背中にはまだ光があるのだと訴えている。
ただ、彼自身が望み、振り替えれば辿り着ける光なのだと。
自分で決定してしまった事は決して曲げず、人と約束した事は破らず、何よりも館の
利益を優先する。シンイチがそんな男なのだとアカコは良く知っていた。拒むべき相手
との約束でさえ律義に守ろうとし、破らせるのは至難の業なのだと。
アカコとは丁度コナンが生まれた歳・・・シンイチが7歳だった時、裏の路地で虚ろな
目をして彷徨っているのをシンイチが見かけて「拾った」以来の仲だ。
だから、両親や会館当初から勤めている店員以外では一番シンイチとの付合いは長く、
誰よりも彼の事を知っているといえる。
秘密を秘密とせず、其れを不快とさせないで当然とする力を持つ魔女。大人が聞けば
笑ってしまう様な「私は魔女の末裔なの」という告白を、シンイチはあっさりと受け入
れて更には面白いなと笑ってみせた。
笑い飛ばされるのを承知で告げた声を、否定され続けた痛みに悲鳴を上げる心ごと包
んで手を差し伸べてくれた彼に、どれだけ救われたか解らない。そして、それは今も変
わらず、だからこそアカコはシンイチを光だと、光の魔人と呼ぶのだ。
「シンイチ・・・貴方は一人で全てを抱え込み過ぎですわ」
もっと、私達を利用しなさい。
赤の混じった漆黒と晴天よりも青い蒼がぶつかり合う。普段なら蠱惑的に男を誘う赤い
唇が、今は守りたいと想う人を諭す為に言葉を紡ぐ。
「一人で抱え込んでいても、何の解決策にもならなくてよ。漸く見つけたんでしょう。
やっとまた愛せる人が見つかったんでしょう。今までずっとこの館に貢献してきた貴方
自身が、幸せにならなくてどうするの」
「アカコ・・・でも、俺は」
「幸せになるべきじゃない、なんてふざけたことは言わないで頂戴ね」
昔々の事を知っているからこそ通じる会話だ。実の所、其れは館長やコナンですら知ら
ず、他に知っているのはソノコだけである。
シホ達はシンイチの初恋がカイトだと思っているが、本当はそうではない。
10年以上も昔。シンイチは実らぬ恋をした。
使い込まれた万年筆、館の中にいては滅多にお目にかかれないマジックを特に好む原
因。今やすっかり愛用品となった万年筆は、彼の初恋の人の言わば形見となってしまっ
たが・・・・・・。
‘殺された’初恋の人を助けられなかったという負い目の所為か、シンイチは自分の幸
せを追求せず、寧ろ自ら過酷な状況に課しているように見えたのだ。
「シンイチ・・・私は、貴方に救われたのよ。どんなに否定しようとも其れは変わらない。
貴方の幸せは私の願いでもあるの。貴方があの男を拒もうというなら、私はこの力を惜
し気なく振るえるわ。貴方が幸せを掴みに行くなら、私は力の限りでそれを助けるわ。
――それが私の望みだから」
味方がいる事を忘れないで。
切実な思いを露にして言われた言葉は、シンイチを頷かせるだけの力を持っていて、月
光を浴びた皓いアカコの顔が微笑みの形を作るのが彼には見えた。
「全ては、貴方の望むままに」
それは、あの男に言ったのと全く同じ、しかし全く違う意味を以って紡がれた言霊。・・・
・・・一方は呪詛の如く、また一方は呪いの如く。
沈みかけた月が、朝の光を伴って昇る太陽に背を向けて、西の地へと埋もれて行く。
階下での喧燥はすっかり止んでおり、明りといえばゆらゆらと風に揺れる灯火のみ。
白けてきた空に涼しい朝の空気の仲、本館に泊まって行った客達とそれを見送る娼婦
達が少しずつ姿を現すのが見えた。
「明日は、盛況になるな」
「・・・ええ、きっと」
それこそ、色んな意味で。
無表情で見下ろしていた男女二人は僅かに微笑み、きっとこれ以上なく賑わうであろ
う今宵の宴に思いを馳せた。何せ、ナイト・リリー2代目の姫が立つ最後のステージだ。
饗宴好きな月の女神を存分に満足させてみせよう。
シンイチは静かに、不敵に嘲笑った。
「最後に勝つのは・・・・・・・・・俺だ」
そんな彼に、アカコも婉然と笑い返した。嬉しそうに。愉しそうに。
影が伸びる。雲雀が一声涼やかに鳴いて、微かな羽音を立てて蒼さの増してきた空に
飛び立って行った。
朝早く。煙草の煙が充満する警視庁に一通の手紙が届いて、とある熱血刑事の、野太
い怒声が轟く。
『今宵。 鳥が籠から出でし時
メガイヤの手にセレネが堕つ前に
夜の隠れ家の深奥で抱く歌舞の女神を
頂きに参上する
怪盗KID』
怪盗キッドの予告状。夜の隠れ家という別称を、警視庁の人間で知らない者はいない。
流れ出す。
全てが。
・・・饗宴のステージへと。
next
終る終るといっときながら・・・終りませんでした(汗)
佐倉サンに「ラスト地味なのと派手なのとどっちが良い?」って聞いたら「派手な方」といわれたので(コラ)しかし予想外にカイト君をヘタレにし過ぎました。格好良くする方針だったのに。
次で名誉挽回(?)します。そして次こそ何とかして終らせます!更新遅くて申し訳ないです;;
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