東 日 本 大 震 災

〜 遠く離れた 阪神・淡路より U 〜

1.再び東北へ
 被災地に何かがしたい。そんな思いは南三陸町への支援業務で一応の決着を付けることができました。しかし、それはあくまで仕事。16年前と変わらない「市役所の人」であったに過ぎません。当時、救援物資集配所の業務を1月余り任され、ボランティアと一緒に仕分け作業を行いましたが、私はあくまで「市役所の人」でした。仕事に追われ、日々入れ替わるボランティアの方々と打ち解ける余裕もなく、「ありがとう」が言えないままに別れた残念さが残っています。ただ、その時は自分も被災者だという気持ちがありました。しかし、今は支援することのみの立場。今度は私がボランティアとして被災地に行くことを考え始めました。
 今回も運よく、西宮市職員労働組合が陸前高田市へのボランティアを募集していることを知りました。今やらなければ一生悔いを残すことになります。ボロボロになって帰って来ることも覚悟の上で応募しました。


 2.陸前高田市へ
 陸前高田市も南三陸町と同様に、街の原型を留めない被害状況でした。しかも広い。ガレキ処理も大分進んでいて、高く積み上げられたガレキの山は16年前の甲子園浜を思い出させる状況でした。ただそれは、市の中心部のみのこと。周辺部のガレキ処理は進んでおらず、3ケ月が過ぎたと言うのに、全く手つかずの状態でした。アスファルトの流された道路は車が通るたびに土煙を上げ、ガレキの海ははるか遠くまで広がっています。
     
 市内に入って、広さに驚く  高田病院も壊滅状態 各所にできた廃棄物の山
     
地盤沈下で水が引かない 壊れた堤防の内側に仮設の堤防  中心部以外は手つかずの状態 
     
水田に残されたトラック   船も相当内陸へ 復旧工事が進められている国道45号線


 3.16年前の「ありがとう」
 私が作業指示を受けたのは、米崎町脇ノ沢地区の海岸から続く緩やかな坂道の途中。海の見える眺めのいい場所ですが、震災前は建物が密集して海は見えなかったそうです。作業をするのは傾斜地にある老人宅。奥まった場所ではありますが、入口の民家は流され、基礎だけになっています。建物は1階のコンクリート部分に木造の2階建を乗せた構造で、一見持ちこたえたようには見えますが、流されて来た車が突っ込んで、2階部分は全滅だそうです。
 作業は立木の間に流れ込んだトタン屋根の撤去から始まりました。どうしてここに流れ着いたか分からないくらい大きなもので、そのままでは動かすことができないので、時間をかけて分解し、傾斜地の下に移動させます。そして周辺からも多種多様の漂流物。瞬く間にガレキの山ができます。ビニールハウスのビニールも思いの外丈夫で、鎌を使っても簡単には裂けないものでした。それから、一輪車を使って少しずつ廃材置き場まで移動させます。道はぬかるみ、重いガレキのバランスを取りながらの往復はかなりの重労働です。滴る汗は眼鏡の内側に垂れ、前が見えなくなることもあります。午前の作業はなんとかこなしましたが、午後の2時間余りはかなりキツイ作業でした。慣れない仕事に体力は限界に近づきつつあります。しかし、ここで放り出すわけいは行きません。はるばる西宮から来たのですから。一歩一歩。多少速度は落ちましたがまだ足は動きます。ここからは気力の勝負。ガレキの山は確実に減っています。そして最後になって、やっと気付きました。16年間言えなかった「ありがとう」は、言葉ではなく、被災地で流す汗だったのだと。
     
 作業場所からは海を望むことがでる  建設中ではなく、流された民家の跡 周辺はガレキの山


 4.列車の来ないプラットホーム
 西宮市から派遣の他のメンバーは、JR小友駅周辺水路のガレキ撤去でした。水が流れるように、水路を塞いだ機械類を引き上げるのが主な仕事。それだけでも大変な上に、ここまでカキ筏が流されてきたらしく、腐敗して相当な悪臭を放っていたそうです。
 JR大船戸線は陸前高田市内で壊滅的な被害を受け、線路のみならず、駅舎もほとんどが流されています。この小友駅もプラットホームは残っているものの、駅舎は跡形もなく流されています。赤錆びたレールは、わずか3月余りというのに、廃線になり、何十年も放置されたレールのようになっています。誰かが立ててくれたのでしょう。「JR小友駅」の看板がやけに淋しそうでした。この時期、ここからは青々とした田んぼが見渡せるはずですが、今見えるのはガレキの海。これをボランティアの手作業だけで片付けるのはとても無理です。16年前、被害の大きさに、六甲山をシャベル1本で崩すような気持ちになったことがありましたが、あの時のことが蘇ってきます。重機の投入で、一日も早い復興を祈るだけでした。
     
列車の来ない駅は淋しい  青々とした水田が眺められるはずですが  何十年も放置されたレールのよう


 5.希望の花

 もう無理。と思っていましたが、廃材置き場の草むらにタンポポを見つけました。時期が過ぎてはいますが、綿毛もシッカリ出来ています。近くの家が流されていますから、この場所は間違いなく数メートルの津波に襲われた場所です。復興にはまだまだ時間が必要ですが、神戸の焼け跡に咲いたタンポポのように、希望の花となってくれることを祈りました。
 小友駅のプラットホームの外れにコスモスが植えられていました。まだ梅雨も明けていないのに花が咲き始めています。花の向こうにはガレキ。「被災地に希望を! 咲き続けよう明日のために!」私が今の活動を始めたのは、空地に咲いたコスモスとの出会いからです。まだ蕾のないコスモスもあります。この街に帰って来る人のため、ここに咲き続け、復興を見守ってほしいと願いました。

     
ガレキの中に咲いていました  綿毛に乗せて希望を届けてください  元祖 復興への希望の花です 


 6.思い出の品
 ガレキ処理に従事したボランティアから、見つかったアルバムや記念品などが、「思い出の品」としてボランティアセンターに届けられます。ヘドロにまみれたアルバムの中で微笑む少女。元気でいてほしいと願うのですが、悲しい結果も胸を過ります。「失ったものは/愛/命/築きあげた幸せ」あの津波は人々の生活のすべてを飲み込み、流し去ってしまいました。自分が、家族が、友人が、生きていた証。届けられるのはほんの一部ですが、思い出の品々が一人でも多くの人の手に戻ることを祈ります。


 7.自治労連「岩手支援センター
 自治体の組合員がボランティア活動の拠点としているのがこの鈴木旅館。各地から集まった自治労連の組合員がここで寝泊りして3〜5日の活動をします。与えられた部屋は本館二階の大広間。36畳あるとは言え、周りは荷物で埋まり、40人余りが寝ますので、一人1畳の確保ができません。まるで避難所状態です。環境は最悪。それでも被災者と同じ目線で活動しなければならないボランティアですから、当然と言えば当然です。ただ、夕食後はバラバラに交流会が続き、疲れても自分だけ早く寝ることのできないのが難点でした。
岩手支援センターのある鈴木旅館   消灯まで続く交流会 ひまわりの「たねっこをまくべあ」 


 6.陸前高田市ボランティアセンター
 陸前高田市ボランティアセンターは市の中心部から気仙川沿いに国道340号線を5Kmほど遡った所にあります。この辺りは津波の影響もなく、のどかな農村の風景です。しかし、朝8時を過ぎるとボランティアが続々と訪れ、活気にあふれます。ボランティアを行う個人・団体はまずここで登録を行い、活動場所の指定をもらい、必要な器材を借り受け出発します。そして、午後3時を過ぎると活動を終え、再び活動の報告と器材の返却に戻ってきます。作業中に発見した「思い出の品」もこの時に届けられます。
 
立派な一枚板の立て看板  出発前のミーティング  炊き出しボランティアが来ることもあります 


7.最後に 

 ボランティアの数が不足しているとよく言われますが、気持ちはあっても行くことの難しさを痛感しました。阪神・淡路大震災では周辺部の被害が少なく、日帰りでボランテイアに参加してもらえることもありましたが、東北では日帰り可能な地域の人口は限られています。すると遠方からの支援に頼ることになりますが、壊滅的な被害を受けている中心部に宿泊施設はありません。そして、コンビニ等の食料を調達できる店舗もありません。しかも、公共交通機関が途絶え、被災地入りは観光バスかレンタカーしかない状態です。私のように、寝る場所が確保され、食事も提供してもらえたという恵まれたボランティアは決して多くはないはずです。作業の装備・水食料及び寝る場所の確保・移動手段。すべてを自身で解決するのがボランティアの大原則です。それに忠実であろうとすればするだけ、ハードルは高くなります。被災地にボランティアの面倒を見る余裕があるはずはありません。かと言って、このままではボランティア不足を嘆き続けるだけです。被災地が無理なら、日帰り可能な周辺地域で遠くからのボランティアを受け入れ、そこから被災地に送り出す。ということでも可能になれば、ボランティアの数を増やすことができるのではないでしょうか。ボランティアの大原則は正しい。けれど、今回の災害ではそれを貫き通すだけでは苦しいものがあるということも感じました。

     
市役所仮設庁舎近くにできた復興の湯 JR大船戸線は止まったまま
隣の国道343号線が唯一の交通経路
奇跡の一本松も枯れてしまいました
接ぎ木の松が育つことを祈ります


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