神戸市中央区


59 市立科学技術高校(旧御影工業高校 さざんかの植樹

 阪神御影駅に近い御影工業高校の正門を入った所に、4本の山茶花が植えられていました。この「震災復興の木」は、亡くなった生徒への慰霊の願いを込めて、卒業生や先生の募金で植樹されたもので、震災の起こった1月には、毎年紅い花を咲かせ、学校を見守り続けてきました。しかし、平成15年3月、歴史ある学校に幕が下ろされ、今は、新しい神戸市立科学技術高校に移植され、卒業生や先生の思いを受け継いでいます。

     訪問日   2010年4月30日

71 東遊園地  慰霊と復興のモニュメント 他

 三宮センター街からフラワーロードを南へ、神戸市役所を通り過ぎた所に東遊園地があります。普段は静かな公園ですが、ここでは、市民による様々なイベントが催されています。そして震災後はルミナリエや追悼の集いが行われると共に、慰霊と復興のモニュメントや各種モニュメントが建設され、慰霊と鎮魂の会場ともなっています。
 東遊園地では、1998年から、2万本もの竹筒にろうそくを灯し、「 1.17 KOBE 」の文字を描く鎮魂の灯りの会場となっています。その灯りは、再度山大龍寺に保管されていましたが、2000年1月17日より、希望の灯りとしてこの場所で永遠に灯し続けられることとなりました。
 神戸に灯された希望のあかりは、多くのボランティアの手により全国に分灯され、各地に希望の光が拡がっています。
 そして、希望の灯りに見守られるように慰霊と復興のモニュメントは作られています。誰もが経験したあの暗闇が二度と訪れることのないように‥‥。
 犠牲者4500人の名が刻まれた地下室には、ガラス天井を通して希望の灯りが届いています。
 復元され黄金の輝きを取り戻したマリーナ像ですが、震災で落下した当時の写真を焼き込んだプレートが残されています。マリーナが見つめ続ける時計は、決して忘れることの出来ないあの時刻を指したままです。
 東遊園地は 、被災当時をそのままに残した道路、記念植樹、震災を記録するモニュメント等に囲まれ、悲しみの中から手を繋ぎ立ち上がった努力と勇気を、伝え続けています。

  訪問日   2002年2月20日 他
       2003年1月17日

72 神戸国際会館屋上  「灯りの塔 KOBEキャンドル」

 1999年5月に再建された神戸国際会館の屋上に、KOBEキャンドルが設けられました。昼間忙しなく行き交う人々は頭上のキャンドルを目に留めることはありませんが、夕暮れとともに淡い光が灯り始めると、復興した神戸の街を照らしているかのように見えます。

訪問日 2002年2月20日 他

73 神戸港震災メモリアルパーク   崩れ落ちた岸壁の保存

 メリケン波止場の一角に1997年7月に神戸港震災メモリアルパークがオープンしました。ここは保存ゾーンと復興ゾーンの二つがあり、保存ゾーンは被災した岸壁がそのまま残され、海に設けられた回廊から当時の生々しい姿を見学することができます。復興ゾーンでは、当時の様子をパネル写真や映像で伝えています。

  訪問日  2003年7月30日

74  三宮センター街   ブロンズ像「讃太陽」

讃太陽 花の少女 未来に行く者達へ 水のある星
 元の賑わいを取り戻した三宮センター街の一角に、太陽に向かって両手を上げた少女のブロンズ像があります。まだ復興が始まったばかりの1996年1月17日に除幕されたこの像は「讃太陽」。震災直後の闇の世界に脅えていても、昇る太陽に励まされた。この像は三宮センター街の復興を見守ってきました。台座には、除幕式までに判明した犠牲者名簿のフロッピーディスクと当日の新聞が納められています。
 この他、「花の少女」・「未来に行く者達へ」・「水のある星」と、三宮センター街は様々な彫刻に囲まれたアートストリートとなっています。

        訪問日 2002年2月24日

75  新港町   被災した橋脚・伸縮装置・支承

 三ノ宮駅から南へ15分の国道2号線の歩道に、当時の建設省が「浜手バイパス被災構造物展示モニュメント」を整備したのは、1996年12月。浜手バイパス再開の半年後でした。モニュメントは、被災した橋脚や、著しく変形した路面を繋ぐ伸縮装置、橋脚を結ぶ支承で、地震の凄まじい破壊力を今に伝えています。

    訪問日   2003年2月16日

76  元町商店街   メッセージ入りレンガ

 神戸に無くてはならないレンガ敷きの道の復旧に、被災者へのメッセージを焼き付けたレンガを埋める「神戸レンガプロジェクト」の働きにより、全国から寄せられた励ましのレンガが元町商店街・南京町入口・ハーバーランドなどに埋められました。月日とともに文字はかすれ、撤去されている場所もありますが、励ましの心は今も残っています

  訪問日  2002年2月24日 

77  大倉山公園   「慰霊碑」

 大倉山公園には、県ゆかりの木を植えた「ふるさとの森」があります。その中の鹿児島県の森の一角に、鹿児島県出身の犠牲者204人を追悼した慰霊碑が建っています。阪神間は鹿児島県の出身者が多く働いているため、犠牲者も多数でした。1999年5月に神戸鹿児島県人会連合会により建立され、1月17日には追悼式が営まれるようになりました。
  訪問日  2002年2月12日

142  HAT神戸・脇の浜  阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター 他   

2002年4月27日、HAT神戸に人と防災未来センターの第1期施設「防災未来館」がオープンしました。一辺43mの立方体の建物は、震災の記憶を風化させない強い意志を表し、一見して工事中ではないかと思わせる4面を覆うガラスは、復興していく神戸の町並みを映し込むと共に、センターの多方面に渡る活動を公開していくことを表しています。
 当センターは、阪神・淡路大震災の経験と教訓を後世に継承し、国内外の災害による被害の軽減に貢献する施設であるため、非常用発電機や太陽光発電を始め、地下に雨水を貯留するピットを設置するなど、万全な災害対策が施されています。
 こうした防災未来館には、開設初年度にもかかわらず、256,789人の来館者があり、建物全体が巨大な震災モニュメントとなっています。
 2003年4月26日には、第2期施設「ひと未来館」がオープンし、阪神・淡路大震災記念人と防災未来センターのすべてが完成しました。「ひと未来館」は、阪神・淡路大震災の経験を引き継ぎ、「命の尊さと共に生きることの素晴らしさ」を基本テーマとして、大型立体ハイビジョン映像が鑑賞できる「こころのシアター」を始め、様々な映像設備を酷使して、命の尊さを訴えると共に、年齢を問わず楽しみながら学ぶことができる施設となっています。
 また、人と防災未来センターでは、こうした展示部門だけでなく、アジア防災センターや国連地域開発センター防災計画兵庫事務所等、国際的な防災関係機関が集まり、国際防災・人道支援の拠点になっています。
 防災未来館は三方が水で囲まれています。これは震災直後に一番不自由した水を配置することにより、敷地の緑とともに人々の心の癒しとなることを願って設計されたそうです。また、入口付近には、震災の起こった5時46分を指す時計の針をデザインし、犠牲者全員の名簿が納められた「鎮魂の碑」が水に浮かぶように設けられています。2003年1月17日の追悼の式典はひと未来館が工事中ではありましたが、この「鎮魂の碑」の前で行われました。
 人と防災未来センターと道を一つ隔てた「なぎさ公園」には、幅90cm・長さ30mの遊具があります。子どもたちのアイデアを生かした「ゆめ・きずな」は、市民が憩える公園に花を添えています。
 遊具の側に置かれた丸いテーブルはお弁当を広げるのには丁度いい大きさですが、時計の文字盤になっていて、震災の起こった5時46分を指しています。人と防災未来センターを見渡せる公園ならではの遊具です。
訪問日 2003年1月17日・8月3日他

143  小野八幡神社  折れた鳥居のモニュメント「甦れ神戸」

 三宮からフラワーロードを南へ。神戸市役所の東側とのことで歩きましたが、神社らしきものは見つかりません。本当にこんなビルの谷間に神社があるのかと、心配になりました。でもありました。通りを一つ間違えていただけたったのです。
 オフィス街の神社だけあって、こじんまりはしていましたが、風格は十分。「甦れ神戸 復興祈願」の言葉は、当時の人々の共通の願いでした。モニュメントとなった石柱は、「しめ鳥居」の一部だったそうです。

  訪問日 2005年4月23日   


144  生田神社  記念碑・歌碑

 生田神社は、「生田の神封四十四戸」と、神戸市の地名の由来とも言われる806年の古文書に記されています。
 2000年に建てられた碑には、震災で被害を受けた時と、再建された時に宮司が詠んだ二首の歌が刻まれています。
☆ 「うるはしき 唐破風 もちし 拝殿は 地上に這ひて 獣のごとし」
☆ 「朱に光る 唐破風今ぞ 聳えたち 羽を拡げし真名鶴のごと」

   訪問日  2005年4月23日   


145  相楽園  落下したレンガ製煙突

 相楽園には、重要文化財の旧ハッサム邸が保存されています。この建物は神戸開港当時を今に伝えるコロニアル様式の建物です。震災で屋根を突き抜けて落下した煙突を、元の位置に修復するには無理があるため、そのまま前庭にモニュメントとして設置したそうです。関東大震災でも洋館のレンガ煙突が落下した記録があり、震災の教訓を観光客に語りかけています。

   訪問日  2002年2月12日   


168  萌黄の館  萌黄の館の落下した煙突

 萌黄の館は、北野坂を上りきった、有名な風見鶏の館の斜め前にありました。ここでは、震災で崩れ落ち、庭に突き刺さった煙突がモニュメントとなっています。説明板には「地震の激しさを後世に伝えるために、当時の状態をそのまま保存しています。」と書かれ、緑に囲まれた庭の片隅でひっそりと震災を語り続けています。

   訪問日  2005年4月23日   


190  日蓮宗・本壽寺  震災物故者慰霊碑

 神戸高速鉄道(阪急電鉄)花隈駅の北、神戸特有の坂道を登ったところに日蓮宗・本壽寺があります。震災当時、犠牲者の葬儀に奔走した住職が私たちを明るく迎えてくれ、倒壊した石塔で造られた慰霊碑を背に地域防災の大切さを熱く語ってくださいました。おみやげにいただいた色紙には「くよくよするなよ なに これしきと 不屈の闘志でよみがえれ」とあり、神戸復興の一翼を担った住職の心意気が伝わってきました。本壽寺には、慰霊碑とともに、「鳴動」と書かれた雲仙普賢岳で火砕流となった溶岩が並べられ、過去の災害が語る教訓を伝え続けていました。

      訪問日  2006年9月17日

224  湊小学校  傾いた手洗い場

 ハーバーランドにある湊小学校では、地震による液状化で被害を受けた教訓として、今も正面玄関横のフェンスと傾いた手洗い場を残しています。そして空き教室には震災資料を展示し、震災を知らない子どもたちに当時の出来事を伝え続けています。

   訪問日  2006年9月17日

225  東門街  麒麟ビルのメモリアル時計

 東門街の北入口。山手幹線に面した麒麟ビルに、5時46分を指し、止まったままの大時計がモニュメントとして残されています。「MEMORIAL」の文字がなければ、現在使われている時計と変わりはありません。ビルを背に信号待ちをしている人には見えず、横断歩道を渡り、振り返ると時計のあることに気付きます。忙しく行き交う人たちの目には留まらないないけれど、しっかりと震災のあったことを語り続けています。

   訪問日  2005年4月23日   


245  脇浜南宮宇佐八幡神社  復興記念の句碑

  震災復興の象徴とも言えるHAT神戸の高速道路を跨いだ北側に、脇浜南宇佐八幡神社があります。一見寂れた神社のようですが、震災で被害を受けた鳥居と玉垣が真新しくなり、地元の信仰の篤さを伺い知ることができます。本殿横の楠の傍には、「甦る八幡乃宮の境内の 楠の若葉に光照り映ゆ 白鳳」と、震災復興御修復事業奉賛芳名禄に刻まれた句碑があります。

     訪問日 2010年4月30日

246  一宮神社  「陽として依然輝く(BIG POSITIVE)

 東門街を抜け、北野坂を上り始める辺りを少し逸れた場所に一宮神社があります。震災後再建されたのでしょう。真新しい鳥居が迎えてくれました。境内には彫刻家の「マ・ガ・ラ」さんが、機械を使わず、ハンマーとのみだけで作成したモニュメントがあります。立て札には「倒壊した鳥居・玉垣等に再び命を吹き込む願いを込め」と書き添えられ、朝日の輝く状を表現した作品です。

   訪問日  2005年4月23日   


269  阪急三宮北広場  ブロンズ像AMORE

 JR三宮西口・阪急三宮北側を出た北広場に「ブロンズ像AMORE」があります。駅を出てすぐの所で、つい通り過ごしてしまう広場ですが、阪神大震災犠牲者の鎮魂と商業の復興を願って県商店連合会が神戸女子大学文学部教授新田e紀に依頼し制作したものです。高さ4mのブロンズ像は、人体の腰部が連なって天に伸びるようなデザインです。

   訪問日 2010年4月30日

270  東遊園地  皇后陛下の御歌碑

  東遊園地の「希望の灯り」北側に、皇后陛下御歌碑建立委員会による歌碑が建立されました。 「笑み交わし やがて涙のわきいずる 復興なりし 街をいきつつ」 この御歌は、平成17年1月に神戸市街地を御視察 された皇后陛下が、街で出会う人々と笑み交わし、復興の喜びを分かち合いながら、それぞれの人が超えてきた苦難を思い、涙ぐまれた記憶を、平成18年歌会始めにおいて詠まれたものです。

   訪問日 2009年12月13日



「コスモスの詩」のTOPへ 「震災モニュメントを訪ねて」のTOPへ このページのTOPへ