阪神周辺地域及び遠隔地
193 安養寺 復興記念碑 (神戸市垂水区)
「安養寺」は、山陽塩屋駅の西、高架沿いの道路から、細い坂道の参道を登ったところです。参道を登りきる手前に、「安養寺諸堂全壊」と刻まれた復興記念碑がありました。傍には全壊した本堂の鬼瓦も並べられ、平成7年11月の庫裏・擁壁新築から、平成9年12月の本堂の新築、平成11年4月に鐘楼堂が新築されるまでが記され、寺の復興の歴史とともに、震災の記憶を残しています。 訪問日 2008年9月21日 |
194 大宮八幡宮 再建鳥居 (三木市)
金物の町として栄えた三木市。甚大な被害を受けた阪神地域から離れていたとはいえ、震災で大宮八幡宮の鳥居が倒されました。 昔ながらの町並みが残されたのも、大宮八幡宮が守ってくれたのではないでしょうか。97年4月の修復された鳥居は鉄製。さすが金物の町ですね。 訪問日 2006年2月14日 |
215 田蓑神社 復興の碑 (大阪市西淀川区)
田蓑神社の境内には、「佃漁民ゆかりの地」の石碑があり、佃煮で有名な東京の佃島は、将軍家への献魚を目的にここからの移住者によるものと記されており、関東大震災時はここから、阪神・淡路大震災時は東京から、と救援物資が届けられ、今も交流が続いているとのことです。 あの震災で、田蓑神社は社務所が全壊し、社殿は傾き標柱が倒壊する等、多大な被害を受けました。修復には5年の月日を要しましたが、最後の参道復興工事の完了した02年7月に「震災復興記念碑」が建立されました。記念碑は和歌の石碑と、ステンレスの型枠で補強された倒壊した田蓑神社の標柱からなっており、「ここにこれらを永く伝える為に二百年程前に従一位日野資枝がよまれた和歌と、左の標柱を建立しました。」と添え書きがありました。 訪問日 2008年11月2日 |
217 鼻川神社 再建鳥居 (大阪市西淀川区)
阪神・淡路大震災で、この当り一帯は液状化による大きな被害を受け、鼻川神社では社殿が傾き、鳥居が崩れる等の被害を受けました。社殿は修復されましたが、今も基礎の沈下部分を補修した跡が残っています。 社殿奥の「鼻川稲荷」には、再建された鳥居があり、「平成七年一月十七日阪神・淡路大震災復興記念」と記されており、震災を記録するモニュメントとなっています。また、境内には崩れて一本足となった鳥居が残されており、兵庫県だけでなく、お隣の大阪市と言えども被害の大きかったことを改めて感じました。 訪問日 2008年11月2日 |
218 石手寺 除災鎮魂地蔵 (松山市)
石手寺入口 | 仁王門(国宝) | 阪神震災供養碑 | えひめ丸追悼碑 |
石手寺は四国霊場の第五十一番札所。雲慶の作と言われる仁王像に守られ、670年前に建てられた仁王門をくぐると、境内は施餓鬼供養が行われており、大変賑わっていました。 目的の「除災鎮魂地蔵」は仁王門の左手奥の木立に囲まれた静かな場所にありました。阪神・淡路から遠く離れたこの松山にお地蔵様が建てられたのは、震災当時に救援物資の支援が行われ、その後、太鼓演奏の交流や愛媛県内被災者支援が続いており、毎年1月17日には阪神震災追悼と救援祭が行われているそうです。このお地蔵様は被災地から贈られた石が使用され、仁川の土砂災害で亡くなられた遺族の集められた石も含まれています。除災鎮魂地蔵の横には「救援の波寄せ人々の優しさを現す 生存者はこの痛みを忘れないと語り 安らかにと祈りの日々 供養として塔を積む これ仏心哉」と願文が添えられていました。 また、隣には、2001年2月ハワイ・オアフ島沖で原子力潜水艦に衝突され、沈没した「えひめ丸」の「人災天災供養地蔵」も祭られていました。 訪問日 2007年8月20日 |
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