尼崎市
7 明城小学校(旧城内小学校) 作文碑「思いでの学び舎」
明城小学校(旧城内小学校)のハート型の作文碑「思いでの学び舎」には、「地震は、本当にこわい、おそろしいものだと思った。このことは、みんな一生忘れることがないと思う。この事件からぼくは、近所の人々や、友達と助け合い、信頼することが大切と思った。もし、今度どこかで、大地震がおこれば、ぼくたちが、身も心も傷ついた人々のために力になりたいと思う。」と、震災当時5年生だった児童の作文が刻まれています。この碑は、97年12月の新校舎完成を機に校庭の一角に98年3月設置されました。 この学校は1837年に尼崎町立城内小学校として誕生した伝統ある学校ですが、04年4月に阪神尼崎駅近くの開明小学校(城内小学校と同じ年の創立)と統合し、明城小学校となりました。この場所は尼崎城跡で、1940年に教職員と児童が製作した尼崎城のレプリカ(98年、作文碑の傍に移設)もあり、城下町の雰囲気が今も残されています。 訪問日 2008年11月2日 |
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11 フォルザ武庫之荘 復興アート「石板のモニュメント」
阪急武庫之荘駅南西方向の線路沿いにマンション「フォルザ武庫之荘」があります。この「フォルザ」とは「頑張れ」というイタリア語に由来するそうで、震災から約5年後の1999年10月に完成したマンションです。 そしてその北東角には神戸の石をしようした復興アート「石板のモニュメント」が設置されました。このモニュメントを「復興アート」と呼んでいるのは、石碑の暗いイメージではなく、街に溶け込むアートにするためだそうです。 訪問日 2008年4月20日 |
13 武庫南小学校 詩碑「未来をめざして」・川・池
武庫南小学校は武庫川沿いの緑豊かな場所にありました。尼崎と言えば、昔の南部工業地帯のイメージが強く、田園の散在する住宅地は想像もしませんでした。 この武庫南小学校は川沿いの軟弱地盤にあったため、大きな被害を受けました。「思い出の学び舎」と記された詩碑には「二人で一つの机を使い プレハブ校舎で助け合った日々」など、未来をめざす武庫南っ子の詩が刻まれていました。 訪問日 2008年4月20日 |
207 西武庫須佐男神社 記念碑
静かな住宅地に囲まれた西武庫須佐男神社の境内の中央に、被災した瓦の一部や鳥居を使用した「震災記念碑」がありました。これがなければ、朱色の柱が緑に映える新しい社殿からは、あの日の出来事を想像することはできません。 この神社には鎌倉後期に建てられた重要文化財の十三重塔がありますが、その塔身が復旧工事の最中に何者かに盗まれ、今も行方不明になっているそうです。 訪問日 2008年4月20日 |
208 東武庫須佐男神社 記念碑
阪急武庫之荘駅から住宅街を歩き、ようやく小さな森を見つけました。東武庫須佐男神社のモニュメントは、鳥居をくぐった右手の手水舎の裏にあり、廃材を集めたかに見えますが、「平成7年1月17日未明阪神大震災に依り倒壊せる東武庫須佐男神社の鳥居及び屋根瓦の一部を記念として保存するものなり」と刻まれており、単なる復興の記録ではなく、あの日の出来事を伝えるためのモニュメントであることがわかりました。 訪問日 2008年4月20日 |
209 守部素盞鳴神社 復興記念
400年余りの伝統のある守部素盞鳴神社は、阪神・淡路大震災で、本殿以外が全て倒壊しました。復興に向けては、氏子が協力して「守部震災復興修復委員会」を結成し、約4年をかけて、鳥居・玉垣を修復ししました。春の日差しを受けた真新しい鳥居が青空に映えていました。 また、この神社にも、鎌倉時代のものと考えられている「守部十三重塔」があります。 訪問日 2008年4月20日 |
263 水堂須佐男神社 復興記念
水堂須佐男神社は、5世紀頃に築造された水堂古墳と呼ばれる前方後円墳の一角にあります。 歴史を有する神社ですが、阪神・淡路大震災により倒壊し、現在の拝殿は平成10年に復興再建されたものです。拝殿には水堂古墳の被葬者と阪神大震災の犠牲者の霊に捧げる意を込めて滋賀県在住の日本画家により描かれた、万葉の花の見事な天井画がありました。 「拝殿横に寄金奉納芳名碑を設置しているが、震災モニュメントと言えるかどうか分からない。」と宮司はおっしゃっておられましたが、「平成7年1月17日阪神大震災によりて社殿倒壊したるも 今やここに再建復興の業成し遂げたるを記念して 境内松樹の材に刻む」と、拝殿の壁に直筆が掲げられており、再建された拝殿そのものが震災モニュメントになっていました。 訪問日 2008年4月20日 |
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