阪神・淡路大震災から12年

阪神・淡路大震災から12年。
        日本人に多い仏教徒にとって、今日が十三回忌となります。
 命の尊さを再確認するとともに、
私なりの1月17日を過ごしました。   
1.震災写真展 2.上大市公園 3.西宮震災記念碑公園 4.メモリアルウォーク 2007
5.ひょうご安全の日 1.17のつどい 6.紙人形展 7.映画まあちゃんのコスモス 8.東遊園地
9.大道通 フレール長田 10.御蔵北公園

1.震災写真展  2007年1月13日(土)
 「子どもたちに伝えたい」と、開催される中学教諭が主催する写真展の記事を目にしました。決して遠くはないし、さっそくお伺いすることになりました。驚いたことに、会場の「ギャラリーわびすけ」は、先生のご自宅の1階でした。
 ギャラリーには、白黒の写真20点余りと、当時の新聞が展示され、すぐに12年前へタイムスリップ。今では見る機会が少なくなりましが、白黒写真には独特の迫力があります。カラーでは表現できない当時の強烈な印象が甦ってきました。
 ここでは4年前からこの時期に震災写真展が開催されていましたが、昨年に発見された未現像フィルムを基に、今回は先生ご自身の写真展となりました。入口に貼り出された「ボクも とっていた」の意味がそれだったのです。

このページの先頭へ



    2007年1月17日(水) 12年目のメモリアルデー


2.上大市公園 祈念の会

 12年目のメモリアルデーは雨の中の出発となりました。今年の午前5時46分は、上大市公園の「祈念の会」に参加しました。当時ボランティアの活動拠点となった上大市公園では、社会福祉法人「すばる福祉会」が中心に約30人の小さなつどいが行われました。参加者はみんなマイペースで、5時半を過ぎても灯りが届かず、約500本のロウソクの灯が間に合わないのではないかと心配しましたが、全員の協力であっと思う間に点灯してしまいました。
 黙祷の後、揺れるロウソクの灯を囲みながら、それぞれの経験が語られました。ロウソクが燃え尽きるまでのわずかな時間でしたが、ここでも続けることの大切さを感じました。

このページの先頭へ


3.西宮震災記念碑公園

 上大市公園で5時46分を迎えたため、西宮震災記念碑公園への到着は午前6時半近くになっていました。朝一の参拝者はすべて帰り、雨の震災記念碑公園は再び静かな公園に戻っていました。震災記念碑の前を陣取るのは報道関係者のみ。新たな参拝者が訪れると我先にカメラを向け、シャッターを切っていました。彼らが求めるのは翌日の紙面に登場する肉親を失った人のお決まりの言葉のみ。確かに「伝える」という意味では正しいかも知れませんが、亡くなった方への思いはかけらもありません。石碑の上に雨具を置き、取材に熱中しています。あくまで1月17日の主役はあの震災で犠牲になられた方。亡くなった方への思い無くして、何を伝えようとしているのでしょうか。私の生まれ育った西宮。毎年ここで、1146人の顔は見えなくても、涙をこぼしながら犠牲者の冥福を祈るです。しかし、今年だけは悔し涙があふれてきました。私はカメラを提げているため、今まで取材を受けることはありませんでしたが、ひょっとしたら遺族の方からそんな目で見られていたかも知れないと思うと、たまらなく恥ずかしい気持ちになりました。
 今年も、西宮市職員労働組合が献花の配布を行っていました。昨年はボランティアで参加しましたが、私なりの1月17日が過ごしたくて、役員の方々にお願いすることにしました。今年は労働組合の用意したカーネーションに加え、献花の配布台には当時ボランティアで西宮に来られた鹿児島県在住の方から送られた菊の花もありました。

このページの先頭へ


4.メモリアルウォーク 2007

 夜が明ける頃には雨が上がるという昨日の天気予報を信じていましたが、メモリアルウォークの出発はまだ雨の中。西宮の出発にギリギリ間に合ったかも知れないけれど、一日のスケジュールを考えて、芦屋からの出発を選びました。出発会場はぬかるんでいましたが、以後は舗装道路のため、あまり雨を苦にせず歩くことができました。そんな雨も、本山中学校を過ぎる当たりで止み、濡れた傘がじゃまになるくらいでした。
 今年は暖冬で、一昨年に雪の六甲山を見ながら歩いたのが嘘のようです。途中でセーターを脱ぎ、「コスモスの詩」を口ずさみながらマイペースで歩きます。道端に咲く山茶花を見つけると一休みしてカメラに納めます。今日は1月17日。あの日もきっと咲いてたでしょう。けれど、花の美しさに目を止める余裕は全くありませんでした。直後は無我夢中の毎日。そして、震災のその後を引きずりながらも、感慨に浸りながら歩いた初参加の7周年メモリアルウォーク。回を重ね、ようやく街並みを見つめることができるようになりました。心の復興でしょうか? でも、忘れてはならない大切なものまで、どこかに置いてきたような気もします。 

このページの先頭へ


5.ひょうご安全の日 1.17のつどい

 震災10周年までは「追悼のつどい」だったのが、昨年から「1.17ひょうご安全の日のつどい」となりました。追悼の意味がなくなったわけではありませんが、次の10年は阪神・淡路大震災の教訓を次の世代に引き継いでいこうという趣旨で「安全の日のつどい」となったようです。
 名前は変わっても、あの雰囲気は変わりません。なぎさ小学校児童による「しあわせ運べるように」は今年も泣かされました。復興への希望の歌で、決して悲しい歌ではないはずなのに、会場のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきました。頑張ったのは大人だけではない。子どもたちもあの辛い時期を乗り越えてきたのです。いつまでも歌い継いでほしい。今年、震災の年に生まれた児童が小学校を卒業します。

このページの先頭へ


6.紙人形展(人と防災未来センター)

 人と防災未来センターの1階ロビーでは、熊本の中学生が制作した紙人形展が行われたいました。「神戸から未来を学ぶ」と題して、よみがえらせたい6434人の紙人形がびっしりと飾られていました。大部分が両手を大きく広げた明るい表情の子どもたちです。
 数字ではなく、改めて亡くなった方の多さを感じました。紙人形を制作した中学生たちは、神戸から学ぶだけではなく、自分たちの手で甦らせた新しい命を、熊本から神戸へ届けてくれました。

このページの先頭へ


7.映画「まあちゃんのコスモス」

 阪神・淡路大震災12年行事一覧で、映画「まあちゃんのコスモス」上映会の記事を見つけました。震災とコスモスは、私の活動の原点。映画の製作されていることは知っていましたが、鑑賞の機会はないと思っていました。しかし、1月17日という日が巡り合わせてくれたのでしょう。完成記念の上映会に参加することができました。
 「まあちゃんのコスモス」は、震災で親友を失った少女を通じて、生きる喜びと被災者に勇気と希望を与えてくれる映画です。何度も目にした被災地の映像。でも、1月17日だからでしょうか。会場の暗さに甘え、ドラマの進行とともに思いっきり涙を流しました。悲しい冷たい涙ではありません。震災を通じ、生きる喜びを共有できた感激の温かい涙なのです。神戸から全国へ。そして、震災を知らない世代へ。伝え続けてほしい映画でした。

このページの先頭へ


8.東遊園地

 東遊園地の希望の灯りの会場は、夜の点灯に向けた準備が進められており、ロウソクも一部が灯っているだけでした。午前5時46分に一度は来たいと思いながらも、1日のスケジュールから、どうしても昼間の時間帯になってしまいます。しかし、ここを訪れる気持ちに変わりはありません。慰霊と復興モニュメントに献花し、亡くなれた方々を思い、手を合わせます。ここは、犠牲者の大半を占める神戸の人たちの生きた証が刻まれている場所なのですから。

このページの先頭へ


9.県営住宅フレール長田大道前

 今年の1月17日も長田で暮れました。同じ被災地でありながら、地域の人たちの雰囲気が違うのです。大きな催しで人を集めればいいというイベントではなく、小さいながらも心の通い合う1月17日にするために、多くの方が頑張っておられます。
 ここ県営住宅フレール長田の「1.17灯りをいつまでも」の催しは、阪神高齢者・障害者支援ネットワークの主催で、小学校児童の手作り灯ろうが並べられていました。命・希望・未来・平和等、様々な子どもたちの思いの書き込まれた灯ろうが日暮れを待っていました。カメラを提げ、見かけは写真好きのマニアとしか見られない私ですが、特別視することなく接してくれました。
 この催しは、仮設住宅を共にした人たちも参加し、遠くから来られている人もありました。5分ほど早い黙祷でしたが、私も、地域の人たちと一緒に、亡くなられた方への祈りをささげることができました。
 長田区の各地で行われている催しを撮影するためでしょうか。2機のヘリコプターが上空を旋回し始めました。あの日、助けを求める声を掻き消した爆音が、この街の静けさを壊し始めました。これが1月17日の宿命なのでしょうか?

このページの先頭へ


10.御蔵北公園

 フレール長田の大道通りから御蔵北公園までは徒歩でも10分とはかかりません。ここ御蔵北公園では阪神・淡路大震災犠牲者の13回忌法要が行われているため、交流タイムに入ったのを機に移動しました。公園ではお焼香が始まっていましたが、なんとか最後尾に並ぶことができました。
 10周年で来た時は、「みすが」と大きく描かれたローソクがありましたが、今年は、鎮魂のモニュメントの周りと、1.17の文字のみ。確かに規模は小さくなっていましたが、大勢のひとが集まっておられました。この地域で亡くなられた120人の名前が次々に読み上げられます。12年が経過し、世間では遠い昔の出来事となってしまっているけれど、肉親を亡くした方々にとっては、決して忘れることのできない1月17日なのです。「我々のお経だけでは亡くなった方は決して浮かばれない。みなさんの心があってこそ。内容は変わるかも知れないが、続けていくことが大切。」と最後の僧侶の言葉が胸に沁みました。

このページの先頭へ


 阪神・淡路大震災から12年。今年も早朝から各地を巡った1日が終わりました。年のせいで涙もろくなったのでしょうか。今年は特に各地で涙をこぼしました。汗の季節でもないのに、ポケットのハンカチは乾く暇がありませんでした。でもこれは悲しい涙ではありません。年々困難になっていく催しですが、あの日を忘れず、続けて行こうとする各地の人の心意気と温かさに触れた喜びの涙でした。また来年。いつまでこのようなハードな1日が過ごせるかわかりませんが、「1月17日は忘れない」この言葉だけは一生のものにしたいと思いました。

コスモスの詩TOP ↑このページのTOPへ 阪神・淡路大震災周年記念日へ