阪神・淡路大震災から11年

阪神・淡路大震災から11年を迎え、
      今年は被災地、阪神・淡路地域に留まらず、
南海地震の危機が迫る、和歌山県にも足を伸ばしました。
1.稲むらの火の舞台へ 2.被災体験セミナー 3.西宮震災記念碑公園 4.震災モニュメントウォーク
5.東遊園地 6.JR鷹取周辺 7.若松鷹取公園 8.JR新長田駅前

  1.「稲むらの火」の舞台へ  2006年1月14日(土)

 阪神・淡路大震災から11年が経過し、「次の10年に向けた新たな活動を」と、自らの体験だけでなく、過去の災害からも学ぼうと、南海地震の危機が迫る和歌山県へ足を伸ばしました。昨年の国連世界防災会議で紹介されて以来、アジア各国の言葉に翻訳され、世界中の防災教育の手本として注目されつつある「稲むらの火」。その舞台となった和歌山県有田郡広川町を訪ねました。
 安政元年(1854年)の南海地震の際、広八幡神社は難を逃れた村民の避難場所となりました。そして、濱口梧陵の手記によると、海岸から少し離れ、高台にあるこの場所は、今で言う「災害対策本部」としての役割も果たしていたようです。
 濱口梧陵は井戸水の減少から東海沖地震に続く南海地震の襲来を予知し、村民の安全を守るために村中を駆け回りました。自身も津波にのまれましたが難を逃れ、残る漂流者を助ける目標として、稲むらに火を放ちました。この実話が小泉八雲の短編小説「生き神様」の中で紹介され、尋常小学校の国語読本として脚色されたのが「稲むらの火」です。
 広八幡神社の境内には、濱口梧陵の偉業をたたえた勝海舟直筆の碑が残されています
 広八幡神社  濱口梧陵碑
 濱口梧陵は、江戸時代末期に浜口東江、岩崎明岳とともに私塾を開設し、剣道や学業などの指導にあたりました。この私塾は後に「耐久社」と呼ばれ、変遷を経て現在の耐久中学校となり、今も「耐久社」は敷地の中に残されています。
 訪問したのは土曜日。校内の見学が心配されましたが、親切な先生に校内を案内してもらうことができ、体育館をバックに立つ濱口梧陵像にたどり着けた時は本当に感激しました。像の横には小学国語読本の「稲むらの火」のパネルが並び、150年前の津波の教訓を今も伝え続けていました。
 「稲むらの火」の詳細は、和歌山県広川町役場のホームページからリンクされた「稲むらの火」のページで参照することができます。
 耐久社  濱口梧陵像
 「史蹟 広村堤防」の石碑  赤門と呼ばれる水門  広村堤防
 濱口梧陵が私財を投げ打って完成させた延長650mの広村堤防は、92年後の昭和南海地震(昭和21年12月21日)の大津波では村の居住地区の大部分を守りました。堤防中央の赤門傍には、「感恩碑」が建立され、この前で毎年の津波祭が行われています。
 濱口梧陵の偉業は、「稲むらの火」に象徴される「地震の後には津波が来る」の教訓を残しただけではありません。津波に生活を奪われ、村を離れなければならなくなった人たちに、堤防の工事行うことより、生活の糧と生きる希望を与えたのです。この教訓は、残念ながら阪神・淡路大震災で生かされたとは思えません。
 広川町の役場前には、「稲むらの火」広場があり、松明を手に走る五兵衛(梧陵)の像がありました。町をあげて過去の災害に学ぶ心意気が伝わってきました。
 感恩碑  「稲むらの火」広場
 当日、紀ノ川サービスエリアは傘が役に立たないくらいのドシャ降り。それでも広川町に着く頃には小降りになり、どうにか見学をすることができました。濱口梧陵の偉業に触れ、災害への備えは何時の時代にも必要なことを痛感しました。

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2.震災体験セミナー  2006年1月15日(日)

 南紀旅行2日目は前日とは打って変わっての晴天。この旅行には、もう一つ目的がありました。田辺市の和歌山県情報交流センターで開催される、地元建設会社主催の震災体験セミナーへの参加です。やがてこの地を襲うであろう地震はプレート型。揺れる時間も違えば、津波も伴います。阪神・淡路大震災とは比べ物になりません。私の体験がどれだけ役立つかの心配はありましたが、迫る地震への危機をを感じておられるからでしょう。参加された皆さんは熱心に耳を傾けてくださいました。
 参加者に配られたのは、塩でにぎっただけの「おにぎり」とペットボトルの水。今食べても決して美味しいものではありません。しかし、これを分け合って食べなければならない災害が近い将来に必ず起こるのです。このおにぎりには「その時を実感してほしい。」との主催者の思いが込められていました。
 和歌山県情報交流センター Big_U  震災体験セミナー風景
 この会社は以前から神戸市の「人と防災未来センター」への無料ツアーを実施する等、南海地震に備えるための企画を続けておられます。「商売を度外視しても、企業責任として続けていくつもりです。」との社長さんの言葉に胸を打たれました。耐震強度偽装が社会問題となり、企業モラルが問われているこの頃ですが、災害時、この社長さんは必ず現代の濱口梧陵となってくれると信じました。

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2006年1月17日(火) 11年目のメモリアルデー


3.西宮震災記念碑公園

 11年目のメモリアルデーは、朝4時に家を出ました。今日は西宮震災記念碑公園での早朝ボランティアを買って出たからです。今年から西宮市は訪問者に献花の用意をしなくなったため、西宮市職員労働組合がカンパを募り、市民にカーネーションを配布することになったのです。昨年はたしかに震災10年の節目ではありました。しかし、10年ですべてが終わるのではありません。阪神間に地震などないと信じきっていた反省からも、西宮で1146人の方が亡くなった事実を伝え続けねばなりません。
 今年の午前5時46分は昨年に比べて参加者が少なめでしたが、震災11年目のメモリアルデーはここから始まります。 

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4.震災モニュメントウォーク

 大社小学校/石碑「心やすらかに」  大社中学校/復旧復興祈願園 ↑ 西宮中央商店街
 今年は早朝ボランティアのため出発に間に合わないことと、昼間の時間を有効に使いたいため、4年続けたメモリアルウォークを休み、普段行けない震災モニュメントを巡ることにしました。西宮震災記念碑公園を基点に大社小学校と大社中学校を。南部に戻って西宮商店街と香櫨園小学校・津門小学校を訪ね、神戸市へ向かう途中に芦屋市にも立ち寄りました。昼間の時間を作ったつもりが、かなりハードなウォークとなりました。それでも、1月17日。意義ある震災モニュメントウォークとなったことは間違いありません。突然の訪問にもかかわらず、親切に案内していただいた各学校の先生方。本当にありがとうございました。
 芦屋公園では、芦屋市が用意した白菊を献花し、お参りをすることができました。震災を忘れないために、献花の提供は長く続けてほしいですね。
 香櫨園小学校/追悼のプレート  津門小学校/記念碑
↑ 三八通商店街/布袋像  西法寺/阪神・淡路大震災追悼之鐘  芦屋公園/句碑
新しく訪問した震災モニュメントは、「震災モニュメントを訪ねてのページで紹介しています。

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5.東遊園地

 今年から補助金がなくなったため、規模を縮小しての希望の灯りの会場。恒例の雪だるまはなくなったものの、会場には多くの方が訪れたらしく、献花の白菊が慰霊と復興のモニュメントの水面を埋め尽くしていました。銘板に囲まれた地下室は独特の雰囲気があります。亡くなった方の生前を知らない私でも、手を合わすと不思議と涙がこぼれてきます。
 昼間の閑散期で、竹筒の灯りは少ないけれど、自分の灯したろうそくを見つめ、11年前を思い起こします。辛い苦しい日々でした。それでも、私たちは、その中で多くのことを学びました。この経験を伝えることが、あの日を生きた者の定めなのです。
↑ 慰霊と復興のモニュメントの水面 ↑ 慰霊と復興のモニュメントの地下銘板

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6.JR鷹取周辺(日吉町ポケットパーク)

 今年も、夕暮れを目指して長田区を訪ねました。地域の人たちの手作りの集いの温もりに触れたくて、疲れた足を引きずりながらもここに来ました。
 鷹取教会は建設工事が始まり、有名なペーパードームの礼拝堂は姿を消していましたが、ヘルメットをかぶった勇ましいイエス様が新しい教会の完成を見守っておられました。
 日吉町ポケットパークの地蔵堂は祭壇が祭られ、花に囲まれていました。今年は、山古志村の倒木で彫られた木彫りの仏様が加わり、 亡くなった方を思う悲しみの中にも、温かさの感じられる法要となったのではないでしょうか。

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7.若松鷹取公園

 区画整理の再開発で生まれた若松鷹取公園には、「鎮魂 1995.1.17」とのみ刻まれ、合掌をイメージした慰霊碑があり、何度か訪問した公園です。大きな円は時計になっていて、針は5時46分を指し、その中に「1.17」の文字。「わかまつ」・「11th 2006」と、公園いっぱいに描かれていました。ろうそくの灯し方も各地で特徴があり、ここではペットボトルに水を入れ、針金のろうそく立を水面に出し、火を灯す方法が取られていました。
 午後5時近くになると大勢の人たちが集まり始め、点灯の時を待ちます。風の少ない穏やかな一日だったと思っていたのに、日暮れが近づくと風が出て、急に冷え込んできました。点灯を始めると、昨年の昆陽池と同様に風に悩まされます。一つのペットボトルは点いても、点灯用のろうそくを隣のペットボトルに移すことができないのです。また、せっかく点いても風に消されるものもあります。とは言え、人数にに勝るものはありません。15分程度で、約1000個すべてが点灯しました。午後5時46分、黙祷。若松地区の外から来た私ですが、地域の方と共に亡くなられた方の冥福を祈りました。

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8.1.17 KOBE に灯りを in ながた(JR新長田駅前)

 今年は、竹筒がペットボトルに変わっていました。それでもここの集いは地域コミュニテイ放送の「FMわいわい」が中継を行い、駅前にふさわしい賑わいの中で行われていました。ピフレホールロビーからの眺めも最高です。
 今年の1月17日も長田で暮れました。メモリアルウォークを休んだとは言え、今日一日でかなりの距離を歩きました。その上、座れたのは移動中の電車の中だけ。足の疲れはもう限界。毎年1月17日に、クタクタになるまで自分の身体を甚振り続けるのは、「飲まず・食わず・眠らず」で過ごしたあの日を忘れないためです。あの日を思えばどんなことでもできます。また、震災を語り継ぐ、新たな1年が始まります。

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