let it be 目標lostしました。 その報告に一言「そうか」とだけ答えて、男はひらりと手を振った。 もう用は済んだから下がれと。 椅子に深く腰掛けて組み直した手を眼鏡の縁にかけ、使えないなぁと呟いた上司に苦笑混じりの謝辞を述べ、部下は短く息を吐いた。 「君が責任を感じる事はないよ。どうせこうなるだろうとは思っていたし」 「…ならばなぜそれを黙っておいでで?」 「彼はね、賢い子だから。本当は逃げ出したところでなんともならない事くらい分っているはずだよ。きっと、一人でいるのに耐えられなくなったんだろうね。寂しがり屋の子猫ちゃんにあの屋敷は広すぎる。敵だろうが味方だろうが、人が恋しくなったのさ」 「ですが、それでは、」 「大丈夫。あの子は必ず戻ってくる。いかに自分が周りとは違うかを一度自分の目で確かめた方が、この先迷いがなくて良いだろう。結局はね、天に選ばれし人間が地上に降り立つことなどできないんだから」 机の上に置いた随分と古びた写真の中で微笑む姿は、この先自分に起こるだろう災厄などとはまるで無縁でいっそ胸が痛みすらしたけれど、自分も彼と同じように選ばれしものなのだ、と小さく笑って、その写真を胸ポケットに仕舞った。 「さて、一体何処まで逃げ出してしまったんだろうね」 モニターに映し出された赤い信号が、ただひたすら同じ場所で点滅しているのを困ったように見つめた目が、す、と細められた。それからちらりと傍らに佇む男に向けられた視線が、「君も追いかけっこに参加するかい?」と笑みをたたえていて、丁重にお断りをさせて頂いた上で、任務に戻ります、と信頼のある部下は部屋を後にした。 「遊び心がないようじゃ生きていても面白くないだろうに」 逃げ回って貰わなければ狩る側も退屈だ。 「せいぜい逃げ回るといい。今のうちに色んなものを見て、色んな人と出会って、そして、その命は自分にかかっているんだっていうことを自覚して帰ってきてくれれば、これほど嬉しいことはないんだけどね」 そう上手くいかないだろうなぁと吐く息だけで呟いた声は、内容よりはずっと楽しげに歪んでいた。 ◇ ◇ ◇ 人々は言う。あれは夜叉だと。 成り上がりでは決してなく、れっきとした武門の出でありながら馴れ合いと言うことを知らない。 親の躾ではない。むしろ社交性を教え、ついては他人と積極的に関わるように教えてきた。それは交流などという生易しい考えではなく、むしろのし上がる為の踏み台としての人材を確保しておけ、というものだったけれど。 しかしどういうわけだか、あれ程までに教え込んだというのに年を重ねるごとに口数は減り、大佐の地位を与えられ、果ては大将にまで格上げになろうという今日でも、自ら戦陣を切って適地に赴くのを良しとしていた。 ただ黙って見ていれば良いものを、ろくな武装もせずライフル一つを担ぎ、部下に適当な命令(口癖は「自由にしろ」である)を一つ言っただけで自分が好き勝手に暴れ回るその姿を、人々はそう称した。 あるいはその透き通るような銀の瞳。他人の血に汚れても尚高貴さを失わない白銀の髪。そしてその容貌がさらにその呼び名を遠くまで響かせていた。 感情があるのか無いのか、ただ真っ直ぐ前を見つめる瞳がそう思わせるのか、はたまたその美しい口唇から繰り出される罵詈雑言故か。 一見すると敬遠されがちであるにも関わらず、ただ側にいるだけでも良いという妙な輩が増え、本人の意向とはまるで違いいつも誰かがかならず取り囲み、心休まるときなどまるでない悪い意味で充実した毎日に嫌気がさしていたある日、打って付けの職場逃れの任が舞い込んできた。 その任務を言い渡されたときの顔と言ったらなかった。 本当に嬉しそうに笑うのだ。 彼の上司はその顔を見たいが為に過酷な任務を言いつけるのでは無かろうか、などと部下達は囁きあい、一緒に任につく為に指名を行う前に自ら敵地志願をする。 彼の異例出世は多分、この辺りにあるのだろう。 「よー大将。今度はまた厄介な土地に御出陣だってな」 司令室を出たギギナの後ろから呑気な声がかかる。 振り返りもせずにカツン、とつま先を鳴らして廊下を歩くギギナの後ろを小走りに追い、イーギーはその肩を掴んだ。 「まーそう邪険にしなさんなって。お前の下につけって言われてんのさ。有能な部下をないがしろにするもんじゃないぜ?」 「有能?」 ちらりとイーギーを横目で窺ったギギナはふん、と鼻を鳴らした。 その反応に傷ついてもいないくせに「あー傷ついた!」と嘆いてみせるイーギーの腕を振り払い、ギギナは角を無駄のない所作で曲がった。 「有能ならばなぜ3日も独房に入れられていたのだ?」 「思い出させるな....ケツがムズムズする…たかだか賭けポーカーで押し込まれちゃたまったもんじゃねぇよ」 「その後の騒ぎが問題だったんだろう。味方相手に発砲するとはよっぽど欲求不満らしいな」 「はっ、お前はチェンジし放題だもんなー羨ましいぜ。顔が良いってのは得だな。中身が最低最悪に腐ってても関係ないし!」 「あぁそうだな。放題とはいえ、顔だけでは相手の善し悪しは分らない」 「……言ってみてぇよ糞が。いつか絶対お前刺されんぜ?」 先にエレベーターに乗り込み、何故だかギギナに支給された部屋階数のボタンをイーギーは押した。今更文句を言うのも馬鹿げているのでギギナは黙って箱壁に背を預けた。 しばらく箱の中を沈黙が支配していたが、突然、胸についた勲章を指先で弄っていたイーギーが階数表示ランプを見上げたまま「あー」と妙な声を発した。 「何だ」 「いや、この間の、将軍の娘さんとは、どうなったんだ?」 野暮な話だけどと頬を掻いたイーギーだったが、ギギナはさほど気にした素振りも見せずただ一言だけ、 「馬鹿は必要ない」 「ひでぇ男」 思い出しただけでも呆れる。 フロアに着いて扉が開くエレベーターから出たギギナは、自分の部屋しかないこのフロアを突っ切り、イーギーが入ってこようとするのにも構わずバタンとドアを閉めた。 外からイーギーの情けない声が漏れ聞こえてくる。ややあってイーギーが部屋に入り込んでくるのを無言で迎え、ギギナは上着を脱ぎ捨ててお飾りのサーベルを放り投げた。 「なんだよ、お断りしたのか?俺は見たこと無いけどすんごい美人だって話じゃないか」 勿体ねぇの、とどっかりと椅子に座ったイーギーに机の上に置いていた書類を放ってギギナは鼻を鳴らした。 「お前も言っただろう?顔が良い奴にろくな奴はいないのさ」 まぁ例外は私くらいだろうな、と恥ずかし気もなく言い放つギギナに、イーギーは書類をめくる手を止めて大仰な程の溜息を吐いた。 「ホント、ろくな奴いねぇわ」 ぺ、と吐き出してイーギーは笑ったが、ペラペラと書類をめくり辿った文字に改めてその厄介な目的地を見つけると目を細めてギギナを見上げた。 「なんで、ここなんだ?反乱分子もいなけりゃその力もない」 「さぁな。敵状視察、とかなんとか言っていたが、奴さんがこの土地を狙っているとは思えないし、我が軍にも利はない。ただの領地拡張か、あるいは……」 「あるいは、なんだよ」 「現王はお遊び好きだ。お前も知ってて厄介な土地、と言ったのだろう?過去の清算、ただの恥部隠しだろう。それか、まだ遊び足りないか」 「あーそっちの方が説得力あるな」 所謂そこは奴隷地区で、労働と言うよりはむしろ性奴隷、慰安婦の集まる場所でもある。 解放まもなく独立し、独自の国家(というのは大袈裟だが)を築いたそこは戦乱とはむしろほぼ遠い存在なはずであった。 そこでは階級も種族も関係ない。ただ爛れた欲望を満たすためだけの町である。 「そういえば、お姫様が逃げたって」 「なに?」 「…こりゃ、本格的に厄介な事になりそうだな」 そう呟いて何ごとか思案しだしたイーギーはそれきり黙り込み、ギギナは所在なげに視線を彷徨わせた。 |