『水にまつわる正しい遊戯 W』 |
異変に気づいたのは、その夜も遅くなってからだった。 真夜中過ぎ、ガユスは宿の寝台の上で寝苦しさに目を覚ました。 体が鉛のように重く、喉がざらざらする。不愉快さに咳きこむと、口の奥で血の味がした。 「う……」 上体を起こす。それだけで鈍い頭痛が襲い、眩暈と吐き気がした。ひどい悪寒がして、計測するまでもなく、発熱しているのがわかる。どうやら昼間の水泳と、その後の風呂場でのひと悶着のせいで体調を崩したらしい。 と言うか、主原因は後者だとガユスは決めつける。 湖では頭から冷水に漬けられたものの、時間にすればわずかなものだ。それより、服も着ず、水場で長々とドラッケンに付き合わされたのが悪かったに決まっている。 しかもそのワガママ放題馬鹿は、あの騒ぎの後、ガユスが遅い昼食を摂りに部屋を空けている間にいなくなってしまった。夜になっても帰ってこないので、恐らく村の女性なり見つくろって(田舎の寒村に娼館はない)、その家にでも転がりこんでいるのだろうと見当をつけ、明日の朝までに帰ってきてくれれば良いと、ガユスは先に寝たのだが。 「やば…いかな」 無理やり押し出した自分の声が、割れて嗄れているのがわかる。喉がやられているのもあるが、熱が高いのだろう。 ガユスはふらふらする体を押して、寝台から降りた。荷物の中には緊急用の常備薬が幾らかあるし、この分だと冷やした方がいいだろう。明朝出発するためにも、熱だけでも下げておかなくてはまずい。 部屋履きをつっかけて、薄っぺらな絨毯を踏みながら、ガユスは用心しつつ歩いた。 そこそこ夜目は利く彼だが、さすがに暗闇で薬の箱書きは読めない。荷物を開ける前に明かりをつけなくては、と、壁際に足を向けた時、ガユスの足裏で部屋履きがすべった。 あ、脱げた。との間抜けな認識と同時に体が傾ぐ。いつもならちょっとよろめく程度の失態だが、不調が響いてか、平衡が取れない。まっすぐ落ちていく体に無闇な抵抗は危険だ。せめて受身を取ろうと腕を広げかけたところへ、いきなり衝撃がきた。 痛みは、ない。むしろ優しい接触。くずおれた体を、床に激突する前に誰かが抱きとめたのだ。誰と言って、言うまでもないが。 よく知る腕と胸の感触に、ガユスは緊張を解き、ほどいた息にいつもの揶揄を乗せた。 「…何だ、帰ってたのか。なら『ただいま』くらい言え。あと、夜中に気配を絶って黙って突っ立ってるんじゃない。押し込み強盗か、おまえは」 闇の中でかすかな嗤い声が立った。 「貴様こそ何を遊んでいる。昼間、踊り足りなかったのか?」 ギギナの声である。寝る前に物理的にも咒的にも鍵をかけておいたので、この部屋にすんなり入って来られるのは、両方を解錠できる相棒以外にいないわけだが。 それにしてもいつの間に帰ってきたのか。全く気がつかなかった。 ガユスは言い返すのはあきらめ、ともすれば力が抜けそうになる足を踏んばった。 「うるさいな。ちょっと具合が悪いだけだ。薬飲んで寝るから放せ」 ギギナの体を押しのけようと手を上げる。が、逆にそれを掴み取られた。引き寄せられて、指先が顎先にあてられる触感。熱を確かめる仕草だ。ガユスはちょっと驚いたが、声が掠れていることや、おぼつかない足音から、彼の状態をあらかた察していたのだろう。ギギナはひとこと吐き出した。 「……軟弱者め」 「悪かったな。でもこれはおまえのせいだと思うが、そこのところをどう…って、おいっ!」 痛んだ喉を労わりながら精一杯応酬していたガユスは、不意に抱き上げられて声を荒げた。しかしギギナは、 「わめくな。耳障りだ」 の一言で切り捨て、踵を返して部屋を横切ると、ガユスを元の寝台に突っこんだ。すぐさま起き上がろうと跳ね上がった上半身を片手で押えこまれる。 「ギギナ!」 更に叫ぶところを、意外に寛やかな手で口を塞がれてしまう。 「黙れ。明日、貴様の唯一の娯楽である戯言を、吐けないようになりたくないならな」 ギギナはどこか面白がっているような、けれど半ば苛立っているような、奇妙な声で命じた。あいにく、どんな顔をしているのかは見えなかったが、この体調で不機嫌なドラッケン族に逆らうのは得策ではない。 ガユスがおとなしく寝台に身を沈めると、ギギナは側を離れて行った。 時を置かず荷物を開ける音がして、がさがさと何やら中をかき回している音も聞こえる。よもやまさかとガユスが窺う先で、目当ての物を見つけたらしいドラッケン族が浴室の扉を開けたようだ。水音が響いてくる。 ほどなく、かすかな風の立つ気配で、ガユスは傍らに相棒が戻ってきたのを察した。パチンと、今度は明瞭な音がして、寝台脇の小卓の小さな明かりが点灯する。暗闇に慣れた目には眩しいと感じられる光の輪の中に、ギギナが立っていた。 ゆったりとした着衣をまとい、髪は肩に落とされている。昼の光の中では硬質の輝きを放つ銀髪も、白すぎるほどに白い肌も、龕燈の暖かな淡い黄金色に染まっていた。 金細工でふちどられた風信子結晶のような美しさ。普段は抜き身の刃のように冷ややかで近寄りがたい印象が、人のぬくもりを感じさせるものに変じている。ガユスは不覚にも一瞬見とれ、急いで視線を流した。 見ると、卓の上には、水を張った洗面盥とタオルが数枚置かれている。そしてギギナは、その手に飲料水を満たしたプラスチックの杯と、解熱薬の箱を持っていた。 やはりと言うか驚いたことに、ガユスの荷物の中から彼の常備薬を探し出してきたらしい。しかも、この至れり尽くせり準備万端な看病道具一式は何事だろう? よりにもよってこの最悪の相棒から、こんな気づかいを示されるとは! 「これで良いのか?」 明日は時ならぬ雨風雹槍、ついでに竜が降ってくるかもしれない。と、ガユスが呆然としていると、またも苛々とギギナが尋ねた。薬の選択について訊いているのだと気づき、ガユスは慌てて頷いた。 「ならばさっさと飲んで寝め、惰弱者」 なんでこいつはこんな時まで命令口調なんだ。ガユスは呆れ半分おかしさ半分で笑い出しそうになったが、その衝動は咳きこむことでごまかした。 ますます不機嫌を表出させた相棒を見ないようにしながら、体をずり上げて寝台の頭板にもたれかかる位置まで移動し、そうっと上体を起き上がらせる。 まだ眩暈も頭痛もひどい。のろのろやっていると、見かねたのか、ギギナが問答無用でガユスを捕まえ、肩を抱き寄せた。 抗議するより先に手の中に薬箱を押しこまれる。ガユスは息を吐いてそれをあきらめ、箱の中からいつもの分量を取り出して口に放りこんだ。舌の上で苦い丸薬が溶け出し、押しつけられた杯を急いで傾ける。 一口含んで、ガユスは少しびっくりしたように中を覗きこんだ。が、何も言わず残りを空けた。飲み干して、杯をギギナに返したガユスは珍しくも満面の笑み。 「おまえにしては上出来。話せるじゃないか。…どうしたの? これ」 彼を簡単に上機嫌にしたのは、杯の中に混ぜられていたもの。水で割られていたとは言え、芳醇な香りと濃度の高い酒精はまぎれもない。この酒嫌いのドラッケンがどこで調達したものか、それは口あたりの良い新酒の白葡萄酒だった。 おかげで、背筋に染み入るようだった寒気が少し遠のく。頬を緩めたガユスに対して、ギギナは鼻を鳴らしたに留まった。 どうやら、昼間のごちゃごちゃで、ガユスが怒り心頭に発したと感じたのだろう。この人でなしは彼を宥める物を物色してきたらしい。それがこんな形でお役立ちになるとは思わなかったろうが、結果的に怪我の功名となったわけだ。 ガユスはご機嫌でくすくす笑い、ずいぶんと寛いだ気分になって上掛けの下に潜りこんだ。横になった彼の額に、ひたりと手のひらが置かれても、もう追い払おうとはしない。冷たい指先は熱を帯びた体には心地良かった。 すぐに手は退けられ、水音がしたかと思うと、額から目にかけて濡れた布で覆われる。上掛けをずらされ、手際良く夜着の前留め釦を外されて、脇の間に防水袋に入った濡れタオルを挟みこまれた。 また釦を留められて、処置は終わったと判じたガユスは、ギギナに背を向けるように寝返りを打った。熱を下げるためとは言え、冷たい布をあちこちにあてられて少しぞくぞくする。首を竦めた彼に、背後で笑みを解く気配がした。 「寒いのか」 穏やかな声に、ガユスも素直に首肯する。 「熱があるからな……仕方ない。手をわずらわせたな。もう寝ろよ。あとは自分で…」 が、言い終える前に上掛けが持ち上げられる。驚いたガユスは振り向いた。見ると、ギギナが寝台に片膝を乗り上げたところだった。 「…おい?」 不審の声に被せるように、ギギナが言い放つ。 「狭い。もう少し詰めろ」 「おい!?」 強引に体を押しやられてガユスが声を上げるが、その時にはもうギギナは隣にすべりこんでいた。ぎょっとする間もなく、長い腕が絡みつき、後ろから抱きしめられる。 「こら、何やってんだ!」 逃れようと暴れるも、しっかり拘束されて身動きが取れない。ガユスが青くなったところで、ギギナが囁いた。 「寒いのだろう? 温めてやる」 その腐れた科白には聞き覚えがあった。ガユスは呆れ、何とか首を回して、後ろの男を見やる。 「おまえ、昼間のあれ、まだ忘れてなかったのかよ」 「応。あの時おとなしく甘受していれば、今こうして哀れな脆弱ぶりを晒さずに済んだものを」 言いながら、ギギナはガユスの肩や腕をさすり始めた。 「もはや手遅れに近いが、せめて少しでも取り戻す助力をしてやろう」 有言実行。とばかり、体を撫でまわし始める男に、ガユスは再びため息をついた。 何が楽しくて相棒がこんな奇矯な行動に出るのか、彼にはさっぱりだったが、この状態では逃げられないし、第一今はその気力も体力も無い。 幸いと言うべきか、本当に熱の高い彼に、それ以上の無体を強いるつもりはないのだろう。色めいた意図の感じられない指先は、耐えがたいほどのものではない。それに。 熱心に体をまさぐる男には好きにさせることにして、ガユスは目を閉じた。 広い胸に背を包まれていると、本当に悪寒が薄らぐのがわかった。放熱で逆に凍えた骨が、熱い肉体に触れて温められていく。ぬくもりと共に、ここは安らげる場所だと言う安心感が与えられる。この男が傍にいる時、およそいかなるものも恐れることはないのだ。全てを任せて眠りこんでしまっても、彼はあらゆる危難を排除するだろう。 「…ガユス。――」 やがて薬が効いてきたのか、とろとろと訪れた眠りの中に失墜する瞬間、耳そばで何か言葉を落とされた気がしたが、ガユスの意識はそれを捉えきれずに溶闇に呑まれていった。 |
《続》 |