『水にまつわる正しい遊戯 V』


「苦情は一切受けつけません。後で泣くなよ」
浴槽に座りこんだ男の背中から、ガユスは宣言した。しながらも、何だか妙なことになったなあ、と脱力しそうになるのを堪える。
髪と体を洗え、と権高に命じた男をたしなめるのはたやすかった。が、かなり重度の潔癖症である相棒が、それも自ら手に触れるのではなく、触ってこいと促すのは珍しい。
と言うか、長い付き合いの中でもせいぜい三〜四度目くらいではないだろうか。普段は不用意に手を伸ばそうものなら、触れる前に刃物が飛んでくる。
つまりは、触れられたいと――この男にもそんな時があるとは、ガユスにとって未だに信じ難いものがあるのだが――慰撫されるのを望む、と言う状態なのだろう。
それはまた、この、人に馴れにくいことこの上ない生きものが赦す、稀有な距離でもあった。
他者への警戒と自身の矜持のごく内側。良くも悪しくも狎れすぎているガユスにだからこそ、時に寛される。やわらかな場所だ。
わかってしまうので、ガユスは揶揄も拒否も、取りあえずは棚上げる。
湯の栓を開き、シャワーノズルからの湯温を手首で確かめながら、ギギナの肩にあてていく。玉をのべたような白い肌の上で、水は滴を結び、流れると言うより転がり落ちていくようだ。汚れを拭う仕草で軽く撫でると、しっとりと吸いつくようなすべすべの手触り。本気で芸術品である。
ああもったいない。これが女だったらなあ。とか思ったことは、知れたら殺されるので間違っても口にしない。
肩の線を越えて流れている白銀の髪を持ち上げ、裾から濡らしながら、背骨の上、頸骨の窪みに少し重点的に湯を当ててやる。ここを温めておくと湯冷めしにくいのだ。幼少の頃から妹の世話をしていたガユスは、他人の体を扱うことに慣れている。
「はい、頭にお湯かけるからお目々つぶってお耳ないないしてねー」
ついその頃の言い回しで声をかける。ギギナが本当にこれをやったら爆笑するしかないガユスだったが、さすがに成人体の相棒はそんなことはしなかった。代わりに肩越しに睨みつけられ、ちょっと笑ってしまう。
「熱くないな?」
確認しながら、お湯を流す。返事はなかったが、責められもしなかったのでざくざく濡らし、備えつけの頭髪用洗浄液を手に取って泡立てる。生え際から指を差し入れてなじませ、髪の流れに沿って地肌を指の腹でこすり上げていく。
ギギナの髪は、色や質感から一見鉱物じみて硬そうに見えるが、実は猫のそれのように柔らかく、絹糸さながらに細い。癖もなく、すっきりとした直毛だ。従って指通りも良く、つるつるで、ガユスはいつのまにかこの状況を楽しんでいる自分に気づいた。
三助を強要されている自分の立場が他の誰に勝るはずはないだろうが、女が知る機会があったら、諸処含め自らと引き比べて歯ぎしりするだろう。
ガユスの指が地肌を揉みしだいている間、ギギナは瞼を伏せていた。肩向こうに見える顔は無表情なので、何を考えているのかはわからなかったが、体は寛いでいる。ガユスは安心して洗浄を続行した。
困ったのは、頭を洗い終わって保湿剤で仕上げ、背中や肩をタオルでこすってやった後だ。
「ギギナ?」
眠ってしまったのかと思えるほどおとなしい男に声をかける。呼びかけに応えて銀色の睫毛が上げられ、月のかけらを宿した瞳が現れた。それがこちらに寄せられ、何だ? と言外に問いかける。
ガユスはタオルを差し出して、ご奉仕期間の終了を示す。
「後は自分でやれよ。もう十分だろ」
「……………………………」
ギギナが黙って肩の上に手のひらを上げたので、ガユスはタオルを渡してやろうと少し屈んだ。とたん、ギギナが掴んだのはタオルではなくガユスの手首だった。
そのまま思いきり前に引きずり倒され、ガユスはとっさにもう一方の手をギギナの肩につき、衝突を回避しようとする。しかしギギナは身をよじって後ろに半身、体を開き、自分の脇を潜らせるようにガユスの体を斜めに引き倒した。
「わっ!」
浴槽の床にぶつかる、と思った体は、すばやく掴み直されたギギナの手で引き上げられ、ガユスは半ば傾ぎながらも何とかギギナの膝に落とされる。衝撃を覚悟して身体を硬くしていたガユスは、大きく息をついた。同時に怒りがこみ上げる。
「、ギギナっ、おまえなあ…!」
振り仰ぐと、そこには反省のかけらもない笑顔。しかも、このはずみに落ちたタオルを拾い上げて示し、悪びれもせずこうのたまうよし。
「まだ終わっていないだろうが。仕事を途中放棄するな、ガユス」
「って、そこまでできるか馬鹿! 第一、真正面からおまえを撫でまわす度胸は無いって!」
呆れ返ったガユスが抗議すると、ギギナは彼の体を抱え直して胸元に引き寄せた。
(うっわ! これはシャレにならねぇっ!)
今のギギナの行動のほとんどが幼児化していると確信しているガユスは、これをお気に入りのぬいぐるみを離したくない子どものもの判断している。しているが、頭の中身はともかく、なりは立派に鍛えられた男性体。裸で抱き合うのは大問題だ。特に、肌触りがすごくいいと感じてしまうあたりが。
しかし、ガユスの困惑を顧みることのない困った相棒は、彼の髪に鼻先を埋めるようにしてじゃれかかってくる。
あまつさえ、
「…貴様の手は心地良い」
とか、うっとり囁きかける始末である。
(こいつ…)
ガユスは内心、どうしてくれようかと歯噛みしたが、この相手にこの体勢で力技は通用しない。仕方なく、ガユスは息をついた。
「…わかったよ。やればいいんだろ、やれば」
心底嫌そうに言ってやると、思った通り、ギギナの拘束が緩んだ。更にガユスは畳みかける。
相手の腕から力が抜けても抵抗はせず、ゆっくりと体を起こして、片手をギギナの顔に伸ばした。青い炎の刺青が横たわる頬を前に、やわらかく指を曲げ、真銀の瞳に拒絶の光が無いことを確認して、そっと触れさせる。濡れてそこに張りついた髪を丁寧に払ってやり、その手を上に向けて、ギギナに促す。意図を察したギギナは片手に握っていたタオルをガユスに手渡した。
ガユスは一呼吸置き、おもむろに石鹸を取り上げてタオルにこすりつけた。よく揉んで泡立ててから、再びギギナの肩に手を伸ばし、まずひとこすり。髪に泡がつかないように、持ち上げる仕草でギギナの後ろ首を捕らえる。鎖骨から動脈に沿って首元、首筋と布で撫で上げて行く。愛撫を思わせる優しい動き。
本当に心地良いのだろう。応えるようにギギナが吐息し、緩くガユスを抱いている手がその肌の上を撫でた。思わずガユスが身を震わせると、花びら色の唇が笑みこぼれる。
無邪気で淫蕩な笑み。こんな表情のギギナは初めて見る。要するに閨での彼の顔なのだろうが、どんな時でも綺麗な男だな、とガユスは感心した。誰もがこの姿に陥落するのも無理はない。彼の性根を知りつくしている自分はともかくとして。
だが今、ギギナは人体の急所である所を全てガユスに明け渡している。脳への動脈も、脳幹の真上である頸部も、生命維持に直結する場所だ。ここに一撃を食らったら、いくら強化した生体咒式士だって無事にはすまない。それへ、この男がこうもたやすく触れさせるとは。
(女と寝ている時だって、こんな油断はしないだろうに)
そう思うと、ちょっと罪悪感がないでもなかったが、要するにそれだけ自分が軽く見られてるんだろう、とガユスは内心嘆息した。
その間にも、ギギナの手が少しずつ大胆に彼の体を這い始めている。まさか本気で自分とどうこうしたいわけではないだろうが、そろそろ限界である。
ガユスは耐えられないと言わんばかりに身を竦ませて、ギギナを拭っていた布をしっかりと掴み、肩にすがった。予想通り、ギギナが彼を覗きこむように身を屈めた。何だかひどく嬉しそうだ。
悪趣味な、とガユスは思わざるを得ない。普段小癪な自分が困じ果てて見えるのが、そんなに楽しくてたまらないのだろうか。
(まあ、楽しいだろうな)
ガユスは冷静に判断する。逆の立場なら彼だって楽しいと感じるだろうから。
けれどその優越感もこれまでだ。
ガユスはしがみつく、と見せかけてギギナの髪を握りこみ、顔を上げさせてその視線を絡め取った。
他には何も見えないように。他のものを視界に入れさせないために。
ちょっと寒気がするくらい近くまで顔を寄せられ、思惑に嵌った、と判断した時。ガユスは、ギギナがまばたきする瞬間を狙い、一度閉じられた瞼が再び上がったその刹那、すかさず行動に出た。
つまり、泡まみれのタオルを、思いっきりギギナの顔に叩きつけたのである。主に、目の辺りを狙って。
「ぐッ!」
さしものギギナもこの攻撃は予想していなかったのだろう。驚きのあまりギギナの手はガユスの体から離れ、次いで痛みに顔を押さえる。
油断していたところへ持ってきて、超々近接距離からの一撃は、彼の優位を崩すに十分な威力だった。首を押さえこまれていたので、もちろん避けることもできない。
間髪入れず、念のためのとどめの強襲。ガユスは浴槽の縁に手をかけて体を固定し、不埒な相棒の胸板を力まかせに蹴り飛ばした。
濡れてすべりやすい浴槽の床、おまけに石鹸の泡がその効果を助長する。ガユス的に大変気持ちよく後ろざまに転がったギギナは、更にすべって浴槽の端の壁に激突した。
大丈夫。腐っても生体系。死にません。むしろ奴がぶつかった壁の心配をしたいガユスである。
「はい、コアな水商売みたいなお遊びは終ー了ー。そこでしばらく己の所業を振り返って反省しましょうねギギナ君!」
ガユスは言い捨てて浴槽から飛び出ると、体力バカが復活する前にさっとバスタオルを取り上げ、後も見ずに浴室を出てしまう。扉を閉めて、やれやれと胸をなで下ろし。
「…ったく。人の親切心につけこんで、とんでもない真似させやがって。金輪際、あの馬鹿野郎には同情するかっ!」
固く心に誓った直後、人心地ついたせいか、ガユスはまたくしゃみをした。


《続》