『水にまつわる正しい遊戯 U』


仕事を終えたガユスは、役所にその旨連絡を入れた。昼時だったため大半の人間が席を離れており、課の責任者であるサザーランもその一人だった。
人が死闘を繰り広げている時に、それを強いた張本人は呑気に昼飯など食らっているのか。
ちょっと業腹なものを感じるガユスだったが、仕事が成功しようとも、なぜか山ほど小言を垂れてくれる相手と会話しなくて済んだのだから、と良かった探しをして自分をごまかす。とりあえず、残っていた職員に伝言をことづけておいた。
それが済むと、ひと暴れして空腹を訴える相棒に引きずられるようにして、村まで移動。首尾を案じていた村長にも依頼完了の報告を行った後、宿を取ることにした。
戦いそのものにそれほど時間はかからなかったので、食事だけ終えたらすぐにエリダナに取って返しても良かったのだが、何しろ氷雨に打たれ、凍りつくような湖水に浸けられて、頭のてっぺんから靴の中までずぶ濡れになってしまったのだ。服も着替えたいし、少し温まりたかった。幸いと言うか、特にギギナも反対しなかったので、村に一軒だけある村営の小さな宿に入った。

「うう゛……」
浴室で長外套を脱いでみると、何やら生臭い。ガユスは呻いた。湖の水だけに、雨に打たれたのとはわけが違うらしい。白が基調になっている布地は何となく青緑色に染まっているし、所々藻のようなものがへばりついている。
ここまで濡れたら同じことだ、とガユスは達観して、靴も履いたまま浴槽に立った。水栓をひねってシャワーのお湯を出し、ありがたく頭からかぶる。服をゆすぎながら上からひとつずつ脱いで行き、重い戦闘靴も何とか引き抜いて、最後に下穿きにまでたどり着く。
「うえ、これ全部乾かすのは大変だな」
洗い終えた服を、浴槽のすぐ隣に設置されている洗面台に並べながら、ガユスは顔をしかめた。同時に、盛大にくしゃみをする。冷えたかと、一旦止めたシャワーをもう一度ひねってお湯を出す。
その時、浴室の扉が開いて、ギギナが顔を見せた。彼は、着替えや風呂よりも食欲を優先させたため、部屋に入って荷物を置くなり宿の食堂に直行したのだが、もう帰ってきたらしい。
洗濯物を並べて思案しているガユスに呆れたのか、ギギナはそれらとガユスをまじまじと見比べた後、鼻を鳴らして見せた。
「…女のような長風呂だと思っていたら、単なる貧乏性か、眼鏡の付属品。こんな所で洗い物とはな」
「体を清潔にすると言う文明人の常識よりも、動物的欲求に従って腹を満たしに行った奴が言うな。それに、こっちは誰かさんのせいで真冬の湖で軟体動物と一緒に水泳させられたんだよ。寒いし、汚れもひどいし。第一これを洗っとかなきゃ、帰りの車の中で臭うぞ。それでもいいのかよ。あと!」
ガユスはぷんぷんしながら身を乗り出し、浴室の扉の把手を掴んだ。
「こう言うとこ開ける時はノックぐらいしろ。おまえの非常識は今に始まったことじゃないが、あんまり度が過ぎると犯罪だぞ」
そう言うと、ガユスは力任せに扉を押して、非礼極まるドラッケン族を締め出そうとした。が、逆に相手からの圧力が強まり、内開きの扉が更にガユスの方に押し出された。ガユスは濡れた硬化プラスチックに足をすべらせてひっくり返りそうになる。
「わっ!」
それを、よろけたはずみに把手から離れた手を捕まえられて、危うく押し止められた。
「マヌケな踊りだな。貴様の故郷の伝統芸能か?」
笑いを含んだ声が狭い浴室に反響した。ガユスが何とか平衡を取り戻すと、ふざけたことにギギナが目の前にいた。
「おまえのせいだろうが!」
ガユスが叫ぶ。
「何だよ、帰ってきたからもう交代しろとでも言う気か? どこまでワガママにできてやがるんだてめえは」
「別に交代する必要はないが」
しれっとのたまうその表情には、見覚えがあった。ガユスは今さらながら、自分の腕がまだギギナに捕らわれたままであることに気づく。
ここから北の蛮地は近い。この厄介な相棒が郷愁を覚えてもおかしくはない距離だ。
まずい、とほぞを噛んで、ガユスはことさら語調を強めた。
「だったら出てけよ!」
「寒いのだろう?」
それに対して、ギギナは的外れなことを言い出した。いや、ガユスが恐れていた通りの言葉だ。
「私のせいで凍えていると言ったな。ならば」
ギギナがほほえむ。
「温めてやろう?」
形の良い唇の端を綺麗につり上げて。
「――いるかっ!」
やっぱりかこの。確信したガユスはわめくと、自由な方の手でシャワーノズルを引っ掴み、ギギナに向けた。
ギギナは避けなかった。ガユスの暴挙を制止しようともせず、怒気孕むこともなく、黙って佇んでいる。遠慮なく向けられたシャワーはその間男を濡らし続け、男が纏った黒の着衣をいっそう黔ずませた。
ほどなく袖の端や裾から雫が滴り始めると、不可解なドラッケン族は笑って、濡れた髪をかき上げながら言った。
「よく濡らしたものだ」
「…いや、避けろよ?」
大の男が風呂場で生真面目に向かい合って、一体何をやってるんだか。水遊びにしても低俗すぎる。毒気を抜かれると共に頭痛を覚えたガユスは、ノズルをフックに戻した。
しかし、次にギギナの口から出た言葉は更に俗なものだった。
「もののついでだ。私の分も洗ってもらおうか」
「冗談はよせ。なんかアホらしくなってきた。代わってやるから自分で洗え」
眉を逆立てながら、ガユスは邪魔な男を押しのけて出ようとした。が、まだ腕を取られたままだった。
「いい加減離せよ」
うんざりして、ガユスはギギナを見上げる。するとギギナは空いた手で己の髪留めに指を絡め、器用に結び目を解いて髪を解き放った。
銀色の飛沫が飛び散り、白く燃え上がる水の焔を思わせる髪が広がり落ちる。安宿の鈍い照明の下でも、それは至銀の眩さを見る者に感じさせた。
誰よりも長く近く彼の傍にいるガユスだが、それでもギギナが髪を解いている姿にはあまりお目にかかったことがない。いわゆるドラッケン族の伝統的な、あるいは民族的な慣習による結い髪は、彼らにとってその身に施す刺青と同じ、宗教上の意味も併せ持つのだ。
いやそんなことより。
ガユスは歎息した。
彼の相棒は自らのたぐいまれなる美に無頓着な方だが、時々それがこう言う形で収斂する。ギギナにとってはさして意味のない行為が、他にはどう映るか理解していない。
(それに)
とまたひとつ息を落とす。
彼はわかっているのか。彼の民族意識を強く示す行動が出る時、ギギナは無意識に訴えかけているのだ。
彼の同胞に。彼の帰るべき地に。そこから引き離されて久しい我が身に。
あるいは、終に帰属不可能に終わるのかも知れない、異郷の片身を持つが故の絶望を。
その小さな、小さき声――
物思いにふけっていると、ガユスの鼻先にギギナの髪紐が差し出された。思わず、受け取ってしまう。次には飾り玉のついた留め針が、そして貴石の耳環と続く。
ガユスはあきらめまじりのため息。吐き出した息で、上衣の留め具を外しているギギナに声をかけた。
「仕方ないな。今回だけは洗ってやる。脱いだら置いてけ」
言ってやると、ギギナは衣服を緩めていた手を止めた。首を傾げるようにガユスを見やり、それからずいと彼の方へ身を屈めてきた。長い髪がガユスの頬にまで降り落ち、その銀から溶け落ちたかのような透明な雫が零れかかる。
まばたいて見上げるガユスに向かい、生きものの気配を感じさせない完璧な造詣の中で、それは勁い光を放つ、透き通ったうすずみ色の瞳が笑みに細められた。
「……貴様はまだわかっていないようだな、眼鏡の台。誰が服を洗えと言った」
「……何?」
ガユスが怪訝そうに眉を寄せる。その手を取り上げ、ギギナが自分の方に引きつけた。持ち上げられる先を知り、ガユスは目を見開く。
驚きのあまり抵抗もないのをいいことに、ギギナはそのまま自身の髪にガユスの指を触れさせた。
びくりと、ガユスは反射的に指を折り縮める。恐れるかのようなその反応に唇を笑ませ、ギギナは捕らえた手指に頬をすり寄せて見せる。
「洗ってもらおうか、ここを。――ここも」

《続》