餌付けと洗濯 |
修行と称して行方をくらましていた猛獣が事務所に戻って来たのは、俺が昼食の準備を始めた頃だった。 微かに響いた開錠の音が、奴の帰還を知らせる。おや、と思う間にも扉が開かれる気配。フライパン片手に振り返ると、見慣れた長身が事務所に滑り込んできた。 視界に飛び込んできた男は、怪我は無いようだが薄汚れていた。ついでに腹を空かせているのか、調理中の俺を見つめ返す視線が危険だった。例えば肉食獣が捕食対象を眺めて舌なめずりしているような、獲物を観察する眼差し。 「……どうしたんだギギナ。仮にも肉食動物の端くれに引っかかる癖に、狩りに失敗したのか?」 いきなり飯時に帰って来て、自分の分が出てくると思うな。 考えの甘い男を笑い飛ばしてやろうと軽口を叩く。ところがやたら剣呑な表情が浮かんだので、つい沈黙。洒落が通じる気分じゃないらしい。猛獣は相当飢えているようだ。 ここで下手にからかうと、俺の身の安全に関わる。 仕方なく、これ以上は余計な口をきかずに手を動かす。通例からして、そろそろ帰ってくる頃だとわかっていたので、一応食材の用意はしてあったのだ。 動物の行動パターンというのは、実は非常に読みやすい……が、むしろ帰宅時間を予想して余分に食材を買い込む己を客観視すると情けなくなる。主観的には飢餓状態のギギナは危険度が増すから、自衛手段として食事を与えるのは有効だってことで、うん。腹が減ると不機嫌になるのは、万国全生命の共通事項だしな。餌付けは野生動物を手懐ける有効な手段です。決して恐れをなして自己防衛したのではないこともないですが。 出来上がったものから順次テーブルに並べてやると、ケダモノは勝手に黙々とがつがつと頬張り始めた。引っ切り無しに出す皿は順調に空にされ、滞ると次はまだかと無言で脅迫。たとえ食洗機だって、これほど劇的に食器を美しく綺麗には出来ないくらいだ。 やがて背中に威圧感を感じなくなった頃には、大食いかつ早食いの獣に餌を与え始めてから、一時間以上が経過していた。 事務所中の食料を食い尽くしてようやく満足したのか、ギギナは帰還時より幾分は穏やかな表情になっている。見計らってデザートを出してやるとおとなしく平らげたので、終了宣言は受け入れられた模様。注ぎ足してやった陶杯の中味を呷ると、のそりと立ち上がって長椅子へと移動――しながら男の姿が不意に歪み、白い獣が優美な肢体を顕した。 だが、しかし。 久しぶりに見た雪豹は、かなり毛皮が薄汚れて見えた。 美しい純白の毛皮が汚れていると、名状しがたい複雑な葛藤に襲われる。これが鮮血にまみれている時は真紅との対比に眼を奪われたりもするが、単純に泥まみれなのは気に懸かる。ギギナがどれだけ汚くても、綺麗だろうと俺の知ったことじゃないはずなんだけどな。 あの綺麗な(はずの)イキモノが己の汚泥に構わない姿は、妙に物悲しくてならないのだ。そんな状態で放っておくことに一種の罪悪感すら感じる。 長椅子で惰眠を貪ろうとする獣の傍に近寄ると、興味なさげに大あくびをする獣に向かって俺はきっぱりと言い放った。 頼むから洗わせろ、と。 ギギナは、少し驚いたように眼を瞬いた。 |
◆ ◇ ◆ |
シャツとズボンが濡れないよう裾を折り返し、俺の準備は完了。胡散臭げながらおとなしく浴室中央でお座りの体勢の雪豹に、まずはシャワーでじゃばじゃばと水をかける。 世の中には、ペット用のシャンプーというものもあるらしい。しかし貧乏所帯の我が事務所に、そんな上等な品はない。犬猫用ならともかく豹を洗濯する商品が一般に出回ってる訳もなし、猫用で代用するには体格がデカいし、そもそも奴が専用トリーミング剤を使う必要があるほど繊細なお肌とも思わない。 豹を洗うのに人間様のシャンプーを使い果たすのは勿体ない、と思った俺が最初に手を伸ばしたのは洗濯用の洗剤だった。が、さすがに獣の視線が痛かったので、その隣の人肌用固形石鹸に変更する。 泡立てながら手櫛で毛皮を梳くようにして、白い毛並みを洗っていく。時折、水滴が飛ぶと耳を震わせるが、獣はいたって従順に俺に弄られていた。日頃からは想像も出来ぬ態度はいささか不気味なくらいだ。 ネコ科動物は基本的に水を嫌うが、幼児並とはいえ人間の端くれであるギギナは水を怖がりはしない。しかしびしょぬれの姿は、日頃の優美な印象より哀れっぽさが先に立つ。 雪深い地に生息する獣の毛皮は、毛の密集度が高くふかふかとしている。つまり、濡れぼそると毛並みのへちゃげっぷりが際立つのである。 人型のギギナが濡れていたなら、まさしく水もしたたる良い男だが、中味は同じでも水のしたたる獣は妙に可愛らしい。脳裏に過ぎったギギナへの評価とは思えぬ形容に、楽しさのあまり顔がにやついてくる。 ぐるると訝しげに唸った獣ににっこりと微笑んで。 「ギギナさん、ヌレネズミだととってもかわいい〜。きっと女の子も哀れんでくれるぞ。そうだ写真を撮っておきたいなあ……って、わ、ぎゃ―――っっ!!」 獣に飛びつかれて床へ転がされながら奇声を上げる。お、おまえは俺を潰す気か!? 焦って睨みつけると、動物化してより表情が判り辛い生物が、腹に前脚をおいて動きを封じながら、ゆっくりと上半身に圧し掛かってきた。 さすがに爪は立ててこないが(猛獣にやられたらざっくりだ!)正直言って、正体はギギナだとわかっていても(寧ろ、だからこそかもしれない)肉食獣に上に乗っかられるのは心臓に悪い。何をされるのか恐れずにはいられない。いっそ本当に動物なら対処の仕様もあるんだが――といっても、魔杖剣なしでは打つ手が無いか。 俺の緊張を知ってか知らずか、ギギナはゆっくり首筋に顔を埋めてくる。熱い吐息がかかり、鋭い牙が間近に迫る。ざらついた赤い舌に、喉元を舐め上げられた。まるっきり味見されてるみたいなんですが。修行中に人の血の味を覚えて来ました、なんて言わないだろうな!? ビクリと身体が震えたのは、緊張した所為であって怯えた訳じゃない。しかし直後、おもむろに退いた獣からは楽しそうな気配。まるで、恐怖を煽るのに成功したとでも言いたげじゃないか? おまけに洗い流している最中だったから、俺まで泡まみれにされてしまった。服を着たまま自分ごと洗濯する趣味は無いってのに。シャツもズボンも水浸しにされて、皮膚にべったり張り付いているのが気持ち悪い。糞、こうなったら死なば諸共ってな。 「畜生、覚悟しろよっ!」 人の好意(基本的には)を踏みにじった罪は重いぞ。罰として、男の裸体なんていう世にもおぞましいものを見せ付けてやろうじゃないか。 ぺったりと肌にはりつくシャツを脱ぎ捨てながら、にやりとギギナに笑ってみせる。さすがに下までは脱がないが、その泡を流すまでは見たくないモノがあろうと浴室から逃がしはしないぞ。ドラッケンの誇りにかけて、敵前逃亡なんてしないよなあ? じりじりと近付くと、ギギナは一瞬、面白いくらいに硬直した。 雪豹のままだと表情はよくわからないが、確かに俺を見て耳がぴんと天を向き、尾はぺしりと床を叩く。驚愕というか動揺というか。ふふふふふコレで終わると思うなよ。雪豹が相手なら、俺はノーダメージなのを忘れるな。 狭い浴室では、さすがのギギナも自在に動けない。我に返って退路を捜す獣に詰めより、壁面を背にさせて逃げ道を無くしてから、がばりと飛び掛ってやる。 咒式の使えない俺と猛獣形態のギギナでは、実は圧倒的に奴の方が有利だ。いつも通りともいうが、戦力の差は圧倒的である。 しかし雪豹の爪は鋭すぎ、その牙は尖りすぎていて、俺を撃退するためには使えない。まかり間違って使われたら即死する。さすがに相棒殺害は思いとどまってくれると踏んでの抱きしめ作戦は、予測通りにギギナを石化させていた。 俺としては、普通なら触れない大型肉食獣にしがみつくという動物好きには堪らない状況だが。ギギナからしてみれば半裸の男に抱きつかれるという……俺なら相手を惨殺しそうな事態である。欲を言えば、乾いてて本当にふかふかの時に触ってみたいんだけど。 首にしがみつきながら、シャワーのノズルへ手を伸ばす。 一緒になって湯をかぶりながら、にやにやと雪豹を観察してみれば、獣もまた無言でこちらを観察している模様。その眼差しがどことなく揺らいでいるのは、気のせいではあるまい。 文字通り借りてきた猫のように、おとなしく凍り付いているギギナを堪能する。人型で想像すると笑えて仕方ない光景だ。 にっこりと上機嫌に笑いながら、俺は思う存分ギギナを洗い流してやった。 その後、上がってからバスタオルとドライヤーで毛皮のお手入れをし終えるまで、雪豹が非常にいい子だったのを付け加えておく。 |