眠りの番人 |
気まぐれな散策から事務所に戻り、ギギナは眉を顰めた。 室内には暖房がつけっぱなしになっているのに、ガユスの姿が何処にもない。 やたらと経費節約にうるさい男は、もちろん電気代の浪費も嫌う。近場に出かけるだけでも、留守にするなら暖房を切って行くだろう。 もしや暖房を消す余裕も無い程の事態が発生したのか。事務所内に荒らされた形跡は無いが、ギギナは警戒しながら室内を探る。しかし直後に小さく息を吐いて、ガユスの定位置たる事務机に歩み寄った。 ギギナの優れた聴覚は、小さな呼吸音を拾い上げていた。座席側へと回りこんで椅子を覗き込むと案の定、小動物が自身の外套に顔を埋めて寝息を立てている。机の上は珍しいほどキレイで、つまり仕事の無くなったギギナの愛玩動物は、暖かく薄暗い場所で休憩と決め込んだらしい。 一瞬とはいえ、飼い主を驚かした不届き者をどうしてやろう。 外套をめくり上げると、仔狐はくぅくぅと熟睡していた。大きな耳がピクリと動いたので、気配を察して目覚めるのかと思えば、寝返りを打って気持ち良さそうに眠り続ける。後衛とはいえ物騒極まりない職業従事者だというのに、あまりに無防備すぎだ。 「……貴様、命が要らんらしいな」 慎重というか臆病なガユスは、ギギナよりよほど他人の接近を嫌う。平時のパーソナルスペースは、ガユスの方が大きいくらいだ。無遠慮に近付くと、顔では笑いながら間合いを確認。大抵この距離まで接近すれば驚いて飛び起きる。ここまで無反応なのは珍しい。 ひょっとして相手がギギナだから、なのかもしれない。 眠ってはいても、傍にいるのがギギナだと認知して危険はないと考えて。ギギナなら、自分を傷つけないと信じているのかもしれない。 それならば良いが、単に鈍いだけという説も捨てがたい。 ギギナの愛玩動物は自覚以上に迂闊なので、飼い主が知らぬ間に無防備な寝顔を他人に披露したりして、あまつさえギギナが気付かぬ間に寝込みを襲われかねない。相棒の身を案じると同時に、自分以外の何者かがガユスの眠りを見守るなど、考えるだけで気分が悪くなる。 不機嫌に鼻を鳴らしたギギナは、外套ごとガユスをつかみ上げた。片手で包み込めるサイズの小動物は、揺らさぬよう注意したとはいえ呼吸を乱す気配もない。ヒルルカに腰を下ろして膝の上に乗せると、少し躊躇いながらも小さな肢体に触れてみる。すると穏やかに規則正しく寝息を洩らしているフェネックは、ころんと身じろいで柔らかな腹をギギナへと晒した。まるで、優しい愛撫をもっとと強請るように。 柔らかい身体を慈しむように、背中をそっと撫で上げる。ほんの少しでも力をこめれば、けたたましく苦痛の声が上がるはずだ。そしてギギナに此処まで接触を許した己の未熟さを恥じるだろう。そうやって狼狽えるガユスを嘲弄するのも楽しいが、彼の安らぎを遮ろうとは思えなかった。 ガユスを甘やかす自分は、何だか相棒に負けているようで苛立たしい。眠りを妨げぬために動きを止める自分が情けなくもあり、ギギナは複雑怪奇な表情を浮かべた。 手の平に収まるサイズに惑わされたのではなく、人の姿でもいつだって可愛らしいと思う。独りだからこそ露わにされるのは、隠しても滲み出るガユスへの情愛だ。ただし本人に伝えればさぞかし嫌がると確信できるので、ギギナが愛玩動物を愛でるのは意識がない場合に限られる。 応えて欲しいとは思わない。 ただ、誰よりも捻くれた臆病者の傍にいられればいい。 出会ってから少し前までのガユスは、ギギナに対してこんなにも無警戒ではなかった。安心しきった態度は職業から考えれば退化だが、ギギナに触れられて安らぐ姿を見ると心に暖かなものが満ちていく。ガユスが自分を信じてるという当然のような事実が、ギギナの冷徹な意志に綻びを作る甘さを秘めている。 決して不快ではない感慨に浸っていた男は、手の中の小動物がもぞもぞ動き出したのに気付いて愛撫の手を止めた。 ようやく起きたのかと思う間もなく、寝惚けた獣はギギナの上着に鼻先を突っ込んで顔を埋めた体勢で落ち着いてしまう。どうやら眩しいのが不満だったらしい。 ガユスの呼吸が、素肌に直接感じられる。 柔らかな皮膚が触れている場所が、じりじりと熱くなってくる。 己の膝を見下ろしながら、ギギナは凍りついていた。擦り寄ってくる小動物は、自覚せずに男を煽り立ててくる。身体の奥底で炙られる衝動を押さえ込むには少なからぬ忍耐を必要とした。 それでも、いましばらくはおとなしく眠りの番人を務めようと、大きく息を吸って呼吸を整える。 己の我慢強さを褒めてやりたくなって、ギギナは珍しくも深い溜息を吐いた。 |