<論文>    何故「バイオ骨壷」か?

 

 新しい葬墓システムを考える場合のキーワードは、「有期限化」「共同化」「脱墓石化(無形化)」の3つと言われている(森謙二、槙村久子両氏の論文より)。

この3つの概念を包含した新葬墓システム実現は、そのツールとして「土に還るバイオ骨壷」の完成が有って初めて可能なのである。以下に、この3つの概念と結び付けて論述する。

 

 

(1)「有期限化」・・・・・・「人間の尊厳性」は?

 「無縁墓」の増加と共に、「墓地の循環利用論」や「墓地の期限付き利用」が叫ばれている。

後継者のいない墓地は改葬され、寺院や納骨堂で一定期間供養された後の遺骨は、まとめて「モノ」として廃棄される。即ち遺骨は、一定期間のみ供養されるが、期間終了後は「モノ」としての廃棄である。

ここに、故人に対する「人間の尊厳性の断絶」が存在する。

「墓地の有期限化」は「供養の有期限化」を意味する。

 

更に言えば、“無”から“無”への完結がなされて初めて、「人間の尊厳性」は全うされるものである。

 最初“無”であった『命』がこの地球上に「生」を受け“有”となり、「生」を終えて『命』は再び“無”となる。『命』は、“無”⇒“有”⇒“無”の過程を辿るが、この“有”の期間に人間は、魂と肉体を持って(肉体は魂の架台として)、「人生」を生きる。

それゆえ最初の“無”と最後の“無”は意味が異なり、最後の“無”には、肉体は有限でも魂は無限であるという意味が含まれる。『命』が終わると魂を宿した肉体は遺骨となるが、大事なことは、「魂は無形であるが遺骨は有形」(リン酸カルシュームという物質)であるということである。「有期限化」はこの「無形部分」に存するのではなく、「有形部分」に存在する。

 

この有形の遺骨は、ある一定期間、魂部分は供養として宗教儀式がなされるが、肉体部分としての遺骨は一定期間終了後は「モノ」として廃棄されるのである。「遺骨の行方」を考える時、廃棄される「モノ」としての遺骨も、もとはその人の魂を宿した本体であり、「真の意味で土に還して」初めて、最後の“無”が完結したと言える。即ち、墓地の「有期限化」を実現するためには、“無”から“無”への完結が条件となる。そのためには、期間内に遺骨を“無”に帰することが必要で、早期に『土に還る』ことで、「人間の尊厳性の断絶」を阻止できる。

 

 この点、「バイオ骨壷」は、単に骨壷だけが土中分解するのではなく、内蔵された遺骨も骨壷と同時に分解するよう工夫された遺骨容器なのである。

 

 

 

(2)「共同化」・・・・・・・「国民感情」への配慮は?

 「共同化」は家族を単位とした墓=家族墓からの解放を意味するものである。

墓の形態は「家」単位から「個人」単位へと移行し、家族墓から共同墓へと移りつつある。

合葬式の共同墓は家族による継承を前提としないので「無縁墓」とはならない。それゆえ「家」のアトツギがいなくても安心して入れる墓として期待されている。

 

 寺院の言う「永代供養墓」は継承不要を意味し、合葬式共同墓もこれに該当するが、「家」単位を基盤としない「永代供養墓」を管理する寺院そのものは、「家」単位で寺院を継承している。注意すべきは、「家」としての寺院が断絶すれば、「永代供養墓」も「無縁墓」と化することである。

 寺院や納骨堂で個別に供養されていた遺骨も、一定の供養期間が過ぎれば合葬されるのであり、無縁墓同様「モノ」として共同化して処理される。その意味で初めから共同化を明示して合葬式共同墓とするのには一理ある。

 

しかしここで重要なのは、日本人の「国民感情」である。

「共同化」には「他人様の遺骨と直接混じり合うことへの違和感」が伴う点である。共同はいいが直接他人様の遺骨と触れ合うのは自他共に気持のいいものではないという感情が根底にある。

 

日本人の「国民感情」を識る上に於いて、日本人の大の温泉好きがある。

個室の温泉よりも露天の大温泉を好む。一人で個室の温泉に入ることより、大勢で大浴場の温泉に入ることのほうが楽しいと考える。但しこれは浴室の中で手足を伸ばしても他人様の肌と直接触れ合うことがないことが前提である。浴槽の中で他人様の肌と嫌応なく直接触れるようでは、温泉気分を味わえない。

即ち、墓地を「共同化」する上に於いて大切な「国民感情」は、「他人の遺骨と直接触れ合わない」ことへの配慮である。

 

この点、『バイオ骨壷』は共同墓に使用される場合でも、骨壷が分解し終わるまでは、内蔵されている遺骨が直接他人様の遺骨と触れ合うことがない。共同化されても個別に土に還ることができる。

「バイオ骨壷」は「国民感情」にマッチした骨壷である。

 

 

 

 

(3)「脱墓石化」・・・・・・・墓=墓石なのか?

  日本の家族墓での墓石建立の繁栄は明治以降でそんなに古いものではない。

今日では、墓は必要でも墓石は必要ないと考える人や、墓石が無ければ「無縁」の問題も生じないと考える人が増えている。

 

 「脱墓石化」の潮流の根底には、「墓石が高価である」こと及び「環境への配慮」がある。

墓石が高価なのには理由がある。山から切り出した原石のうち墓石となりえるのはその30%程度と言われている。他は全て加工上のクズである。今日の社会でこれだけ歩留まりの悪い製品は他に類を見ない。その上一旦墓石となった石は無縁となっても再生の道がない。目立たないところに野積み状態である。最近の墓石はほとんど中国からの輸入石であるが、輸入までして“作るにクズ、廃棄するにクズ”の墓石が必要かどうか、いずれにしても墓石は高いものに付く。(石にこだわるのなら自然石を置くだけで充分。)

 

 元来、墓地事業は市民のための「非営利的公共事業」の性格のものである。

もともと地方自治体のみで管理運営していた墓地事業を、昭和21年の行政通達(内務省及び厚生省の両局長連名、その2年後に『墓埋法』ができた)により、宗教法人・公益法人でも墓地を運営することに許認可を下ろしたところから、事業墓地(民営墓地)が激増した。この事業墓地の実態は、宗教法人から「名義借り」した石材業者が、自社の墓石との「抱き合わせ販売」で墓地販売を行ない、墓地事業は完全に商業化した。その結果、不足する公営墓地募集に抽籤もれした市民は、高価で都心から遠い都市郊外の事業墓地(民営墓地)を購入せざるを得なくなっている。

 

 もともと都市郊外には自然があった。

「事業墓地」の出現は、郊外の樹木を伐採し造成され、環境破壊を伴い、そのため郊外の自然は失われた。墓地用地は他目的用地への転用が困難なものであり、墓地認可は簡単に許認可を下ろすべきものではないことは勿論、造成により破壊した自然環境を修復する義務も同時に負うべきものである。

今まで環境理念が皆無であった墓地事業にも環境への配慮が求められる時代となった。

 

 「脱墓石化」は、墓と墓石の分離⇒抱き合わせ販売防止⇒安価清廉⇒環境破壊阻止の大きな流れの中で考えるべきもので、もはや墓地の墓石は過去の文化遺産となりつつある。

時代は「作る時代」から「再生(修復)の時代」へと移行しており、墓地造成による自然環境破壊の修復には、植樹による緑化と既存樹木の育成が不可避である。

 

この「環境への適合性」を考慮して製作されたのが「バイオ骨壷」である。「バイオ骨壷」は単なる遺骨容器としての機能のみならず、土中分解後の周辺土壌を肥沃化し、樹木の成長を促す効果を兼ね備えている。この機能を利用して墓地の植林、緑化が可能である。

従来の墓地事業を「環境事業」と位置付けできるツールとなる。



 平成14年10月10日        (有)バイオアート・環境葬墓研究所  三木 勝也

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