西国の雄 毛利元就

一、西国の雄 毛利元就の生涯


五、幸松丸の死!!元就、家督を継ぐ

先の鏡山城攻めで元就は蔵田日向守直信の調略に成功し、みごと尼子方を勝利に導きました。ですが尼子方の総帥
尼子経久はその功を快くは思わず、返り忠の直信を斬首することにより元就の武将としての名声を貶め、さらにわずか九才
の当主・毛利幸松丸にも合戦のしきたりとして首実検に参加するよう圧力をかけてきました。
毛利家としてはこの経久の要請を断れるはずもなく、幸松丸はいやいやながら首実検に参加しますが、不幸にもこの首実検
に参加したことにより発病。そして大永三年(1523年)七月十五日、興元の死後九年目にして幸松丸もまたその短い生涯を
閉じました。享年九才。
しかし時は戦国の世。相次ぐ当主の死に直面しても悲しみにくれる暇もなく、毛利家ではすぐさま家督相続問題の解決に
取りかかります。候補者は弘元の子供である元就とその異母兄弟元綱、就勝の三人。このうち就勝は出家しており、実質的
には元就と元綱の二名に絞られました。毛利家の老臣の大方は元就を支持しその中でも特に先々代興元時代からの執権
であった志道広良は元就の器量を見抜き、かつ元就が正室の子でありまた三人のなかでは最年長者でもあったため元就の
家督相続を強く主張しました。
ですがそれとは逆にすでに分家し多治比の地に三百貫の領地を持ち独立している元就よりもまだ独立しておらず分家して
いない異母兄弟・元綱こそ毛利家次期当主にふさわしいと唱える老臣もいました。
元綱には尼子経久という強力な後盾もあり、これも元綱にとって大きな強みとなっていました。
尼子経久は毛利家の訃報を聞きおよび安芸において大内氏と対抗するために最初は自分の血族を吉田郡山城に送り込み
その要にしたいと考えていましたが、その実現が難しいと知ると、こんどは自分の股肱となって働いてくれる人物を
毛利家の吉田郡山城城主に推挙したいと考え、そのため先の鏡山城の合戦での働きから元就を警戒し、異母弟・元綱に
その白羽の矢を立てました。
このような両陣営の動きの中で
志道広良は尼子経久の家督相続介入に危機感を覚え、元就と相談の上重臣たちに根回し
をする
一方で、粟屋元秀という譜代の重臣を物詣という名目で上方へ旅立たせ将軍家に跡目安堵の御墨付を拝領させま
した。また
志道広良の根回しが効を奏し、大永三年(1523年)七月二十五日毛利家の宿老十五名が連署状を持って
多治比猿掛城城主・元就に毛利宗家の家督相続を要請しました。
この連署状と将軍足利義晴の御内書をもって尼子経久の毛利家家督相続介入の野望を阻止、元就は大永三年(1523年)
八月十日に吉田郡山城へ入城し、毛利家宗家の家督を継ぎます。
これにもとない呼称も今までの多治比の呼称を改め、「毛利少輔次郎元就」と名乗りました。元就二十七才。
この時、元就は『毛利の家 鷲の羽を続(つぐ) 脇柱』という発句を短冊に書いて宗家を継ぐ覚悟のほどを家臣に示したと
伝えられています。



《幸松丸の死!!元就、家督を継ぐについて安芸中納言の考察》

これによりついに元就は毛利家宗家の家督を継ぎ、安芸毛利氏第十二代当主となります。
ですが、それは幸松丸の突然の死によるものであり、また依然尼子からは圧力を加えられておりその前途は多難です。
幸松丸の夭逝については裏切られた蔵田日向直信の怨念に祟られたという風説があります。首実験の最中に直信の首級
が瞳を動かし三度歯を噛み鳴らしたので、幼い幸松丸が怖じ気づき戦慄驚動として卒去したというのです。
この話は非科学的でにわかには信じられませんが、実際にはこの時天候不順で雨の日が多く、また戦場での極度の緊張を
強いられて、九才の幼い幸松丸には心身ともに堪え難かったのだと思います。
いずれにせよ尼子経久は直信を斬首し元就の名声を貶めただけでなく、幸松丸の鏡山城攻め参陣の強要という圧力を
かけた結果幸松丸の夭逝を呼び、またこの幸松丸死後の毛利家の家督相続にも介入しようと企んでおり、このような尼子
経久のやり方に元就をはじめ毛利家の人々は決して快くは思っていなかったと思います。
そんな中で
連署状と将軍足利義晴の御内書をもって尼子経久の毛利家家督相続介入を阻止した志道広良の策は
毛利家の自立を
守ったたけでなく、尼子に抗するべく連署状をもって内部の結束をはかり、
さらにあの尼子経久の計をも封じることができた点で毛利家(元就擁立派)にとってはまさに会心の一手であったことでしょう。

製作者:安芸中納言
2001年9月3日


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