西国の雄 毛利元就

一、西国の雄 毛利元就の生涯


四、鏡山城攻め

先の初陣、有田城合戦から6年。元就27才の1523年(大永三年)6月下旬、尼子経久は大内義興が京都から
帰還して安芸東西条で勢力の挽回を策した大内方の居城・西条鏡山城を攻略すべく大挙して安芸に出陣します。
当時尼子方であった毛利氏にも吉川氏とともに鏡山城攻略の先陣が命じられ、さらにその忠誠心を試すかのごとく
9才になる当主・幸松丸の出陣までも強制し、元就もまた幸松丸の後見として参陣、6月13日に鏡山城下に進駐しました。

そして攻撃が開始されるものの鏡山城は守将・蔵田備中房信とその叔父・日向守直信、および同備前守盛信の兄弟
により良く守られ、城兵は大内軍の救援を信じてなかなか降伏しませんでした。
元就は大内軍が周防から後詰めに来る前に城を落とさなければならないと考え、鏡山城副将・日向守直信が利欲に目が
眩む性格であることをさぐり出し、密使を派遣して「主将・蔵田房信を討ち取ってその首級を差し出せば所領三千貫を
恩賞として与え蔵田の家名を存続させる。そうでなければ、一族悉く誅戮しつくすことになる。」と内応を呼びかけました。
すると日向守はこの誘いに応じて夜のうちに毛利軍を二の丸に引き入れたので、城主・蔵田房信は本丸に立て籠って抗戦
するもついに妻子および城兵の助命を条件に降伏しました。

元就がこれを尼子経久に取り次ぐと経久にも異存がなかったので、備中守房信は6月28日に城を明け渡して切腹します。
ところが内応した日向守直信への所領安堵の約束は、元就の口添えにもかかわらず経久の同意が得られず、それどころか
「備中守は蔵田家の総領であり、お前の甥ではないか。それを欲に目が眩んで裏切るとは人道にもとる卑怯な振る舞いで
ある。」として、元就との約束もむなしく、日向守直信は経久によって斬首に処せられました。



《元就の初陣について安芸中納言の考察》

このように1523年に起った鏡山城攻めは元就の調略によって尼子方の勝利に終わります。
しかし、それは同時に尼子が安芸進出の拠点を手にしたことを意味し、毛利氏にとっては足元をますます脅かされることにも
なりました。「尼子と大内の二大勢力のどちらかの都合のよいように利用され、駆り出されて損傷をこうむる」これが元就のような
当時の安芸におかれた国人領主の立場だったのです。

さてこの合戦で一番目を引くのが元就が日向守直信に仕掛けた内応だと思います。この結果、攻撃側は早期決着のための
甚大な損害を受けることを避け、また城兵、妻子の助命の約束も守られました。
このことは毛利氏にとっては大変有益であったと思います。何故なら先にあげたようにこの鏡山城攻略はあくまでも尼子氏の
手伝い戦であったため、例え城が落ちたとしてもその城は尼子氏のものとなり、また毛利氏は先陣を命じられているから
いざ早期決着のために力攻めをすれば一番に甚大な損害を受けることが予想されるからです
このような観点から見ると鏡山城攻めでの元就の調略による働きは大変大きかったと考えられます。

ですが、逆に尼子経久から見るとその働きは面白くないものと映ったと思います。日向守直信を斬首したことは今回の元就の
活躍を快く思っていない表れであり、同時に元就の武将としての面目をつぶし屈辱を味あわせています。
また、この後9才の毛利幸松丸に対して首実験に参加するよう要請し圧力をかけていることからも、
今回の元就の働きを見て尼子経久は毛利氏、とりわけ毛利元就に対して、より警戒心を強めたのだと考えています。


製作者:安芸中納言
2001年8月20日


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