「神」が「人間」になるまでの物語

                       ――― 映画「太陽」を見る(2007.1.20)

ロシアだから製作できたとも、それでも日本では公開されることはないだろうと も言われた映画「太陽」を見ました。

終戦直前から人間宣言にいたるまでの昭和天皇らしき人物が描かれてています。
あえて「らしき人物」と表現したのは、この映画の中で主人公の氏名、国籍、時代など、一切の説明がなされていなかったからです。
パンフレットにつけられたシナリオにも、単に「主人公」とのみ記されています。
この映画は誰もが知っている「主人公」の誰も知らないプライベートな世界を描きます。

冒頭、主人公は「おかみ」と呼ばれ、仰々しい手続を経て主人公の元に届いた西洋式の朝食を食べています。
そこは、主人公が本来暮らすべき場所ではなく、空襲を避けた地下の退避壕であるようです。
侍従につけさせたラジオは、戦争が終わりに近づいていることを教えてくれます。
すぐにラジオを消させた主人公は、少々いらだっています。
それは、主人公を「神」と仰ぐ国民が、この戦争によって次々と命を落としているからに他なりません。

「最後の日本人は私だけであるということにならないかね。」
まわりに侍従しかいないがゆえに漏らすことができた主人公の言葉に、
侍従長は「思い過ごしでございましょう」という当たり前の言葉の後に、こう付け加えます。
「お上が人間であるかもしれないとお思いになること自体が、思い過ごしでございましょう。」

侍従長の答えが、いっそう主人公のいらだちを深めます。
主人公の問いかけが主人公が現在おかれている状況をめぐる悪い冗談であるとすれば、
侍従長の答えは主人公の地位そのものをめぐる悪い冗談になっています。
この後、主人公はいささか八つ当たり気味にいくつかの皮肉な質問を続けて侍従長を困らせるのですが、
「神」としてあることの意味や役割を最も理解しているのもまた主人公自身であるのでした。

もちろん映画はフィクションであり、
この<主人公が「神」としてある最後の時間>もソクーロフが作り上げた「作品」にすぎません。
しかし、今の目で見るとどこか滑稽にすら見えてくる映像が、
当時の天皇の置かれた地位や状況を見事に抽出したものであることも確かです。
そもそも、明治維新は、武士という世俗の権力を否定するために
古代神話を起源とする宗教的存在である天皇を国家の根本にすえたものでありました。
と同時に、欧米列強と対等であろうとするがために支配階級は生活様式の西欧化を進め、
それを最も「体現させていた/体現しなければならなかった」のもまた天皇なのでした。
(1)

それゆえ、主人公は天照大神の末裔であるにもかかわらず、パンを食べ、ワイ シャツを着て、ベッドに寝ます。
洋服を着た侍従たちは、その肉体が人間でしかないことを最も実感できる場所にもいるにもかかわらず、
そのことに気づくことを恐れるかのように、主人公のことを触れることも許されない神聖な存在として扱うのでした。(2)

そして、その矛盾は、敗戦と言う現実によって白日のもとにさらされます。
侍従たちが「お上」と呼んでいた主人公は、戦勝者であるアメリカ人にとっても特別な存在でした。
なんといっても、自国を攻撃し世界を侵略して、数百万の人を死に至らしめた「戦争指導者」なのです。
ところが、アメリカ人記者たちの前に登場した主人公は、けっして「神」でも「悪魔」でもなく、
洋装で山高帽をかぶり髭を生やした普通の日本人でした。
記者たちは、あの名優になぞらえて主人公を「チャーリー」と呼んでしまいます。

占領軍司令官との会見に臨んだ主人公は、もはや「神聖な存在」として扱われな いことを認めざるを得ない立場となりましたが(3)
その一方で「神聖な存在」のときにはあまり見せることのなかった人間としての魅力を見せます。
主人公は流暢な英語で司令官と会話し、会食の際も西欧的な礼節をわきまえています。(4) 
司令官は会話を進める中で、主人公が自分を殺すという帝王学を徹底的に身に付けていることを発見します。
どうやら司令官は主人公を助命することに決めたようです。

映画は、主人公を断罪するわけでも、かといって正当化するわけでもありません。
昭和天皇を戦争犯罪人として裁かなかったという史実にむけて、ソクーロフなりの道筋をつけたにすぎません。
強いて言えば、「神」としての主人公を断罪し「人」として生かした、というところでしょうか。

その意味では、人間宣言で映画を締めくくったことも納得できます。
正直なところ、これまで戦前と戦後を分かつ節目の出来事として人間宣言というものを深く考えたことはありませんでした。
ポツダム宣言の受諾や日本国憲法の制定に比べると、あまり劇的な変化という実感が得られなかったのです。
「宣言などしなくても、もともと人間なのに」という結論から想像力が飛び立てなかったのかもしれません。
やはり、実感の部分で戦後民主主義における象徴天皇制があまりにも身体に染みついているのでしょう。

録音技師をめぐるエピソードは、主人公が「神」でないということが
当時の日本人にとってどのような意味をもっていたかを突きつけたような気がします。
この映画は「主人公」個人を丹念に描いているようでいて、やはり当時の日本というものをあぶりだしているのです。

「主人公」を演じたイッセー尾形は、いくぶんかの過剰さはあったものの、
むしろ、そのおかげで私たちが知っている「主人公のモデルとなった人物」のイメージを見事に再現してくれました。
また、戦前の日本人を代表する役割を果たした侍従長・佐野史郎の抑えた演技も見ごたえがありました。
皇后の桃井かおりは、正室というよりも愛人に見えてしまった感はありましたが、堂々の存在感です。

また、夢の中の東京大空襲の場 面に代表される乳白色に濁った画面、きめ細かく気高いのに陰鬱な音楽など、
美しくも哀しい気分のようなものが映画全体を通して流れており、どことなくロシア的なものを感じさせてくれました。
そして、それは決して日本的なものではないにもかかわらず、
庶民からは切り離された場所で敗戦の重苦しさを受け止めていた主人公の心情とうまく重なり合って見えてくるのでした。

やはり、ロシアもまた皇帝を戴 いた経験がある国だからなのでしょうか。



 (1) 最近でも、紋付羽織袴で皇室行事に参加しようとし た首相が、洋装でないがために非礼であるとされた例があった。

 (2) 主人公は<最高権力者としての資質を獲得せ んがために西欧に学び、その生活習慣を身につけているにもかかわらず、
  国民の側は最も非西欧的 な存在である神の末裔として主人公を神聖視していたのである。主人公の地位の不思議さとともに、
  こうした主人公と国民との意識の乖離もまた、この映画のテー マの一つである。

 (3) 会見終了後に、主人公が退室しようとした場面は秀 逸だった。主人公は従者からも離され一人で占領軍司令官室に入ったのだが、
  入室時には警備兵が開けてくれた扉を退室時には誰も開けてくれない。室内は、主人公と司令官と通訳しか居ないのだ。
  自分で扉を開ける習慣がない主人公は戸惑うが、もはや主人公は扉を開ける者がついていて当たり前というような地位ではないことを示していた。

 (4) 主人公が身につけた洗練された立ち居振る舞いと比 べると、幼い国であるアメリカ人の行動が野卑に見える部分さえあった。
  平気で「チャーリー」と 呼びかける記者たちは、けっして行儀のいいものではない。もっとも、いくぶんかはロシア人監督ソクーロフによる
  アメリカ人に対する悪意が込められているかもしれ ない。


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