・ 初出1984.11.1.NECO9号。多すぎた原註を整理し、わかりにくい部分、誤解を生むような表現には手を入れた。註はすべて、2000年現在のものである。  

 ひさうちみちおの真実(下)

        

  あえて差別的表現をした「ヒホポタマス」は、けっしていたずらに差別意識をあおりたてるような作品ではなかった。ひさうちみちおはあえて行う差別的な表現を通じて、私たちの内なる差別意識が存在する余地を明らかにするとともに、表現された言葉と表現しようとする意識との間に存在するズレをも明らかにしていたのだった。

 それは、一言で言うなら、人間は言葉のままに生きているわけではないということである。「サベツ=ヨクナイ」という単純な言葉の図式には、隠された差別意識の入りこむ余地はない。たとえ仮に「カクサレタサベツイシキ」という関数を付け加えたところで、そうした言葉からもこぼれ落ちる部分を人間は持っている。

 くりかえすが、このことは現実の差別が「よくないわけではない」と主張しているのでもない。言葉の上では簡単に導き出すことのできる「サベツ=ヨクナイ」という結論と同じ単純さで、人間の行動を結論づけることはできないだろうということである。 (1)それは、一見、あいまいな人間が確かな言葉の結論になじめないでいるように思われる。しかし、言葉が「確かさ」を持つことができるのは、具体的な存在である様々なモノを整理し抽象化していったがためである。言わば、言葉は答えを出すために単純化された現実のイメージなのである。本当に確かなものは、世界に満ちあふれる人間であり、物であり、その動きであって、むしろ、表現し尽くせない言葉の方がそれになじめていないのである。

 人間が手を触れているモノが現実で言葉はそのイメージにすぎないということなど、わざわざ言いたてるまでもないあたりまえのことだろう。しかし、情報化という言葉の絶対量が急激に増大する状況にあって、言葉はブレーキの壊れたトロッコのように言葉自身で築かれた網の目の中を走りまわっている。手ざわりはないくせに手垢にまみれた情報の渦の中で、確かなはずの人間と不確かなはずの言葉の関係は逆転さえする。

 中沢けいの次の文章を読んでいただきたい。

   いつのころからかは解らないが、時代によりそいながら貧乏を表現した作品に、映画でも小説でも漫画でも、  そして芝居でも出合わなくなった。私が知らないだけなのだろうか。個性の感じられない、時代遅れの、いわ
  ば類型化してしまった貧乏の表現ばかりやたら目について仕方がない。貧乏な中年女と言えば、髪をひっつ   めて地味な色のセーターを着ているという具合だ。貧乏な家の子どもはと言えば、半ズボンにランニングシャツ  一枚と決まっている。 (2)

 類型化した「貧乏」しか描けないのは作家の側の怠慢であろうし、「最近のお金のない人々は、化学染料を使った鮮やか過ぎる色合いの服を着ているというのに」 (3)という彼女の目は、正しいものなのだろう。しかし、そんな類型化した「貧乏」をこそ、我々は<知っている>のである。「貧乏」とは「お金のない状態」のことではあるが、なにより「ひっつめて地味なセーターの中年女」や「半ズボンにランニングの少年」のことを指し示すのだ。もしかすると、私たちは「化学染料を使った鮮やか過ぎる色合いの服を着ている」人々を見ても、それを「貧乏」という言葉が<似つかわしい>と思わないかもしれない。それでいて、勝手に思い込んでいるイメージ通りの「貧乏」など現実に見つけることもできなくなっている私たちは、いつのまにか「貧乏」という言葉を現実から遠く離れたイメージの中に閉じ込めてしまい始めている。

 言葉と意識のズレを指摘したひさうちみちおは、このような言葉が現実と離れたイメージの中に閉じ込められている状況にも気づいてしまっている。彼は、そのような言葉の二重性を強く意識し、そのことをテーマとする作品を次々と発表しているのである。

 (1) 原註「したがって、「だから差別はけっしてなくならないものなのだ」という、逆の単純すぎる言葉の結論も、当然しりぞけられねばならな   い。」補足するならば、言葉では単純に結び付けることが出来る「サベツ=ヨクナイ」という関係を、現に生きている人間がどのように自分   のものにしていけるのか(例えば、差別をしないほうが私は幸せになれるという意識を持つこと)、という点が問われている。「ヒポポタマ    ス」もそのような問いかけの一つである。
 (2) 原註「朝日新聞(1984.8.8.夕刊)「1984年夏、新戦後世代のイメージ5―貧乏」。このシリーズは、伊藤比呂美、島田雅彦など興味深いも  のが多かった。」当時30歳前後の文学人を集めていたようだ。
 (3) 今の時点で「化学染料を使った鮮やか過ぎる色合いの服を着ている」という描写がどの程度「貧乏」の描写として妥当性があるのかに    ついてはおくとして、「髪をひっつめて地味な色のセーターを着ている」中年女や「半ズボンにランニングシャツ一枚」少年がノスタルジー   とともに描写されているような場面にはときどき出合うような気がする。さらに進んで「貧乏」はノスタルジーを付随しなければ存在しえな   い言葉になっているのかもしれない。「ホームレス」や「リストラ」や「フリーター」という現在の「お金を持っていない人々」を表わす言葉    は、どうも「貧乏」とは違う種類のように感じられるのだが、どうだろうか。

      

 たとえば、ひさうちみちおの絵である。「夢の贈り物」の冒頭に、三人の人物が描かれたコマがある。(1)描き方もバラバラで、絵画的なリアリズムはもちろんのこと、まんがのデフォルメの文法とも違う省略された太い線と白い画面は、どうにもリアリティという言葉とは結びつきそうにない。しかし、バラバラの一人ひとりの描かれ方に注意して見ていくならば、けっして意味もなく適当に描かれた絵ではないことがわかってくる。

 右端の「父親」はボール紙でできているかのように平面的で、体の部分に比べると頭がずいぶん小さい。生きた人間であることを感じさせる顔の表情や動きというものは抑えられ、大きな体はネクタイの柄さえわからぬほどに灰色の背広ですっぽりとつつまれている。この人物に向けて矢印がつけられており、「海外出張の多い父」と註釈が入っている。
 中央の「母親」は「父親」とは対照的に立体感にあふれており、胸が強調されるなど肉感的でさえある。顔つきは中年そのものといった風であるのに、髪型や服装、ポーズは妙に若ぶっている。そこへ、テニスルックにチャリティのたすきをかければ、「社会参加とスポーツの母」ができあがる。

 左側の子どもも、「ボーリョクの子」という註釈通りのかっこうをしているが、「パパは仕事 ママはボランティアとテニス ぼくはエアコンの涼しい部屋でヒマンジになっていく ぼくも大きくなったら校内暴力なんかするのだろうか」という小学生の独白を形にしたものなので、顔は当の本人そのままに描かれておりどこか迫力のない間の抜けた表情になっている。

 要するに、ここで描かれた三人の人物は現実の人間の姿としてはリアリティに欠けているかもしれないが、「お金だけは持っていてどんなことでも使用人や出入りの業者に言えばなんとでもなるという有閑小学生の述懐」という文脈の中では極めてリアルに出来上がっているのである。
 「上」で引用した「肩ばっかり張った上にピンポン玉のような頭が乗っている居丈高な警官」やそのバックの「どこだかわからないが、ともかく日本でない東洋風の風景」、それに続く「有刺鉄線の張られた工場とそこへ入っていく人々がつらそうにしていること」など、いずれの描写も現実の風景であるかは別にして、「正しい」教育を受けた女子短大生の想像の中の光景としてはそれらしいものになっている。(2)実際、あの場面で必要なのは、「ニッポンゴをしゃべっとるか?」と問う警官の人間的側面でも、朝鮮半島の風景を忠実に描きだすことでも、コリアンが働く工場の実態でもないのである。それらは、「侵略して古来の言葉をとりあげ日本語の使用を強制したり、ムリヤリ日本に連れて来たりだまして連れてきたりしてサクシュしたのだ」という身についていない言葉の浅薄さに見合ったリアルな浅薄さで描かれているのである。

 ひさうちが「言葉どおり」のイメージをそのまま絵にしてしまうのは、このような主人公の独白に限ったものではない。独白ではない物語の部分であっても、「現実的な」装飾を一切しないまま、同じような「言葉どおりの」画面を描きつづけている。それが言葉どおりのものであるなら、「ヒポポタマス」でのコリアンの描かれ方のように、とても現実ではありえないものでも平気で描いてしまう。

 そこには、明確な意図が働いていると言わねばならない。ひさうちみちおは、自らの作品をあえて現実から距離を置いたところに位置づけようとしている。「現実的」であることよりも、「言葉どおり」のものとして、彼の作品はある。彼は意図的に「絵に描いたような」絵を描き、「絵に描いたような」物語をつくる。「ヒポポタマス」にしても、物語を追うならば、A子さんがB子さんの家に遊びにいき酒に酔って最後の一言を言ってしまう、というだけである。むしろ、「正しい」教育を受けたA子さんに最後の一言を言わせるために、「美人のB子さん」「B子さんの父」「卑近な会話」「退屈な映画」「弱いお酒」「わからない専門用語」という状況がしつらえられ、A子さんがその一言を言ってしまった瞬間、唐突に物語は終わってしまう。まさに、作られた言葉どおりの類型的な人物が言葉どおりに動き回る物語として、ひさうち作品はあるのだ。

 先にあげた「金持ちの少年」が夢の中で見た「貧乏」という設定のカットがある。(3)「ぼくとパパとママは貧乏人でジャガイモを食べていた」という少年の言葉がつけられている。ところが、妙に派手な服装はそのままで、喫茶店のウェートレスのような白のエプロンを着けた「女中さん」もついていて、皿に盛られたジャガイモを彼らは「フォークを使って」食べている。(なんと類型的な金持ち像だ !)そして、その一方でジャガイモだけの食卓、白熱灯とそこにむらがるハエ、ハエトリ紙、とってつけたような涙などで、「貧乏」を演じている。そのアンバランスさは、やはり「金持ちの小学生が見る夢」としての「リアリティ」を持っている。(それは、本当の「貧乏」を知らない私たちの目であるかもしれない。)そして、「ひっつめに地味なセーター」に代表される「類型化された貧乏」をさらに類型化して見せることによって、私たちが結局どれほど「貧乏」が類型化しているのかさえも明らかにしてしまうのである。

 それは、一方でどうしても似非現実でしかありえない言葉の側の限界をみずから確認していこうとするものである。と同時に、誤ったイメージでもまことしやかに運んでしまう「言葉」という貨車に、あえて「誤り」という表示をしてみせることによって、逆に現実をうかがおうとしているのである。

 (1) 「夢の贈物」は、「夢の贈物」(東京三世社・1983)の表題作。「上」にも書いたように、手元にあるのがいわゆる「軽装版」であるために、    初出の記載もない。当該カットは、同書6p。
 (2) 上掲書22p。
 (3) 上掲書13p。ひょっとすると、ピカソのイメージも入っているのかもしれない。ならば、この小学生はかなりインテリだ。

      四 

  ひさうちみちおは、言葉の世界と現実の世界の微妙なズレに気づき、そのズレを言葉のつながりとしてのみのリアリズムで描くという技法で確認していった。彼の言葉の上では「正しい」設定から出発して得られる言葉だけの「真実」は、読むものを大いに戸惑わせる。たとえば、「ヒポポタマス」という作品を私たちが素直に受け止められないのは、「差別はよくない」という言葉が意味する内容の正しさと、「<差別はよくない>という言葉を発すること」の正しさを私たちがきちんと区別することが出来ていないからに他ならない。

 
他にも、クラス内で孤立した混血児に対して、クラスメートが「善意」と「好意」にもとづく「正しい」言動で解決しようとして、かえって登校拒否に追いやってしまった例。(「ある転落」。ちなみに、主人公は人間とロボットの混血である。)(1)「アソコ」という言葉が世間の偏見に耐えかねて旅に出たものの、「アソコ」という名前だけでひどい仕打ちに会う話。(「アソコの大冒険」。主人公は、カタカナの「アソコ」という文字である。)(2)自分に心当たりのないまま婚約者が妊娠してしまい、あげくは神の子の父として「喜べ」といわれる男の哀しみを描いた「ヨセフ」。(むろん、ここで言う「正しい言葉」は、世界中に知られている妻マリアとその子イエスの側から語られた物語のほうだ。)(3)

  それらは、いずれも言葉の上では正しい行動がどれだけ人(ロボット、文字 ?)を傷つけているのかを描いている。その描写は、いったんは差別意識や性のタブーなどの点で踏み込んだ表現をとってしまうのかもしれない。しかし、言葉としての正しさ、言葉の合理性にこだわることが、結果的に生身の「人」を傷つけてしまうという現実なのである。

 確かに、今の私たちの暮らしは、言葉の正しさをつなげることによって成立している。言葉をとおしてようやく人と人とは分かり合っているのかもしれない。しかし、人間の「言葉の正しさ」で表現しきれない部分に目をつぶってしまうこと、人は言葉どおりの存在であるという誤解は、言葉だらけの現在をますます住みにくくしてしまうだろう。ひさうちの描いている時として衝撃的な逆説は、言葉になじまないとして目をつぶってきた(ふりをしてきた)ものを、もう一度見つめ直させるのである。まだ、自分が「不幸」であることを自覚するために、言葉の「不幸」にどれだけ適合するかで計ろうとするものはいないであろう。そう期待したい。(4)

 (1) 「ある転落」は、上掲の「夢の贈り物」所収。この作品の続編として、カウンセラーへ相談した両親が「ロボット差別」を受ける中で自分た  ちの子育ての問題に気づくようになる「まぶたの母」(同書所収)、彼らの祖先のエピソードを集めた「山本さんのお子さんの場合」(1980)   「山本さんのおじいさんの場合」(1981)「山本さんのおじいさんの青春」(1981)などがある。(いずれも、「山本さん家の場合に於けるアソコ  の不幸に就いて」・プレイガイドジャーナル社・1982)被差別者を主人公とする物語を描こうとしたためか、「ロボット差別」「ロボットとの混   血」という非常識な設定でわざと描かれている。
 (2) 「アソコの大冒険」(1980/「山本さん家の場合に於けるアソコの不幸に就いて」・プレイガイドジャーナル社・1982)は、14ページの短編。  文字の「アソコ」が街へ出るのだが、その性的なイメージ(?)から女性は悲鳴をあげて逃げだし、駅のホームからも適当な理由をつけて追   い出されたりする。
 (3) 「ヨセフ」(1980/「アポクリファ」・ブロンズ新社・1984)は、文字どおり聖母マリアの夫としてのヨセフを、彼の側から描いたシリアスな中   編。処女懐胎が善意の婚約中の男とっては許せない事件であり、妻を責めたところで「神の子」を冒涜するものだと言い捨てられ、ますま  すヨセフを苦しめてしまう。
 (4) 当時の「あとがき」によれば、中島梓「文学の輪郭」と栗本慎一郎「反文学論」の影響の下に書かれたらしい。むしろ、差別的な表現を    含み差別的解釈を生みかねない「ヒポポタマス」という作品を、どうすれば評価できるのかがテーマであったように思う。ただし、ちょうど   働き出してから書いた文章なので、時間もなくてあまりこなれていない文章だった。

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