「りりこ」が本当にいたというだけでも、十分に傑作だ

                       ――― 映画「ヘルタースケルター」を見る(2012.8.19)


誰もがあこがれる美しさで日本中の雑誌の表紙を飾る人気のモデル・りりこ。
歌手としても女優としても活躍する「りりこ」に、日本中が声援を送る。
しかし、彼女は「もとのまんまのもんは骨と目ん玉と爪と髪と耳とアソコぐらいなもん」という全身整形により生まれたものだ。

恋人や女性マネージャーとの濡れ場さえあるという難しい役を、
今、リアルに演ずることができるとすれば、沢尻エリカ以外にないだろう。
(家人は、原作発表当時のイメージは「神田うの」だという。なるほど。)
それは、「別に」発言などでマスコミをにぎわしたスキャンダルによるのではない。
むしろ、「パッチギ」で清楚な在日コリアン少女になりきった演技力の方にある。

一言でいえば、そこに「りりこ」がいた。
全裸に近いシーンも含めて、その肉体は美しく誰もがあこがれるに足るものだった。
そして、トップスターとしての自信たっぷりな場面も、 肉体的にも精神的にも追い詰められ、混乱し、破綻していく場面も、
虚構であり人造であるはずの「りりこ」が、生身の沢尻エリカによって再現されていた。

沢尻エリカの「りりこが抜けない」発言が本当のことなのか、単なる話題づくり にすぎないのかは別にしても、
そう言ってしまうのも理解できるほどに、リアルなりりこがそこにいた。
もう、沢尻エリカが、この一作を最後に引退しても、構わないとさえ感じた。

また、りりこのストレス発散の対象となるマネージャーに寺島しのぶ。
相手を光らせる難しい役回りだが、「りりこ」のリアリティの何割かは、寺島しのぶの受けの演技による功績だろう。
りりこの後輩で、りりこを追い落とす勢いの、素で美しい新人モデルに水原希子。
ギラギラしたところがないのに、不敵な存在感があるというところが魅力だ。
事務所の社長に桃井かおり、整形外科医に原田美枝子。
パンフレットによれば、原田美枝子は沢尻エリカの楽屋に来て、「桃井さんと私は<元祖りりこズ>だから」と言ったそうだ。

監督は、本当にトップモデルたちを撮り続けている写真家の蜷川実花。
花を多用し、鋭敏だが過剰な色彩に満ちた画面を作ることで知られている。
映画作品は安野モヨコ原作の「さくらん」に続いて2作目だが、
下着姿のAKB48が花やお菓子と戯れる「ヘビーローテーション」のPVも撮っている。

もともと蜷川実花の写真作品は、知っていれば誰でも「蜷川作品」とわかるほどに強い個性をもっており、悪く言えば、くどい。
そんな揺るぎなさを反映してか、この映画もまた揺るぎない美意識で統一されている。

また、蜷川実花の日常でもある、グラビア撮影の現場も多用される。
写真家はモデルから最も美しく最ももてはやされる一瞬を引き出し、
モデルは自らを商品とする一方で、ナルシシズムが傷ついた自分自身を引き受ける。
そんな写真家とモデルの共犯関係のようなものを利用しながら、
蜷川実花は、生身の沢尻エリカから「りりこ」を引き出し、画面に定着させる。

そこで気付くのは、原作の岡崎京子が「りりこ」のことをどこかで作りものの存在として突き放して見ていたのに対し、
蜷川実花は、りりこを実在しているものとして、 むしろ、まるで見慣れたものとして描こうとしているということだ。

実は、りりこの部屋の小物類の多くが蜷川実花の私物であったと紹介されており、
蜷川実花は、自分自身と「りりこ」を、すいぶん近いものとして感じていたようだ。
さらに言えば、窓のない閉鎖空間としてしつらえられた「りりこの部屋」からは、
女性の誰もが自分色に染め上げた自分だけの心の部屋には「りりこ」を飼っているという主張のようにも見えた。

それを象徴するかのように、終盤、戸川純の名曲「蛹化の女」が流れる。
パッヘルベルのカノンに戸川純が詩をつけたもので、傷ついた心が、
誰か(むろん、それは、「自分自身」て゜しかない)によって大切に護られているかように、
どこまでも美しく、どこまでもはかなく、そして、切ない歌だ。

そして、美しくも切ない、また実は厳しくも苦しい物語が終焉しようとした時、 なぜか映画は、無用な後日譚に続いた。
(1)
そこで流される「主題歌」は、映画が綿密に作り上げてきた美意識と は異なり、雑踏の喧騒のような音で画面を支配した。

などというキズを残しつつも、「りりこが本当にいた。」 これだけは事実だ。

そして、その一点だけで、もう、この映画は傑作だ、などと、うっかり言ってしまいたくなるのである。
 



     笑い飛ばす存在だったのかもしれない「りりこ」

                         ―――岡崎京子「ヘルタースケルター」を見る(2012.8.14)

岡崎京子は読めない作家だった。
まだバブルで世の中が沸きかえっていた1990年前後に、都会に暮らす女性の日常をリアルに描いた女性作家として、
大塚英志に見出され、いしかわじゅんに激賞されたことは知っていた。
しかし、モノや情報が極度に集積していたバブル期の大都会というものに、
自分の現実の生活と対比しながら、いささかヘキエキしていた身にとっては、
イマドキの女の子を活写したという物語を、あえて読みたいとは思わなかった。

そんな岡崎京子の問題作「ヘルタースケルター」を家人に借りて読んだのは、
映画を先に見て、この映画の原作なら読まないわけにはいかないと思ったからだ。

やはり、絵にはなじめなかった。
完璧に作り上げられたはずの「りりこ」が、ちっとも美しく見えなかった。
ただ、気分は伝わった。
自信、驚き、不安、焦り、つかの間の喜び、そして、絶望。
乱暴に描かれているようでいて、気分はしっかりとつかまえ表現されていた。

そして、もうひとつ気になったのは、完璧な肉体と不安定な精神を持った「りりこ」という存在を、
岡崎京子が、ずいぶんと突き放しているように見えたことだ。
冒頭に置かれた「最初に一言 笑いと叫びはよく似ている」にしてもそうだ。
あるいは、随時、挿入される取調室の調書を書きぬいたような証言もそうだ。

もとより、「もとのまんまのもんは骨と目ん玉と爪と 髪と耳とアソコぐらいなもん」 などという女性が、
本当には存在することなどありえない。
作中の若い女性たちが過剰に「りりこ」に熱狂していることとはうらはらに、
あるいは、男性識者が過剰に「問題作」として持ち上げたこととはおかまいなしに、
ひょっとすると、岡崎京子は、「りりこ」という存在に強い思い入れなど持たず、
ありえない存在の「りりこ」が、ありえないほどの成功から転落する物語を、
単なる滑稽なおとぎ話として、皆に笑いとばしてほしかったのではないか、そんなことさえ感じるのだ。

もともと「ヘルタースケルター」という言葉が「しっちゃか、めっちゃか」という意味だったことを思えば、
実は、そのほうが「ふさわしい」ようにも思うのだけれど。




 (1) あの後日譚は原作どおりである。ただ、原作を読んでも、事故さえなければ描き続けられたはずの「次の物語」へのつなぎの場面に見えた。
  つまり、わざわざ映画にしなくてもよい場面と見えたし、映画の中でも唐突で違和感のあるラストシーンになったというのが私の見立てだ。
  ただ、「りりこ」が虚構の「りりこ」を脱ぎ捨て、片目を代償に本来の自分を取り戻したという見方もあるようだ。
  そうであるとしても、蜷川版の映画では、芸能界の中で生き続けることに強い価値が見いだされ、どこともわからない異国の地の「りりこ」が
  敗残者に見えてしまったきらいがある。そんなあたりもまた、無用な後日譚に見えた理由でもある。


    映画「ヘルタースケルター」公式サイト      
    Wikipedia「ヘルタースケルター」ページ

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