夜明けには 1
上郷 伊織
◇ ◇ ◇
ピカピカに磨かれた綺麗なシンクの中には、それとは不釣合いな汚れた食器や調理器具が煩雑に放り込まれていた。小奇麗な作りの2LDKのマンションは、その存在すらも都会を彷彿とさせる。
皿の大まかな汚れを流水で落とし、洗剤のついたスポンジで丁寧に洗い出すと、頭を空っぽにしていられるような気がした。
(なんで、俺はここにいるんだろう?)
(ドウシテ、コキュウシテイルンダ?)
些細な疑問が湧き出してくる。
「じゃ、私はもう出掛けるけど、部屋の中の物は勝手に使っていいから。奥のクローゼットとドレッサーは触らないで。1時には帰ってくるから」
今時流行のラメ入りルージュの大きな唇がまくし立てるように言ったかと思うと、玄関に置かれたままだった俺のスニーカーよりも大きなミュールの足音がカツカツと遠ざかる。
1時か・・・・。昨夜、いや、今朝は夜明けに帰ってきたあの人。
顔だけを見ると切れ長の癖に優しい目をした綺麗なお姉さんは、広い肩幅と分厚い胸板、筋肉のクッキリとした手足の持ち主で・・・・じっくり観察すれば判別のつくオカマ。
ココの主は自分の事を「椿」と呼べと言った。儚いその花のイメージと本人とのギャップは図々しい程で、聞き返した俺に椿さんはこう言った。
《花びらを散らすんじゃなく、首からボットリ地面に落ちる花なのよ。 潔いと思わない?》
そんな理由で源氏名って付けるものなんだろうか?
漠然と納得してしまって、椿さんの本名を未だに知らない。
もっとも、昨日からの同居なんだけどさ。
俺みたいな家出少年を拾うだなんて・・・・、椿さんはかなりの物好きだと思う。
学校も家も放り出して、東京に来たまでは良かったけど、実際、全てを放棄した俺には何処にも居場所はなくて、こうして居場所が出来ても何もする事がない。
それが何になるというわけでもないけど、せっかく置いて貰っているんだし、気が紛れるから家事を少し手伝ったりして・・・・・。
大方の食器を洗い終え、ふと、フライパンを持ち上げると、その下に隠れていた包丁が姿を表した。
手を切らないように注意深く刃の部分を磨く。水を流して目の前に翳すと、銀色の綺麗な光が煌いた。
ヌラヌラとした輝きが誘っているような気がした。
指でなぞるとチリッとした痛みが走り、赤い筋が指先に滲む。
これは肉を切る道具。
人間の身体も肉に変わりはないんだよな・・・・・・・。
真夜中にならないとあの人は帰って来ない。
もう、俺の周囲には誰もいない。
俺一人いなくなったって、誰も何も感じない。
そう、アイツでさえ、もう、俺の事なんてどうでもいいと思ってる。
俺はただの道具だったんだから・・・・。
気付かなかった俺がバカなだけだったんだ。
もう帰れない。
もう誰も俺を振り返っちゃくれない。
母さんだって、姉ちゃんだって、父さんだって・・・、みんな、俺の為に嫌な思いをしたんだ。
目を背けようとしてた痛い現実。
アイツが好きだったから、アイツが俺の事想っててくれるなら、他の事なんてどうでもよかった。
誰に軽蔑されたって前のようにアイツと一緒にいられるなら、俺は他の誰もいらなかった。
でも・・・・・・、いらなかったのは、俺。
アイツにとって、ホンの少し便利だから傍に置かれていたのは、俺。
邪魔になったらすぐに捨てられる存在だったのは、俺。
もう随分経つのに、空っぽな筈の身体は涙を流す。
輝くシンクに涙の粒がいくつも零れた。
その度かすかな金属音がして、妙に間抜けなその音が滑稽。
「あっ・・はっ、はははっ・・・・・・・・」
乾いた笑いが喉から漏れる。
俺がどんな風に考えようと、人の思考や心なんて変えられないのに・・・・・。
いつまでもこんな気持ちを引き摺ってても仕方がないのに・・・・・・。
こんな事なら傍で見ているだけにすれば良かった。
好き、なんて言葉、口に出さなきゃ良かった。
そしたら俺は今もアイツの近くで偽りの笑顔を作り続け、あの、太陽のような曇りのない笑顔を見ていられたんだ。
なのに、なのに・・・・。
もう、取り返しが尽かないほど、アイツは遠くなってしまった。
つづく