2000.12.13up

ブレイク・タイム 1

上郷  伊織

◇◇◇◇◇

───  だから、僕には向かないって言ったのに

 北へ車を走らせながら、笠原かさはらしのぶは行き所のない怒りや、自分に対するやるせなさ、くやしさ、力及ばぬ自分の悲しさ、綯い交ぜになった感情の矛先をどこへもやれずに、心の中に溜め込んでいた。
 八月初めの穏やかな昼下がり。
 僅かに開けた車窓からは、道路の騒音が聞こえてくる。
 騒音に時折混じる蝉の声が自分を責め立てている。
 いつもは自分を優しく包み込む何気ない自然ですら、今の忍にはそんな風にしか感じられなかった。
 
『見込みユーザーも無い、今日のアポイントも取れていない、それで外に出ても期待できんね。
 笠原君、君はうちの仕事を嘗めとるのかね?
 見込みが取れないなら、朝一で電話をかけまくれと言ったろう。相手にされないなら、相手にされるように考えろとも・・・・・。毎日毎日外に出て、それで数字が上がらないのはどうしてだろうな? 考えてみたことがあるか?
 毎日何時間昼寝をすれば気が済む。さぼって昼寝ばかりしてるんだろう?
 何だ! その顔は! 理由があるなら言ってみたらどうだ。私に納得出来る理由をだ!
 君は都合が悪くなるとだんまりだな。
 まさかとは思うが、出社して、大人しくしてさえいれば、先輩方の上げた売上で食わせて貰える、とは思っていないだろうな? 工学部卒が何ほどのもんかは知らんが、箸にも棒にも引っかからんとは、まさに君の事だな』
 
 頭の中を駆け巡るのは、自分に罵倒を浴びせた人の声。

 忘れられない、はなから見くびった甲高い嘲笑。

── 違う! 僕はさぼってなんかいない。
──・・・ちがう、・・・・違う、違う!

 一人きりの車内で忍は叫び出したかった。だが、感情の高ぶった喉は声を発する事すら出来ない。
 今日に始まった事ではない。
 この二ヶ月、少しずつ少しずつため込んだモノが、出口を求めて忍の体中を暴れ回っていた。
 既に、感情はコントロールを失い、黒目がちな大きな瞳からは幾粒もの涙がひっきりなく零れていく。
 時刻は午後十二時五分。
 営業成績の良い社員ならば、要領よく朝の得意先回りを終えて、ゆっくりと昼食を摂っている時間である。
 だが、車窓から見える飲食店には目もくれず、流れる涙を拭う事もなく、笠原忍はアクセルを踏み込んだ。

 忍は大学を卒業してすぐに入社した会社に、コンピュータの営業として四ヶ月勤めている。
 この職は忍が望んだものとはかなりかけ離れた所にあった。何故なら忍は工学部卒で、どちらかと言えば開発畑を目指した、一般的に言うならば「オタク君」なのだ。人間と話をするよりも、機械に向かって一日を過ごす事の方が、忍にとっては気楽な事だった。
 忍は自分が社交的とは夢にも思わない。
 だから、就職戦線もあらゆる難関を通り抜け、現在の会社で、技術開発部を希望していたし、試験にも受かったのだ。それなのに、新人研修を終えて、配属されたのは、なんと、百戦錬磨の強者ばかりが居並ぶ営業一課。
 気が付けば、皆が皆とは言わないが、それこそ、口から生まれてきたような人種の坩堝に放り込まれていた。しかも、その殆どは体育会系の根性論を振りかざす輩である。
 二ヶ月間の新人研修のすぐ後、一ヶ月間の同行研修と称して先輩社員と共に営業の仕事をやった。その同行研修の初めの一週間の段階で、忍は支店長に移動願いを提出した。
 そんなふざけた願いがかなえられる訳もなく、今もこうして忍は営業を続けている。
 だが、その最初の行動が支店長に不評をかってしまった。
 忍はやる気のない社員ではない。自分に知識が足りないと思えば、業界新聞や専門誌を読みあさり、毎日勉強しているし、上司からローラー作戦(壁にペンキをローラーで塗るように、自分の担当地域を隈無く回り、見込み客を一件でも増やす事)を実施するように言われれば、毎日地域地図に印をつけながら血眼になって一件一件を尋ねて回っている。
 それなのに、最初の印象で要らぬ先入観を持たれてしまったばかりに、支社に配属されて二ヶ月が経った今でも忍は上司に信頼して貰えず、朝礼や会議の席上、事ある毎に名指しで叱責を受けていた。最初の頃は言えた反論も、数字という目に見える結果を出せない状態を指摘され続けている内に、忍の口からは言えなくなっていった。
 今日の事でも支店社員全員が見ている朝礼の場で、前にわざわざ出るように呼びつけられ、見せしめのように叱責された。今月の売上がゼロの社員は忍だけではなかったにも関わらずである。
 例えようのない屈辱を忍はその時感じていた。
 だが、やはり、その場で言い返す事が出来る程の実績が自分にない事も、忍は十分に知っていた。
 言い返せるだけの実力が欲しかった。
 学生時代の忍は成績も良く、そんな風に衆人環視の前で恥をかかされる事など一度としてなかった。それだけに今の状況は、辛いモノだった。見た目には頼りなげで大人しい印象しかない忍も、もともとは人一倍プライドが高く、何をしても人より上にいたのだ。人と比べて欠けているのは積極性位のモノだった。
 今の自分を客観的に考えると、あまりにも情けなく惨めな存在だった。
 本当に支店長の言う通り、自分は何の価値もない、結局、社会では何の役にも立たない人間かもしれない、と思う事もある。
 虫けらのようにちっぽけな存在なのかもしれないと。
 そう考えると、悲しいやら、悔しいやらで、涙腺は故障してしまったかのように悲痛な雫を流し続ける。
 だが、会社に籍を置いている限りは、月給泥棒と呼ばれたくはない。会社に籍を置いている間は、自分なりに最善を尽くす事が、忍にとっては最後の意地だった。
 今日も売上そのものには直接結び付きはしないが、忍の事を頼りにして、コンピュータの指導を待っているお客様の所へ行かねばならない。コンピュータを以前に購入して頂いたお客様の所へアフターサービスで訪問する事も忍の大切な仕事の一つなのだ。たとえ前任者の上げた売り上げだったとしても。
 今いる場所から約束の所まで約二十分。
 急がなければいけない。
 昼食を取っている余裕はない。
そう思っても涙は止まってくれなかった。
 視界はぼやけ、道路の中央車線すら何本かにだぶって見えだしていた。ふと、自分の前を走る車が止まった事に気付き、忍は慌てて急ブレーキをふんだ。タイヤの軋む音が辺りに響く。寸での所で忍の車は止まった。
「あ、危なかった・・・・・」
 こんな事で事故を起こしてしまったら、営業どころでは無くなってしまう。もし、相手に怪我が無くとも、相手の車に軽い傷でも付けようものなら、半日という貴重な時間を取られてしまう。平静を取り戻さなければあまりにも危険である。
 一日中事務所で電話をかけていろ、と言う支店長を説得して、やっと外に出して貰えたのだ。約束の一件を回った後、出来るだけ多くの会社に立ち寄って、少しでも売上を上げられるよう頑張らなくてはいけないと、午前中のムダを取り戻したい、とも忍は思っている。
 だが、手の甲で涙を拭っても拭っても、高ぶった気持ちは一向に収まってくれそうもなかった。
 仕方なく、ハンカチを片手に運転を続け、駐車車両の少ない、道幅に余裕のある道路脇を見付けて忍は車を停車させた。
 あと五分だけ、そう自分に言い聞かせ、忍はハンドルに顔を伏せ、声を殺して泣いた。痛々しい位、小刻みに細い肩が震えていた。色素の薄い茶色がかった髪がクーラーの風に煽られ、サラサラと揺れる。車外から見れば、どこかの営業が休憩を取っているぐらいにしか見えない姿で忍は泣いた。

 思えば、今日は朝からついていなかった。
 折角、いつもよりも二時間も早めに起床し、めぼしい会社をリストアップし、自宅で七時から三十分程、電話を使って商品アピールをした。だが、結果は思わしくなかった。そして、会社へと向かった。朝礼までに再び電話をするつもりだった。いつもよりも三十分以上前に着くはずが、交通渋滞に阻まれ、いつもと同じ時間の出勤になってしまい、掃除を終えて、今日の営業予定を日報に書き込み、朝礼に出席した。
 月の十日。売上の締め日まであと十日と迫った、大事な区切りの日である。システム課の場合は注文を頂いた時点から納品まで、長ければ一週間、最短で三日間を要する。
 なぜなら、パソコン本体のバージョンアップが激しく、メーカーにもよるのだが、早いところで三ヶ月、遅いところでも六ヶ月のサイクルで新機種が発表されてしまう。だから、仕入れは注文が入ってから行う仕組みになっているのだ。前もって仕入れを行った場合、在庫として支店に置いていると、このバージョンアップのタイミング次第で商品がたったの何日か違いでも旧機種扱い、つまり、不良在庫になってしまうからである。
 そして、売上の数字は納品が終わった時点で本社に報告される。契約書や納品書にサインや印鑑を頂いても、その時点では安心出来ないのだ。その気になればお客様は契約破棄だって出来る。だから、機械を納品し、お客様の御指定場所にセッティングした上で、受領書に印鑑を頂くまで、営業は安心出来ない。確実にその月に売上の数字を計上するつもりならば、正念場は十日から十五日。この五日間が勝負である。当然、支店長から各営業に向けて檄が飛ぶ可能性の高い日だった。
 忍もそれぐらいは予想していた。
 だから、今日の早起きは、そういう面でも自分に気合いを入れる意味合いが含まれていたのだ。隙を見せず、今日こそは一度も叱責されぬように、と意気込んでいた。
 忍の予定では、自宅からの電話で一つでもどこかの会社経営者と約束を取付け、まずは自分の会社について、商品についての話を聞いて貰うつもりだった。そして、話がうまく進んだ場合には詳細説明と称して会社訪問をし、売り上げに繋がる見込み客を増やしたかった。
 いつも朝礼は八時半から始まり、終わる時間は支店長の話の長さで決まるのだが、だいたい九時になる。
 忍の勤めている会社は主に建築・建設関係を相手にしているのだが、この業界では朝が早い。週に何度電話しても捕まらない経営者は、その時間には既に出掛けてしまっているのである。七時という時間も、相手に失礼にならないよう設定した時間だ。だが、今日は収穫がなかった。
 その上、朝から支店長の毒牙にかかり、朝礼後もお説教や、かつて支店長が一流営業マンだった頃の自慢などの入り混じった話を延々と聞かされ、気が付けば十時を回っていた。
 十時を回ってから各社に電話しても、個人会社の奥様か、もう少し規模の大きな会社でも事務員さんが電話口に出るだけである。大抵の場合、彼女達には決裁権はない。経営者、もしくはそれと同様の権限を持った者でなければ忍の商談は成り立たないのだ。
 結局、今日の忍の午前中は無駄に終わってしまった。
 支店長の話は抽象的で、実際にどう動くと良いのか、というアドバイスはない。だから、ついつい悪いとは思いつつも、忍は支店長と話したいと思った事がない。
 そんな人が今日の仕事の妨げになったと思うと、余計にくやしさはこみ上げる。

 どの位そこに停車していただろうか?

 車外の騒音に混じって、コンコンと何かを叩く音がした。
 それが、自分の車のウィンドウを叩く音だと気付いて、忍が顔を上げると、そこには見慣れぬ作業服の男がいた。
 忍は慌ててウィンドウを開ける。
「すいませんが、車を移動して貰えないでしょうか?」
 男はそう言った。
 忍はグスッと鼻を鳴らし、怪訝な瞳を男に向けた。
「お取り込み中のようですが、ここはちょうど運搬トラックの通り道になっていまして・・・・・」
 男の作業着の胸ポケットには、「六甲建設」とオレンジ色の刺繍が施されていた。
 忍は辺りを見回し、今いる自分の位置がちょうど工事中のビルの入り口付近だった事を知った。どうりで、この車の多い駅周辺で、この一角だけ駐車車両が少なかった筈である。
「・・・・あ、・・・あの、すいません。すぐっ、今すぐどけます」
 知らず知らずの内に他人に迷惑を掛けていた事を悟り、忍は後ろめたさと共に、焦りを感じた。
 それに、見知らぬ他人でも泣き顔を見られたくはない。
 忍は服の袖で涙を拭い、発車しようとハンドブレーキを降ろした。
「・・・・・あ、君、ちょっと待って下さい」
 男はそう言って、ズボンのポケットから小さな紙袋を忍に差し出した。
 男の態度に戸惑いながらも、忍はその紙袋に手を伸ばす。
「・・・貰い物ですが・・たぶん、少しは落ち着くと思います」
 そんな言葉を残して、男は忍の車から離れた。
 小さく会釈だけを男に返し、忍はそそくさと車を発車させた。自分が泣き顔を見られた恥ずかしさもあって、その場を早く去りたかったのだ。

「・・・・・みっともない」
 車内とはいえ、天下の公道で泣いてしまった事を忍は後悔していた。
 それから何分くらい経っただろうか。
 涙は収まったものの、しゃっくりは止まっていなかった。
 一回目の信号待ちで、ふと、助手席に置きっぱなしにしていた紙袋を開けた。中にはかわいらしいキャラクターの小袋に包まれた飴が入っていた。忍はその一個を口に含んだ。飴の甘さが妙に優しかった。空っぽの胃にまで染みわたるような気さえしてくる。
 じっくりと観察する暇はなかったが、落ち着いた物腰や印象と飴玉がアンバランスで、思い出すと笑みが零れる。
 とにかく、感謝しなければいけない。
 日を改めてお礼に行かなくては・・・・、忍は心からお礼を言いたい気分だった。
 一個の飴玉が、忍の悲壮な気分に水を差してしまった。
「・・あ、・・・名前・・・・・・・」
 顔も殆ど見ていなかった上に、彼の名前すら聞いていなかった事を思い出し、忍は自分の間抜けさに、また微笑んだ。
 男の作業着に刺繍された「六甲建設」という名の会社は忍の担当地区内にあり、忍も何度か足を運んだ事がある。
 営業訪問していれば、また会えるだろう。その時にお礼を言えばいい。

 一人、そんな風に納得して忍は先を急いだ。

                         つづく

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コメント

かなりのマジもの。
これを読んでも私を嫌わないでね。(涙)