2000.07.12up

窓の開くとき (後編)

上郷  伊織

刀@刀@


 夜の帳の下、裸電球だけが地面を照らしていた。
 山積みにされたビール瓶の箱や、ごみ箱からはみ出した生ゴミが散乱しているのが当たり前の場所。
 そして、アスファルトに染み込んだ大小様々な無数のシミが、今の自分そのもののような気さえしてくる。
 風俗店ばかりが連なる通りの少し入り組んだ路地裏に僕は立ちつくしていた。
 今の僕は最低だ。
 僕の目の前から、かなめが消えた。
 要の居所を快く教えてくれる、と思っていためぐみさんという女性の姿も・・・・、もう、目の前にはない。

 ・・・・・・ あんた、要に何言ったのよ ・・・・・・・・・・・

 そう、凄んで尋ねためぐみさんに何も答える事が出来なかった。
 要に怯えて悲鳴をあげた。
 ただ、それだけの事を・・・・・・。
 以前、めぐみさんとは一度しか会った事はなかったけれど、その時暖かく僕を包んだ微笑みは、そこにはなかった。在るのは憎しみのこもった鋭い眼差しと、険を含んで投げつけられた言葉だけ。
 そこには、僕の知らないめぐみさんがいた。
 彼女への怯えが無かったと言えば嘘になる。
 僕の十五年の短い人生の中で、人から陰口を叩かれる事はあっても、面と向かって敵意をぶつけられた事はない。
 そういう時、どうすればいいのかも、僕には分からない。
 まして、今の僕は自分が正しいのかどうかすら判断出来ない。誰か教えてくれる人がいるなら、きっと藁にもすがる気持ちで聞くだろう。いや、問題が問題なだけに、人に聞くことは出来ない。
 だからこそ、言えなかった。
 要の事で怒っているめぐみさんには、言えなかった。
 めぐみさんは僕よりもずっと以前から要の気持ちを知っていた人だから、事の深刻さに気付いてしまう。
 要にとって僕がどんなにひどい態度をとったのかという事に・・・・・・。
 この期に及んでも僕はめぐみさんに軽蔑されるのが恐かった。ちっぽけな僕のプライドのために、要に会う機会を失ったのだ。
 何も答えることの出来ない僕を一睨みして、めぐみさんは表通りに出ていった。
 僕は呆然と見送る事しか出来なかった。
「・・・帰ろう・・・・」
 背中をポンと叩かれて、肩が震える。
 すっかり自分の事ばかりに気を取られていた。
 今日一日僕に付き合ってくれたひじりさんは、困ったように僕を見つめていた。
 ああ、この人にも心配させちゃったんだ。
 そう思うと、申し訳がなかった。
「ごめんなさい・・・・折角、付き合ってもらっ・・・たっ・・・・・」
 聖さんに謝罪の言葉を言おうとして、でも、思いがけずそこにやさしい瞳があって・・・・・。
 言葉が続かない。
 本当はちゃんと謝って、お礼も言って、笑って別れなきゃいけないのに・・・・・・・。
 聖さんの顔を見ただけで、少しだけホッとした。
 途端に、ボロボロと涙が零れていく。
 人前で泣くなんて恥ずかしいまねはすぐにでも終わらせたいのに、涙は止まってくれなかった。
 要以外の人の前でこんな事になったのは初めてで、それでも、自分じゃどうにもコントロールが効かない。
 一人なら意地でも自分の家に着くまで我慢するのに・・・。
 自分で自分をすっかり持て余している僕を気遣ってなのか、僕の肩に腕を回し、聖さんはその場から連れ出してくれた。
 結局、その日は聖さんの家に泊めてもらうことになった。

 

刀@刀@


 聖さんの家は、オートロック式のいかにも高級そうなマンションだった。めぐみさんの態度と、要に会えなかったという事がショックで、なんとなく聖さんに付いてきたのを僕は後悔した。
 あまりにも僕自身が場違いな気がして・・・・。
 だが、その室内は「閑散とした」と表現するのが一番相応しい。およそ人が生活しているとは思えない、無駄な物が何もない家だった。
 最初に案内された部屋も、僕達の年頃なら、雑誌や新聞・ゲームソフト等が転がっていても不思議じゃないのに、そこにあるのは、本棚とベッドと机に椅子、ただ、それだけ。まるで、生活感が無い。いつも、シニカルなジョークを飛ばしながら賑やかな集団の中心で明るく笑っている。 そんな印象の人だったから、とても以外だった。
 玄関を入って廊下を突き当たった部屋に通されるまで、人の気配は無かった。もしかして、こんな閑散とした部屋にいつも帰ってくるのだろうか?
 僕の家ではいつでも帰宅すると、賑やかな母が迎えてくれる。だから、当たり前のように真っ暗な部屋に自分で明かりを灯す、そんな聖さんが僕の目には淋しく映った。
 僕が学校で見る限りではいつも大勢の中で、光り輝いているから。友人も大勢いるようだし・・・・。
 僕には、友人と呼べる者は一人しかいない。
 それも、今となっては失ってしまったのかもしれないけれど・・・・・・・・・。
 会えなきゃ、話も出来ない。
 誤解も解けない。
 そんな事を考えると、また、涙がこみ上げてきた。
 さっき、散々泣いて、聖さんを困らせてしまったのに、これ以上迷惑をかけちゃいけない。そう思っていた時、ドアが開いた。泣きそうな顔を見られたくなくて、俯いていると、目の前のテーブルに何かが置かれる音がした。
「オーレ入れてみたけど、飲める?」
 そう言って、聖さんは僕の隣に腰掛けた。
 僕がこんな風になった訳も聞かず、聖さんはカフェオレを飲みながら何やら英単語や数式が沢山並んだ本を読み始めた。
 僕がじっと覗き込んでいると、顔を上げて、「コンピュータの解説書」と教えてくれた。
 僕は何をするでもなく、出されたカフェオレを一口啜る。 それは予想に反して、柔らかな口当たりで香りも良く、上品な味がした。いつも家で飲むものとは各段の違いがあった。
「旨いだろ」
 いつの間に僕の表情を読み取ったのか、聖さんは自慢げに人差し指で鼻を擦った。
 そんな聖さんが微笑ましく思えて、僕はコクリと頷いた。 すると、聖さんは大きな瞳をよりいっそう大きく見開いて僕をジッと見つめている。
「あの・・、どうしたんですか?」
 不思議だったので、僕はそう聞いた。
「・・・いや、紫月が俺を見て初めて笑ったから・・・・。可愛いな、と思って・・・・・・」
「な、何をいきなり・・・・!・・!」
 か、可愛いなんて! 男の僕に向かって可愛いなんて・・・そんな言葉を聞いて僕は正直焦った。それに、失礼なんだけど、この人がこういう事を言うと、なんだか怪しく思えてくる。
 また、何か企んでいるんじゃないだろうな・・・・。
 疑うのは悪いんだけど、いつも、何をしでかしてくれるか分からない人だし・・・・・・・。
「・・・・なんか勘違いしてるだろ。いや、只さ、あんな顔見ると、早藤が夢中になるのも分かるかなって、そう思っただけ」
 なんで、ここで要の話が出て来るんだろう?
 それに、前々から気になってた事だけど、どうしてこの人は要の事を良く知っているんだろう?
「・・あの、・・・・聖さんはどうして要と知り合いなんですか?」
「・・は・・?・・」
 唐突な質問に聖さんは驚いていた。
 だって、どう考えても聖さんと要では学年も違うし、あまりにも関連性が無いように思える。
「いや、あの、前から気になっていたものですから・・・・」
 すると、意味深な笑みを浮かべて聖さんは話し始めた。
「5月だったかな、バイトに行く途中でさ、喧嘩してたの、4対1で、それも殆ど一撃で倒しちゃって、すごい奴だなと思ってよく見たら、いつも紫月にひっついてる奴だった。それで、俺の方から声を掛けたのがきっかけかな」
 喧嘩・・要が?
 僕は喧嘩する要なんて知らない。
 僕といる時に今の要は人に手を上げたりしない。
「んっ、何?」
 小首を傾げている僕を見て、聖さんは一旦言葉を切った。
 こうして考えてみると、僕は要の事を殆ど知らないのかもしれない。
「・・・いえ、・・・・ちょっと以外だったんで・・・・。それで、喧嘩の理由は?」 
「ああ、相手はあの辺でもよく見かけるチンピラで、早藤の時も擦れ違いざまに肩が触れただけで医療費を請求されたんだって。それを断ったら殴りかかってきた。つまり、売られた喧嘩を買っただけだったんだ」
「そうですか・・・・」
 でも、聖さんが嘘を吐いているように見えないから、僕の知っている要も、聖さんの知っている要もどちらも本当なのかもしれない。
 あの日の要は乱暴で、とても怖かった。
 要がまた遠くなってしまったような気がする。
 そう考えると、背筋にゾクッという感覚が走った。
「かなり場慣れしてる風だったけどね」
 そこまで話すと、聖さんは煙草に火を点けた。
じっと聖さんを見ている僕に気付くと、僕にも一本差し出した。僕がそれを口に銜えると、絶妙のタイミングでライターが目の前に飛び込んでくる。
 煙草なんて普段は吸わない。
 ただ、こんな時はいい精神安定剤なんだ。
 実を言うと、学校用に僕も一箱だけ持ち歩いている。
 何気なく、煙を吸い込んで、貰った煙草のきつさに噎せかえった。
笑いながら、聖さんが灰皿を差し出す。
「いつも、こんなにきついのを吸ってるんですか?」
 煙草に噎せたことが恥ずかしい。
 まるで、不慣れなクセに見栄を張っているように聖さんは思ったかもしれない。
 でも、まさかこんなのを聖さんが吸うなんて、イメージが違いすぎる。
「・・いや、・・・・・・」
 聖さんは僕の煙草を取り上げて、もみ消し、机の上から違う銘柄の煙草を持ってきた。
「これなら、吸えそう?」
 馬鹿にされている感じはないけれど、聖さんは人の悪い笑みを浮かべて、また、煙草を勧める。
 まだ、喉が痛むけど、これを吸わないと、今度こそ本当に馬鹿にされそうな気がして、差し出された物をさっさと銜えた。
 二本目は、いつも僕が吸っている物とさほど変わりがなかった。
 どうして、こんなに違う煙草を二種類も置いているんだろう?
 また一つ、聖さんの謎が増えてしまった。
 この人には謎が沢山ある。
 噂によると、聖さんの家は大きな会社を経営していて、僕の通う修栄学院高等学校に通う生徒の中でも一番大きな額面の寄付をしているという。それなのに、この人は高級ではあるけれど、こんな淋しい家に住んでいる。どうして家族の人とかが出て来ないんだろう?
 生粋のおぼっちゃまの筈が、夜の街でアルバイトをしている。しかもアルバイト先の主とは対等に話をするし・・。
 学校でも人の隠し撮りの写真を販売したり・・・・・。
 行動だけを見ていると、お金に困っているとしか思えないのだ。
 でも、物腰とかにガツガツしたものは感じさせず、むしろ『優雅』とさえ言える仕草を時々見せる。
 今も、聖さんは絨毯の上に直接座り、ベッドに凭れ掛かっている。そして、天井を仰いで煙の行方を追っている。煙草を吸う事自体、下品だと言う人はいるけれど、今の聖さんは、ちょっと切ない、でも、甘い空気を孕んだ表情をしている。
 そんな聖さんが、僕にはフレスコ画の天使のように見える。黙っていればこんなに綺麗な人だったんだ。
 僕は、自分の置かれている状況もすっかり忘れて、聖さんに見惚れていた。
 やがて、儚くさえ見えた瞳がいつもの不敵な光を帯びて僕に向けられる。植物から野生動物へ、印象そのものが変わっていく。その変貌すらも、僕の目を釘付けにする。
「・・・・しづき・・・?・・・・」
 僕の瞳に映る聖さんの表情が怪訝なものにまた変化した。さっきの聖さんが消えてしまったのを惜しみながらも、僕は慌てた。
「・・・・・いえ、・・・な・・何でもないです・・・・・」
 まさか、あなたに見惚れてましたなんて言えるわけない。
「なんか、ボーッとしてたぞ。疲れてるなら寝ろよ」
 僕の態度を聖さんは勘違いしてくれたようだ。
 ホッとして、本棚の上の置き時計に目をやれば、成る程、午前一時を回っていた。
 もっと、聖さんには聞きたいことがあったけど、聖さんのお兄さんの物だというパジャマをお借りして、お風呂に入ることにした。

刀@刀@

 暖かいお湯に浸かって身体を洗うと、重かった気分が心なしか軽くなっていく気がした。
 いつもよりもかなりゆっくり時間を掛けて、僕は入浴を終えた。たぶん、四十分位掛かっただろうか。
 聖さんがお風呂を使ったら、また僕が知らない要の事を話して貰おう。
 浴室から脱衣所、廊下へと移動する間、そんな事を考えていた。
 廊下に出て、どうも様子がおかしいと僕は思った。
 何故、そう思うのか自分でも解らず、バスルームのドアの前から辺りを見回した。
 すると、右手の玄関にベージュのロングコートが掛けてあった。その下にはアタッシュケースが一つ。これらは僕が部屋に入った時にはなかった筈だ。
 この家の人が帰ってきたのだろうか?
 さっき聖さんが言っていたお兄さんかもしれない。
 僕は急いで聖さんの待つ部屋に向かった。
 今日は泊めて頂くのだから、お兄さんにもあいさつしておかなくちゃ。でも、もう寝てしまったかもしれない。
「・・・・・やめっ・・・、放せったら、はなせっ・・・・・・」
 ドアの前まで来ると、叫び声が聞こえた。
 改めて耳を澄ますと中で争っているような物音も聞こえている。
 そして、今度は苦しそうな息づかいに混じって、途切れ途切れの声も・・・・・・。つなぎ合わせた言葉は・・・ イ・ヤ ・・・と告げていた。低くて聞き取りにくかったけど、間違いなく聖さんの声だった。
 中で聖さんが乱暴されている?
 お兄さんじゃない?
 何とか助けなきゃ。
 兄弟喧嘩かもしれない。
 でも、止めなくちゃ。
 そう思うんだけど、足がガクガクに震えていた。
 よくよく考えてみると僕は取っ組み合いの喧嘩もしたことがないし、喧嘩の仲裁なんてした事がない。
 だいたい喧嘩と聞くだけで怖いのだ。
 もちろん腕にも自信はない。
 巻き込まれたら、それこそ真っ先にやられるのは僕だろう。
 そうなると、何かハンデを貰わないと・・・・・・。
 見渡す限り廊下には武器になりそうな物はない。
 しばらく考えて、脱衣所にあった掃除用の小型デッキブラシが頭に浮かんだ。
 僕が色々考えている内にも、中から聞こえてくる聖さんの声は追いつめられたものになっていた。
 勇気を出すんだ。
 勇気を出して聖さんを助けるんだ紫月!
 自分で自分を励ました。
 そうする事で、震えが少しづつ止まっていくような気がする。
 急いで脱衣所からデッキブラシを持って、部屋の前に戻った。
 声にはなっていないけれど、相変わらず、苦しそうな先程よりも激しい息づかいが聞こえてくる。
 中でどんなことになっているのかは解らないけれど、聖さんの姿を頭に思い浮かべ、痛ましくさえ思えた。
 だって、彼は僕とあまり変わりのない体格で、どう考えても体力とか、格闘という言葉とは無縁の存在なのに・・・・。
 そんな人に手を上げるとは、なんて、ひどい兄さんなんだ。
 深く深呼吸をして、僕は中に入るタイミングを図る。
 ドアノブに手を掛け、さあ、今だ、と思った瞬間。

── 遼一! ─────────────── 

 一際大きな叫びが聞こえた。

 そして、僕が力を入れた訳でもないのに、ドアが開いた。
 その事に驚いて、僕はドアの横に逃げた。
 中から出てきた人物は、聖さんとは似ても似つかない、精悍な感じの人だった。
 僕は呆気にとられて、『リョウイチ』と聖さんに呼ばれた人物を見つめていた。彼はチャコールグレーの三つ揃いを堂々と着こなし、髪を後ろに撫で付けている。整い過ぎる程の身だしなみはどう見ても、先程まで人と争っていた風には見えない。歳はどう下に見ても二十五歳は過ぎているだろうか? 聖さんのお兄さんにしては、年上過ぎる。かといって、お父さんでは若すぎて・・・・・・・、もう何が何だかわからない。僕の頭はパニック寸前だった。
 彼もドアの側にいる僕に気付いた。
 一瞬、僕に驚いたように片眉をあげ、口の端に笑みを浮かべると、すぐに何も無かったかのように、玄関に向かって歩き出した。
「畜生! 自分だけすっきりしたら、帰るって言うのかよ!」
 いつの間に近付いてきたのか、聖さんがドアに寄りかかるように立っていた。
 聖さんが叫んだというのに彼は振り返らない。
「覚えてろよ! 人の・・・人の身体を・・・、こんな中途半端にしやがって!」
 言葉と同時に玄関に向かって枕が飛んだ。
 シーツで躯の半分は隠れていたけれど、僕が目にした聖さんは殆ど裸に近かった。その姿に愕然とした。
 あの物音が、もし、喧嘩じゃなかったとすると・・・・・、僕の頭の中には答えが一つしか思い浮かばない。でも、そんなこと信じたくない。
 玄関を真っ直ぐ見つめる聖さんは僕に少しも気付かないようだ。
 聖さんから目を背け、玄関を見た。
 玄関のドアを半分開いた彼は、やっとこちらを振り返る。「続きが欲しければ、家に帰って来い」
 この人は一体何を言っているんだろう。
 僕にはこの二人の会話が理解できない。
「誰が! あんた・・なんかに・・・・・あんたなんかに抱かれる為に帰るもんか!」
 聖さんの発した言葉が僕の頭をグルグル回る。
 でも、この二人は男同士で・・・・、しかも、歳も離れてて・・・・・・。いや、確かに男同士でも出来るんだけど・・・・。
 聖さんがそう・・・だなんて、信じたくなかった。
 ・・・・と、すると、僕はとんでもない場面に出くわしてしまったんだ。
 僕の身体から、血が引いていく音がした。
 それと共に、僕の力が抜けていく。
 僕はデッキブラシを伝って廊下にへたりこんだ。
 金属製のドアが閉まる音が響く。
 それと同時に『リョウイチ』という人物が去った事を知る。
 そして、この間の夜が僕の頭を一瞬過ぎった。
 嫌がる聖さんとあの時の僕が見事に重なっていく。
 僕の腕はカタカタと震えだし、手に持っているデッキブラシが壁に当たって音を立てる。
「・・・し・・づき・・・・・・・・・・」
 そう呼ばれて、振り返った。
 聖さんと視線がぶつかる。
 彼はすぐに僕から顔を背けて、首から下をシーツで覆った。
 その横顔は少し赤らんでいる。
 僕は何か慰めの言葉を探すけれど、何も見つからなくて、ただ彼を見つめる事しか出来ない。
「変なとこ見られちゃったな・・・・・」
 沈黙の後、最初に口を開いたのは、聖さんだった。
「大丈夫ですか?」
 そう言って差し出した僕の手に、聖さんは過剰に反応して身を反らせた。
「・・・悪い・・・・。俺、今・・・ちょっと・・・・・・おかしいから・・・・・」
 そう言って、驚いている僕にいいわけをする。
 普段の聖さんからは、考えられない程その時の聖さんは気弱に見えた。
 いつも一つに纏めている背中まで届く髪はほどかれ、乱れていた。その姿がより聖さんのか細さを強調している。
 あの『リョウイチ』という人のせいなんだ。
「あの、さっきの人は・・?・・・・・」
 今聞くべき事じゃないかもしれない。
 でも、聖さんをこんな風にした彼が許せないと思う。
「・・遼一・・・の事・・・?・・・」
 僕が頷くと聖さんは少し屈んで耳打ちした。

────  俺の恋人─── と。

 そう言うなり、さっさと部屋に引っ込んで、また着替えを持って聖さんは出てきた。
「こっちの部屋、使いもんになんないから・・・、隣の部屋で寝てていいよ。・・・・・シャワー浴びてくる」
 早口でまくしたて、よろけて歩いて行く彼の耳の後ろが真っ赤に見えたのは、気のせいではないだろう。
 どうして恋人なのに、乱暴なことをするのかな?
 聖さんも彼が去った後はちっとも怒ってなかったし・・・。
 残された僕はまた一つ大きな疑問を抱えた。
 考えても解らないから、僕は先に休ませて貰うことにした。 

刀@刀@

 小さな要が膝を抱えて泣いている。
 
 ああ、これはあの時の情景だ。確か僕と要が4歳位の時の・・・・・・。
 ベランダに向かい、僕に背を向けて、声を殺して泣いている。
 あの頃の僕と同じ、小さな小さな子供の要が・・・・、なんて切なく泣くんだろう。
「泣いてるの?」
 夜中に目が覚めて、横に寝ている筈の要がいなかった。
 窓際の隅っこに小さくなって隠れるように泣いていた。
 僕が尋ねても、なかなか理由を言い出さなくて、でも、僕はその理由を知っていた。

 確か、あの日は初めて要が人を殴った日。

 その日、僕達の通っていた幼稚園で父兄参観が行われた。
 僕の父も、要の父親も二人とも忙しくて来てくれなかった。だけど、僕には代わりに母が来てくれていた。
 要の所は、お父さんが来れなければ、誰も来ない。
 要は何度も、何度も後ろを振り返って、父兄の顔を確認していた。だけど、要の父親は最後まで現れなかった。
 参観が終わって、個人面談を受けるために、僕達は他の同級生と共に並んで順番を待っていた。
 子供達の横には、必ず保護者が付き添っていた。
 一人なのは、要だけ・・・・。
 どんな時でも明るく、活発な要がその時だけは、俯いて、唇を噛み締めていた。
 そのうち、同級生の一人が「要ちゃんはどうして一人なの?」と、些細な疑問を当事者である要に聞いた。
 次の瞬間、その子は椅子から吹っ飛んで唇に血を滲ませていた。その子の前に要が仁王立ちしていなければ、その場にいた誰もが、何が起きたのかなんて解らなかったろう。
 その子の親はすぐに気付いて、要をぶった。
 僕の母が止めに入らなければ、その母親は要にもっと酷い事をしていたかもしれない。
 いつまでも泣いている我が子を宥めすかしながらも、その母親は僕の母にまで悪態を吐いた。その時、投げつけられた言葉の数々を、子供の僕は全て理解する事など出来ない。
 ただ、覚えているのは、その母親が幼稚園の先生まで巻き込んで、事を大袈裟にし、要に酷い事を言った。


──これだから母親もいない子なんて!───と。

 あれ程、酷い事を言う大人を僕は信じられない瞳で見つめ続けていた。
 確かに、殴られた子は悪いことを言った訳ではない。
 でも、要にお母さんがいないのは誰のせいでもないのに・・・・こんな時でなければ要はいい子なのに・・・・。
 その酷い大人に飛びかかろうとして、要は僕の母に押さえられた。
 でも、僕は我慢ならなくて、その人に向かって、「あやまれ! かめちゃんにあやまれ!」と何度も叫んだ。
 慌てた僕の母は、僕と要二人を抱えて困り果てていたけれど・・・・・・。
 最後に要はその子に謝らされた。
 僕の母が殴った事はいけないと諭したからだ。
 僕はそんな事をさせられる要をやるせない気分で見ていた。要が悔しそうに頭を下げた時、母を恨んでしまいそうだった。けれど、次の瞬間、母はやっぱり僕の大好きな愛子さんになった。
 おばさんにもさっきの酷い言葉を訂正してくれるよう申し出たのだ。でも、そのおばさんは結局謝らなかった。
 家に戻っても、その事で僕が怒っていると、愛子さんはこう言った。「自分の間違いをちゃんと謝れない人の方が悲しいのよ」と。
 その後、愛子さんは何度も要に人を殴った理由を聞いたけど、要は答えなかった。僕は理由を知っていた。でも、僕が愛子さんに言ってしまうことが、要への裏切りのように思えて、僕も口を噤んでいた。
その夜、僕は要を抱き締めた。
「あんな人、死んじゃえばいいんだ」
 要を悲しませる者が憎かった。
「泣かないで、かめちゃん。僕、わかってる。ちゃんとわかってるから・・・・・」
 慰める僕の言葉を、どう取ったのか、要は首を横に振った。
「おれ、一人ぼっちになっちゃった」
 その時、僕は耳を疑った。
 どうして、要がひとりぼっちなんて言い出したのか、僕には心当たりがなかったから。
「昨日・・・父ちゃんが・・おれの事、・・・・おれの事・・いらないって言った。・・・・だから・・・、迎えに来ないんだ。おれ、悪くないのに・・・・参観日に来て欲しかっただけ・・なのに」
 いつも要は父親の出勤時刻と同時にお隣である僕の家に預けられていた。要の父親に仕事で出張が入ったりした時以外は僕の家に泊まることはない。普段は午後8時迄に要の父親が要を迎えに来る筈だった。
 だけど、その日は通常勤務の筈なのに、午後8時を回っても、要の父は迎えに来なかった。
 それで要は僕の家に泊まったのだ。
「泣かないで、わかったから・・・・・泣かないで」
 僕は何とか慰めようとするんだけど、要の涙は止まらなかった。
「わかんないよ! しーちゃんは・・・お母さんがいるもん!おれは父ちゃんにも・・・捨て・・られたんだ・・・・一人なんだ」
 僕がどんな事を言ってもその時の要には通じなかった。
 目の前でこんなに心配しているのにわかってくれない要が歯痒かった。その内、僕まで悲しくなちゃって、泣きそうだった。
「バカ! かめちゃんのバカ!」
 その内、僕は要を罵り始める。
 要は一つしゃっくりをして、僕を見つめていた。
「僕がいるのに・・・・・、僕がいる。かめちゃんには・・・僕がいる。だから、ひとりぼっちなんかじゃないもん! バカー!」
 そう言って要を抱き締めた。
「しーちゃんはお母さんじゃないよー」
 それでも情けない声で答える要。
「お母さんでも、なんでもなるもん! 何でもなれるもん」
 僕は意地になってそう答えながら泣きだした。


 ・・・・・ し・・づ・・き ・・・・・・・・・・。

 ・・・・・ 紫月 ・・・・・・・・・。

 ・・・誰かが僕を呼んでいる。

 心配そうな囁く声が。

 重い瞼を開けて、最初に見たのは聖さんの優しい瞳。
 まだ、僕の頭からあの時の要の顔が離れないでいた。

 結局、あの日は要も僕も泣き疲れて、床の上に抱き締め合って眠ってしまった。
 朝、僕達の様子を見に来た母に、二人一緒に怒られた。
 真相は、僕の母が僕達を寝かしつけた後に要のお父さんから連絡が入っていたそうだ。仕事の商談が長引いて要の父は遠方から帰れなくなってしまった、と。
 だから、要は見捨てられた訳でも何でもなかったんだけど・・・・・・。そうだよね、我が子を見捨てるわけないよね。
 あの時の僕はどうして要がそんな勘違いをしたのか解らなかった。
 誤解が解けて、それからの要は何もなかったみたいに明るく振る舞っていたけれど・・・・。
 あの時、僕にまで伝わってきた要の悲しみは、今なら解る。
 いつだって、要の心の奥底にあるのは不安。
 今も要は同じ不安を抱えているのだろうか?
 小さな頃から孤独に怯えて、闘って来たんだろうか?
 胸が締め付けられる思いがする。
 僕は要と再会するまで、自分が孤独な人間だと思い込んでいたけれど、そんなものは孤独とは言えない。
 幼い内から要は一日の殆どを他人の中で過ごしてきたのだ。いくら優しい人達に囲まれていたとしても、所詮、他人は他人なのだから・・・・・。肉親の温もりとは違う。
 そんな簡単な事に今まで気付かず、僕がいられたのは、いつも隣に、要の・・あの・・明るい笑顔があったから・・・。
 自分の寂しさなんて、微塵も感じさせない笑顔があったから・・・・・・。
 ・・・・・要に会いたい。

 ・・・・・ し・・づ・・き ・・・・・・・・・・。

 でも、今、僕の瞳に映っているのは違う人。
 何度も、何度も聖さんは僕を呼んでいた。
 視界がぼやけていく。
 目の前にいるのが、誰なのかもわからない位、瞳に涙が滲んでいた。
「どうしたんだよ? うなされてたぞ」
 心配そうに、僕の顔を覗き込んでいた聖さんは、僕の頭を優しく撫でた。
 その後、僕は暖かい腕の中に包まれた。
 要に抱き締められているような、暖かさだった。
 でも、違う。
 聖さんの腕の中は甘い香りがした。
 シャツから覗く抜けるように白い肌も要とはまるで違う。
「・・・甘い香り・・・・・」
「んっ、・・・コロンだよ・・・」
「聖さんの香り?」
「・・・・うん・・・・・」
 取り留めのない僕の言葉が受け入れられる。
「・・要はね・・・・、要は日溜まりみたいな匂いがするよ」
「そうか・・・・・」
「うん、僕はその中にいると、ホッとするんだ」
「そんなに好きなんだ?」
 聖さんの問いに、僕は瞳を見開いた。
 そして、少し間をおいて、『ン・・・』と答える。
「なんか・・・、今日の紫月は子供みたい。・・・・可愛い・・」
 聖さんは僕を抱き締め直した。
「こうしてると、怖い夢とか、嫌な夢は見ないよ」
「・・・うん・・・・・」
 目を閉じて、僕は聖さんの胸に凭れた。
「どうして、要はこうしてるだけじゃダメなのかなぁ・・・・」
 こうしていると、聖さんの事も昔から知っていたように安心出来るのに・・・・・。
「不安かな・・・」
 少し考え込んで聖さんが言った。
「不安?」
「うん、いくら仲良くても相手の考えてる事って百パーセントわかるわけないだろ」
「うん」
「たぶん、そうする事で相手の事をもっと解ろうとしてるんじゃないのかな? 要するに独占だね」
 ・・・・・・・・ 独占 ・・・・・・・・・。
「でも、乱暴するのはおかしいよ」
「乱暴?」
 意外そうに見開かれた瞳は、次の瞬間笑みを作った。
「俺と遼一の事? あれは俺が逆らったから・・・・・。紫月が来てるのにまずいだろ。暴力じゃないよ」
「だって、聖さんはイヤじゃないの?」
「参ったな・・・・・。あのさ、今日みたいなのはイヤだけど、いつもはイヤじゃないんだ」
 聖さんはサラッとこんな風に言うけど、僕は怖い。
 本当は要に会いたいけど、会うのが怖いとも思っている。
 また、この前と同じような事になったら、今度こそ要とお別れしなきゃいけないんだろうか?
「紫月はイヤなの?」
 問われて、僕は返答に困った。
 触れ合う事はイヤじゃない。
「・・・・・こわ・・い・・・・・・」
 そう、怖いんだ。
 あの日、僕は覚悟を決めた。
 だけどそれは覚悟を決めたのではなく、決めたつもりになっていたと言う方が正しい。
 肝心な時になって、僕は要から逃げようとした。
 その時の要は普通の状態じゃなくて、逆らう僕の両手首をタオルで縛り、自由を奪った。
 本気になった要に力で勝てる筈もなく、僕はその後、要にいいようにされたんだ。たとえ僕から言いだした事でも、あの時の僕に対する要の扱いは忘れられない。
 意志のない人形のように、ベッドに這わされ、陵辱を受けた。あの時の要からは優しさや思いやりなど、ひとかけらも感じなかった。見知らぬ他人の暴力に屈する。そんな気持ちだった。
「・・・・・怖いけど、会いたい?」
「・・・・・ええ・・・・・」
「会おうと思えば、明日、必ず会えるさ」
「え?・・・・」
「何も頭を下げて聞かなくたって、あの女の後を尾ければいい。どうせ、あの店かあの女の自宅位しか早藤の隠れる場所はない」
 決め付けた口調で聖さんは言った。
 その時の彼は切れ者の総務部長だった。
 聖さんの言っている通りにすれば、確かに要に会えるかもしれない、でも、それはめぐみさんに対して卑怯な手段だと思う。
「明日は必ず早藤に会える。だから、ゆっくりおやすみ」
 耳元で囁く聖さんの声が心地良い。

 ・・・・・・ 紫月はきっと要に会える ・・・・・・・・

 繰り返し呪文のように囁かれる言葉。

 それは、まるで子守歌のように僕を眠りに誘う。

 

刀@刀@

「またあんたなの?」
 眉間に立て皺を寄せ、めぐみさんは僕を見る。
 昨日と変わらず、嫌いな動物でも見ているような、そんな目つきで。
 それでも、傷ついている場合じゃない。
 昨日の夢のように、要が泣いているかもしれない。
 聖さんの忠告を無視して、僕は正面からめぐみさんに話をしに来てしまった。
「昨日はごめんなさい。突然で貴女が尋ねた事に僕は答えられませんでした」
「ふーん。それで、今日なら答えられるって言うの?」
 僕を睨むめぐみさんの瞳は強い光を放ったままだ。
「いえ、僕なりによく考えてみたんですが、訳は話せません」
「話になんないわね!」
 突き放すように、めぐみさんは身を翻した。
 こうなる事は僕も予想している。
「貴女が僕に聞くって事は、要も言ってないって事ですよね!」
 思い切って僕は叫んだ。
 ここに来るまでの数時間ずっと考えていた事を。
 去っていくめぐみさんの歩みが止まる。
「要が知られたくない事を、僕が貴女に言うわけにはいかないんです。どうして、要がいなくなってしまったのか、本当のところは要しか解らないかもしれない。でも、僕はそれが要の誤解だと思ってます。要に会って話し合いたい。要に戻ってきて欲しいんです」
 めぐみさんが聞いてくれているかどうかも分からないのに、僕は夢中で喋っていた。
「あんたが要を嫌ったんじゃないの?」
 振り返っためぐみさんの目つきは、先程よりも幾分和らいでいる。
「僕が要を・・・・・・?」
「そう、あの子確かに言ったのよ『とうとう嫌われちまった』てね」
 ・・・違う。
 怖かっただけだ。
「ちがう・・・。僕が要を嫌うだなんて・・・・・・」
 要が・・・そんな事・・・・・・。
 僕が愕然としていると、めぐみさんが近付き始めた。
「・・ご・・かい・・なの?」
 僕は黙って頷く。
「本当に誤解なのね?」
 僕の肩をがっしりと掴み、彼女は激しく揺さぶった。
 その質問に何度も何度も頷いた。
「やだっ。あの子ったらホントにバカなんだから・・・・。あの子ったら・・・・・・」
 気が付けば、めぐみさんに抱き締められていた。
 めぐみさんは力一杯僕を抱き締め、何度も何度も「ごめんね」と繰り返し謝ってくれた。要の事なのに、自分の事みたいに喜んで・・・・・・。
 やっぱり、後を尾けたりしないでちゃんと話に来て良かった。こんなにいい人なんだから・・・・・。
 その後、めぐみさんは快く自宅の住所と最寄りの駅を教えてくれた。おまけに、簡単な地図まで付けて・・・。
 また、以前のように僕を優しい瞳で見てくれる。
 その優しい瞳に見送られ、僕は駅に向かって走り出した。

 要の誤解を解くために。


 

刀@刀@

 めぐみさんのメモに書かれた駅に到着して、辺りを見回した。
 駅の周りには、小さな商店が林立している。
 その商店街を抜けた所を北に向かう、見知らぬ土地の筈なのに、何故かそこは僕達の暮らしてる街によく似た雰囲気がした。
 辺りを見回しながら、めぐみさんの事を思い浮かべた。
 彼女が住んでいる所だというだけで、街全体が僕を見守ってくれるような、そんな気がする。
 十分程歩いた所の左手の公園を横切ると、近道になるそうだ。もう、そろそろ公園が見えてきてもいい頃の筈なんだけど・・・・・・・・・・。通り過ぎて行く曲がり角を見る度、それらの細い道に入りたい誘惑に駆られる。それでも僕はメモの指示に従った。
 それから、まもなく目標の公園を発見。
 今は五時四十五分。
 要は毎日彼女の息子を保育園にお迎えに行っているという。五時には家に帰っている筈だと、彼女は教えてくれた。
 公園の中程、ちょうどジャングルジムの前で僕は立ち止まる。
 僕の向かい側に見える右側のアパートに『さくら荘』と書いた看板が見える。
 そこの三〇二号室に要がいる。
 僕はそのアパートへ駆け出そうとしていたが、ちょうどその時、小さな男の子が、そのアパートから飛び出してきた。
「護! そんなに走ったら転ぶぞ!」
 たったの四日だっていうのに、懐かしい声が僕の耳に届いてくる。
 男の子は真っ直ぐにブランコに向かって走っていく。
 その後ろを追いかけてくるのは、目立つほどの長身。
 手入れのされていないボサボサの髪を振り乱して、要が駆けてくる。いつも僕がうるさく言わないとドライヤーもかけない要が・・・・・。

 ・・・・・・ 何と声を掛ければ良いんだろう ・・?・・・・・

 要の顔を見るだけで嬉しくて、僕はこの時、自分の置かれている立場すら、すっかり忘れていた。
 要は僕に気が付き、立ち止まった。
 僕は誤解があるのも忘れて抱きつきたい衝動に駆られた。
 要の顔が強ばっていなければ、きっと、そうしただろう。
 要は僕から顔を背け、見知らぬ他人のようにブランコに乗っている『まもるくん』という少年のもとへ駆け出した。
 確かに要は僕を見た。
 なのに、どうして知らん顔をするの?
 要がどうしてそんな態度を取るのか、僕には皆目見当が付かない。要が僕を訪ねて来た時、確かに僕だって要の顔をまともに見ることが出来なかった。だけど、あの時、僕に謝りに来てくれたんじゃないの?
 どうして避けるように行ってしまうの?
 そんな態度を要にとられたのは初めてだった。
 要に無視された事なんかない。
 いつだって、怒って要を無視するのは僕なのに・・・・・・。
 愕然として、要に話し掛けたいのに、どうしても声に出来なかった。
 要と少年は何やら話をしていた。
 話が終わると、二人はアパートへ引き返し始めた。
 そして要は、まるで、ここに僕がいないみたいに、僕の目の前を通り過ぎようとする。
 僕はここにいるよ・・・・・・。
 話をしに来たんだよ・・・・・。
 心の中で叫んでも、要は振り返ってはくれない。
 会う事さえ出来れば、すぐにでも話が出来ると思っていた。誤解を解いて、一緒に帰れると・・・・・。
 僕は慌てて要の腕を掴んだ。
「何の用?」
 突き放すような言葉が僕にぶつけられた。
 これは本当に要なの?
 僕の手を振り解いて二人はアパートに向かう。
「おともだち?」
 『まもる』と言う少年が尋ねた事にも、要は首を横に振った。
 ・・・・・・ ひどい ・・・・・・・・・・・・・。
 どうしてなの?
 小さな少年の手を引いて要が遠ざかっていく。
 要が僕から遠ざかっていく。
 ・・・・ いやだ ・・・・・・・・。
 そんな事許さない。
 僕の気持ちを滅茶苦茶にしておいて、逃げるなんて許さない。
「逃げるの!」
 僕は夢中で叫んだ。
 要はそれでも振り返らない。
 だけど、「先に部屋に行ってろ」と少年に言った。
 少年は素直に一人でアパートへと走って行く。
「僕から逃げるの?」
 僕を無視する要が憎かった。
 やっと、振り向いた要は、困ったように首を傾げた。
 それでも、無視されないことが少しだけ僕を慰める。
「どうして・・・・・どうして・・僕を知らないなんて・・・・・・」
 知らない振りをされるのが、こんなに辛いなんて知らなかった。
「・・・・・最初から知り合わない方が良かったんだ」
 押し殺した声がした。
「俺の事、嫌いになったんだろ、それなら、俺が目の前から消えた方が良いんじゃないの?」
 意志を持たない機械のように冷たい声で要が言い放つ。
 そんな風に思っていたの?
 そんな風に思っていたからいなくなったの?
 でも、僕は聞いてない。
「僕は・・・まだ・・・、聞いて・・ない」
 お別れの言葉も理由も・・・・・・。
 あの時の言い訳も・・・・・。
 なのに、一人で勝手に決めるなんて卑怯だ。
 もっと違う事を話すつもりなのに、僕の口から出る言葉は恨み言のようになってしまう。
 誤解を解きたい・・・・。
 もっと、ちゃんと話がしたい。
「話す事なんかない・・・・・」
 それなのに、冷たい言葉が刺になって僕に突き刺さる。
 その時の要は、あの夜と同じ目をしていた。
 憎いのか・・・悲しいのか、よく分からない諦めたような目を・・・・・・。
 僕を乱暴に扱った時と同じ瞳。
 背筋を冷たいものが走り、忘れていた要への畏れが襲ってくる。無意識の内に僕の足は二歩三歩と後ろへ退いた。
 要は、自分の方が傷ついたみたいに俯く。
 あの時も、要は「俺の事、そんなに嫌いになったのか?」と弱々しい口調で言っていた。あの時の、傷ついた要の表情と今の要が重なる。
 真っ直ぐな瞳で僕を見つめていた要は何処に行ってしまったんだろう・・・・・。今、目の前の要は僕の方を向いているのに、僕の目を見ようともしない。
 怖がってる場合じゃないとは思うけど、要がこれでは、僕は話を切り出せない。
 これ以上、今の要には何を言っても無駄な気がした。
「僕が要を嫌うわけないのに・・・・・・」
 きびすを返して去り際に、僕は恨み言のように小さく呟いた。
 折角、要に会えたのに泣きたい気分だった。
 だけど、絶対諦めたりしない。
 諦めない。
 もう一度、出直すんだ。時間が経てば、要も落ち着いて話をしてくれるかもしれない。
 また、出直すんだから泣くもんか・・・・。
 こんな冷たい要の前でなんか泣かない。
「・・・・・ 今、なんて言った? ・・・・・・・・・・」
 僕がやけくそになっている時だった。
 優しい口調で問い掛けられて、思わず振り返った。
 そこには、僕の良く知る優しい目があった。
「だから・・・、僕が・・要を・・・嫌うわけないって・・・・・」
 言い終えるか終えないかの内に、要の表情は明るく輝いた。今にも、僕に駆け寄りそうな雰囲気になっていく。
「待って、ちょっと待って・・・」
 僕は要が近付く分だけ退いていた。
 やはり、まだ・・・・・要の事が怖かったのだ。
 まだ、震えは来ないけど、またあんな風になったら困る。
 話している間は一定の距離が保たれていたから平気だったんだけど・・・・・・・・。
「やっぱり、俺がイヤなの?」
 疑り深く要が聞いてくる。
「違う。イヤじゃないよ。ただ、この前は要が怖かったから・・・・・・・」
 僕の言葉に要の表情は一瞬にして曇った。
「嫌いだとか、そう言うんじゃないんだ・・・・・」
 どう言ったら要は分かってくれるんだろう。
 僕自身が分からないのに・・・・・・。
「何がそう言うんじゃないんだよ」
 要に会うことばかりを考えていて、僕はすっかりこの厄介な後遺症とも思える症状の事を忘れていた。でも、問題から逃げてばかりもいられない。
 要に抱き締めて欲しいのに、要が近付くだけで怖いなんて・・・・・。
 そして、僕はちょっとした事に気が付いた。
「要、ちょっとそこに座ってくれる?」
 まず、僕は要を後ろのベンチに座らせた。
 そして、少しずつ要に近付いて行く。
 彼の所まであと1メートル位の所で指先が震えだした。 僕は自分自身に暗示をかける。
 怖くない。震えるな、と。
 要まであと一歩という所で足まで震えてきた。
 僕は思いきって、要の腕に飛び込む。
「・・しーちゃん・・・?・・・・・」
 要にももう分かっただろう。
「・・・僕にもよく分からない。・・・・・この前は要が怖かった。今日は・・・・・そんなに怖くないんだけど・・・・・・」
 驚いている要には構わず、僕は要の首に腕を回した。だんだん力まで抜けてくる。こうなると自分の身体で実験でもしている気分だ。
「・・・抱き締めてよ」
 震えは止まってくれないけど、要の胸はやっぱり僕の大好きな匂いがする。こうしていると、そのうちこんな震えなんか止まっちゃうんじゃないかと思える。
「この間もそうだったよね・・・・・。やっぱり、俺の・・・せい・・・?・・」
 悲しい瞳で要が見つめる。
 そんな目で見ないでよ、僕だって分からないんだから。
「この間、俺がしーちゃんに酷い事したから・・・、だからなのか?」
 そう聞かれても僕は答えることが出来ない。
 確かに、この間の夜の事が無ければ、こうはなっていないとは思う・・・・・。
 でも、心配してくれる要が愛おしかった。
「・・・ごめん」
 何度も何度も要は謝る。
 このまま、一生でも謝っていそうな気がして、僕はそっと要の唇を塞いだ。
 要がいなくなる事に比べれば、こんな震えなんて、何でもない。
 要から離れる頃には、震えが和らいでいた。
 どうしてだろう?
 もしかして、この震えを止める為には、慣らすしかないのかな・・・?
 そう、考えるとちょっと憂鬱な気分になる。

「・・・しー・・・ちゃん・・・?・・・」

 不思議な事でも起きたみたいに、要はやっぱり驚いた。
 時々、自分から僕に同じ事をするくせに・・・・・・。
 あの夜まで、僕にとってのキスは約束の証だった。
 でも、以前からなんだかんだと理由をつけて、要が僕にしていたのはきっと約束にかこ付けての事だと、最近になって分かったんだ。
 僕がじっと見つめていると、要は不意に目線を逸らした。
 要の顔が徐々に紅潮していく。
 その様子を見るうち、僕まで照れ臭くなってしまう。
 僕は自らの行動を早速後悔している。
 だって、目に見えて、要が舞い上がってるのがわかる。その上、要は「・・夢じゃ・・・ないよね・・?・・・・・」なんて言ったんだ。
 もう、二度と自分からなんてしない・・・・・・。
 僕は固く心に誓った。

                         おしまい

INDEX BACK