何にもシラナイ恋なんて・・・1
上郷 伊織
◇◇◇◇◇
夕暮れの駅前、帰宅ラッシュの雑踏に逆らい、痩身の少年が歩いて行く。
背中にかかる色素の薄い髪に、恐ろしく整った少女めいた顔立ちは、群衆の中に在ってさえ、隠す事は叶わない。彼を誰もに少年と思わせるのは、他の全てのパーツを裏切る獣じみた瞳のせいだった。
時折、振り返る少女達の視線に一瞥もくれず、彼は颯爽と通り過ぎる。
遥か前方を睨み据え、スタスタと駅に向かって行くその姿は、何かに挑みかかるかのようにさえ映った。
駅前を抜けて、10分ほど歩いた所に、彼の目的とするマンションは聳え立っていた。
マンションのロビーを横切り、迷う事なく、エレベータに乗り込む。
目当ての部屋の前に来て、初めて彼の険しい表情が消える。
郵便受けからは無数の新聞やダイレクトメールがはみだしている。
鍵をジーンズの尻ポケットから取り出した時、形の良い唇から一つ溜め息が零れた。
踊り場を見下ろせば、建物の隙間から街並みが伺える。
オフィスビルが立ち並ぶ街。
夜ともなれば閑散として、幹線道路を車が走るだけの場所。
そんな所でも人の住まいがある。
真夜中のゴーストタウン。
そんな言葉が頭にぼんやり思い浮かぶ。
望んで来た訳じゃない。
仕方がないから来てやったのだ。
そう、自分に言い聞かせ、加納聖は思い切ってドアを開けた。
部屋に入ってみると、そこは、だだっ広いだけの空間に過ぎなかった。
人の気配もなく、主不在の空間は生活臭の希薄な無機質な箱のようだった。
そこには聖の求めていた空気がない。
無口なクセに意識せずにはいられない、圧倒される空気がない。
そう感じさせる程の存在感を部屋の主は持っていた。
殆どの時間を仕事場で過ごし、眠る為だけに借りられた部屋。
トラブルが起こっても走れば仕事場まで5分と掛からない部屋。
生活する場所じゃない。
ポストには新聞が溜まりっぱなしだった。
一体、いつから帰宅していないのだろう。
連絡一つ寄越してこない相手をなぜ自分は待つのだろう。
「もう、しらねぇー・・・・・・・・」
遮光カーテンの隙間から零れ出る夕日を睨み付け、聖は投げやりな言葉を吐き捨てた。
◇◇◇◇◇
ピアノの伴奏と共に、ハスキーボイスのジャズナンバーが流れていた。
酔客が焦がれるように見つめる歌姫。
滅多にステージに立つこともなく出演予告もない、その人を見知るのは、よほどの常連客と店の女主人位のものだった。
腰まである長い栗色の髪を無造作に纏め上げ、黒のイブニングドレスを上品に着こなす彼の人は、今宵、悲しいバラードばかりを口ずさむ。
女性にしては低めのその声が醸し出す世界は虚無。
やがて、マイクが下ろされて、一礼と共にステージを降りていく。
客達の誰をも視界に入れる風もなく、歌姫は店の隅に位置するカウンターに腰掛けた。
「何なのよ、今夜は」
高級ラウンジの女主人が歌姫に話しかけた。
「・・・・・何が?」
女主人に向き直り、少年の声が応えた。
「機嫌悪いわね。店が陰気になるじゃない」
「歌えっていうから唄ってやっただけだ」
お抱え歌手の黒人女性が夏期休暇でお国に帰ってしまった。その助っ人に聖はこの店に呼ばれていた。
「達也、OP濃い目」
無口なバーテンに注文をつけると、程なくして聖の目の前には琥珀色の液体を注いだタンブラーが置かれた。
話を聞く気もなさそうな聖の素振りに、女主人は諦め顔で客達のいるフロアーへと消えていった。
幼い頃から祖父に連れられてココには良く来ていた。
そんな時、出番待ちの黒人女性が聖と遊んでくれた。
彼女の事を思い出しながら、聖はグラスを傾けた。
名前はメロディー。
たぶん本名ではないだろう、歌の大好きな彼女には似合いの名前で、聖はそんな彼女が大好きだった。
遊ぶと言っても、大人の社交場に道具など有るわけもなく、二人でポーカーをやったり、それに飽きると、意味も分からない英語の歌をメロディーが教えてくれた。
声で唄うのではなく魂で唄うのだと。
何度も何度も口ずさむ内に、訳の分からない英語の歌詞が頭に染みついていた。メロディーと比較しても遜色なく歌えるようになったのは聖の耳の良さにあったのかもしれない。
声変わりを迎えても、聖の声はさほど低くもならなかった。
そして、メロディーの助っ人は聖の役目のようになっていた。
女のドレスを着せられて、化粧を施されてしまえばなんの違和感もなくなってしまう我が身が恨めしくもあったが、ここで支払われる異例の時給は大きな魅力の一つだった。
これだけ、化けてしまえば、聖だと気付く輩もいなかった。
ココのバイトに入る時、大抵はスポットでバーテンをやっていても、客は彼女が聖だとは気づきもしない。
1週間このバイトをしたら、次はまたプログラムの仕事が入っている。
本当は休日に当てて開けておいた日程だった。
夏休みに入って聖は一つの依頼を片づけた。
在宅のデータパンチの退屈な仕事である。
聖のアルバイトはインターネットで送られてくる依頼を見て、気に入ったものがあれば即返事を出し、振込確認を終えて仕事に掛かる。
一仕事終えて、ふと、気が付いた。
7月半ば頃に付き合い始めた恋人から、何の連絡もない。
カレンダーを見てみれば、一月近く音信不通。
その間、自分から連絡するのも癪に障るが、仕方なく何度か電話もした。
しかし、応対してくれるのは合成ヴォイスのお姉様ばかり。
よくよく考えてみれば、何の約束を交わしたわけでもない。
それなのに、夏休み中に何度か会えると、当たり前のように考えていた。
恋人の休暇の予定も携帯の番号も知らない。
携帯の番号は仕事専用だからと、教えて貰えなかった。
休暇の予定は、また、連絡が取れた時に聞けばいいと思っていた。
会社の電話番号は知っているが、仕事の邪魔はしたくない。自分も邪魔されるのは嫌いだからだ。
今まで付き合ってきた恋人達は聖が連絡をしなければ、3日と開ける事なく連絡をくれていた。電話すれば、大抵は捕まるものだった。
理解不能な事態である。
何か大きなプロジェクトでも入ったんだろうか?
いくら忙しいと言っても、休憩時間に電話くらい出来る筈。
以前の事を一つ一つ思い起こして、聖は頭を抱えた。
───── ダメだ・・・・・・・・・…。
どんなに思い出そうとしても、恋人が仕事中に休憩している姿が思い浮かばない。
聖の恋人、岸上遼一は喫煙者である。
ゆったりと休憩しながら煙草をふかしている姿を思い浮かべようとしても、脳裏に浮かぶのは、咥え煙草で無表情に端末に向かう姿や、書類を書きなぐる姿ばかりだった。
食事時間は、と思い起こす。
食事中も書類に目を通す姿ばかり・・・・…。
─────奴はビジネスマシンか・・・・・・・…。
休息という言葉を知っているんだろうか?と、疑いを持ちたくなってしまう。
聖が記憶する限り、岸上はプロジェクト終了後にしかゆったりと寛いだ姿を見た事が無い。
3ヶ月間、共に仕事をしていながら、そんな姿は2度しか見ていない。
─────なんでそんなのと付き合うなんて言ったんだ?
─────俺、早まったかも・・・・・・・・・・…。
聖は付きつけられた事実に愕然として、カウンターに突っ伏した。
「怒ってたかと思えば、今度はなに落ち込んでんのよぉー。変な子ね!」
いつの間に戻ってきたのか、頭上から女主人、冴子の声がする。
傍目から見ても落ち込みが分かるのか。
「うるせぇー」
やけ気味に発した聖の声には情けない響きがあった。
ガラスのタンブラーは汗をかき、汗の玉が大きな滴となってコースターに零れた。
つづく