言葉のタリナイ恋なんて・・・(前編)
上郷 伊織
◇◇◇◇◇
開け放たれたカーテンから、乾いた風が肌をくすぐる。
初夏のまぶしい光に、加納 聖(ひじりかのう)は深い眠りから醒めた。
寝起きの聖の小さな顔は、どこかあどけなさを残している。
その少女のような表情をしばし眺めて、口元を綻ばせている人物がいる事に聖は気付いていなかった。
意識のはっきりしている時の聖は、ポーカーフェイスで大人びた印象を他人に与えていた。
学校では酷く浮いた存在である。
目覚まし時計を手に取ろうと、透けるような白い腕をベッドヘッドに伸ばす。
目当てのモノはそこにはなく、伸ばされた手は空を掴む。
ふと、重い瞼を開き、見上げた先には見慣れぬ壁掛け時計。
時計の針は8時35分を示している。
─── はちじ・・さんじゅう・・・ごふん
「・・・・・!・・・・35分!!」
時計の示す時刻を認めた途端、あわてて聖は起き上がった。
「いっ・・・・」
あらぬ処に激痛が走り、聖は腰のあたりを押さえた。
いつもならば、この1時間前には起きている筈だった。
僅かに開いた涙のにじむ瞳に、見覚えのない、クリーム色のクロス張りの壁が映る。
「・・・・んっ・・・ん〜?・・・・・?」
自分のマンションの壁は白一色の筈。
辺りを見回せば、クローゼットの鏡に向かってネクタイを絞めている人間が視界に入ってきた。
良く知った背中。
何度、瞬きを繰り返しても、自分の瞳に映るのは、彼。
─── 岸上リーダー?
───
ここは?・・・・・待てよ、確か昨日は・・・・・・
振り返った男は、何度聖が目を擦ってみても、間違いなく岸上だった。
そう、癪に触る、いつか鼻を明かしてやりたい相手だった。
「起きたのか?」
頬に触れた感触、聞き覚えのある心地よい低音。
スーツ姿に髪をすっかり整えた精悍な容貌は、岸上 遼一(きしがみりょういち)、その人だった。
────朝っぱらからこの顔は見たくなかった
聖の頭はすっかり覚醒し、断片的に昨夜の事を思い出していた。
そう、昨日、職場の飲み会がお開きになってから岸上の部屋で飲み直したのだ。
いつまでもベッドに居るわけにもいかない。
慌ててシーツを持ち上げた瞬間、聖は顔色を失った。
素肌に聖が纏っていた物は、今持ち上げたシーツだけだったのだ。
受け入れたくない事実から、聖は目を背けたくなった。
「聖、俺は会社に行くから、おまえはゆっくりしていっていいぞ。朝食はテーブルの上、それと、これはお前のだ。好きに使っていい」
シャランと音をたて、飛んできた物を受け取った。
掌には皮のキーホルダー、その先には鍵が一つ。
たったそれだけの言葉を残して、岸上は部屋を出て行ってしまった。
聖に質問の余裕すら与えずに。
鍵に気を取られている間に無情にもドアは閉まり、その時の岸上が、どんな表情で言葉を掛けたのか、それすらも見ることは出来なかった。
「ちょっ・・・・・・ちょっと、待てよ!」
聖は叫んで、ベッドから飛び降りようとした。だが、痛みに起き上がる事すら出来ない。
岸上の足音は、どんどん小さくなって、きこえなくなってしまう。
「・・・う・・うそ・・・・・」
力無く呟いた自分の台詞にさえ、情けない響きがあった。
学校とバイト、二重の生活の中で聖の身体は疲れ切っていた。
特に2年前から始めたプログラマーのバイトは、期間を決めた上で、中小企業のソフトウェアハウス等にフリーで入るのだが、これに関しては各会社によって就業形態が違い、今通っている所では、3ヶ月間、プログラム30本。1本に付き何万というおいしいようで、きつい仕事である。
聖は現在、中学3年生。
パソコン通信ではかなりの有名人である。
もっとも、聖が十四歳である事は世間には公表されていない。
バイトをする時、履歴書上では高校在学中の二年生で通している。
身長百六十八センチの高校生ならば、全く疑いを持たれる事はなかった。理路整然とものを言い、飄々とした印象与える聖ならば尚更だった。
インターネットからの通信による仕事の依頼。内容が気に入れば、即、返事を出し、在宅でする事もあれば、その会社に通う場合もある。
今回はその後者だった。
昨日も、確か夜中の十一時頃迄、端末に向かっていた。
夕方五時から夜十時迄。いつもならば、そんな終電のなくなりそうな時間まで残業などしない。
ビジネスライクに決まった時間で帰るのが聖の主義。
けれど、今回はペースが乱れがちだった。
癪に触る奴がいた。
何が癪に触るって、その人はいつも聖を子供扱いにする。
プログラマーという仕事の上では、いくら周りが立派な社会人ばかりだといっても、負ける気はしなかったし、その自信の裏付けである実力を聖は備えている。
今まで、仕事を組んできた大人達も、最初は聖が若すぎるからといって、見下すような態度に出ていたが、1本プログラムを組んでみせれば、聖を尊重するようになったものだ。
しかし、その人は違った。
聖がいくら難易度の高いプログラムを人よりも早く仕上げたとしても、それは当たり前の事。
服装や礼儀について、聖に注意を与え、それに聖が反発を覚え、態度に出したりしても決して動じる事がない。
彼はSE(システムエンジニア)として一流の人間だった。
SEとは、建築に例えるならば設計技師の役割を果たす。
プログラマーはいわば大工である。
こういった事でも解るように、SEはプログラマーよりも一段高い所に位置付けされている。
SEの指示書がなければ、並のプログラマーは仕事が出来ない。
聖などは、殆ど例外に近く、自分でシステム構築をしたりもするのだが、やはりそこは趣味で始めた素人の悲しさ故か、実際にプログラムを作ってみて、完成したものを何度もテストしながら、少しずつ修正を加えて初めて商品化出来るものになる。
普通ならば、いくらSEがシステム構築したとしても、修正しなければならない点というのが、数カ所は出てくるのが当たり前で、聖も今までバイトに入った先では、よくそういったミスを指摘したものだった。
だが、彼の指示書には、殆ど見直すべき点がないし、修正があったとしても、真っ先に気付くのは彼自身だった。
そう言った点では、聖が尊敬するに値する人物なのだが、プライドの高い聖としては、自分を認めて貰えない以上、相手を認める気にはなれない。
自然、彼に認めて貰おうと、躍起になっていた。
それに伴って、休息すらも、聖は忘れていた。
だが、いくら疲れの蓄まった身体にアルコールが入ったからと言っても、断片的とはいえ、酔って記憶を失うなど、聖自身、体験するまで信じられない事だった。
岸上のマンションに来て、仕事の話をしていた事は憶えている。
断片的にだが、なぜ聖がプログラマーをしているのか、そんな事に答えたのも・・・・・。
肝心な事が思い出せない。
なぜ、ベッドに裸でいるのか?
なぜ、身体に痛みがあるのか?
しかも、あんな箇所に・・・・・・・・・。
これは、おおよその察しがつくのだが、信じたくない。
それよりも、自分が抵抗したのなら、どこかにそれなりの痣や某かの痕跡がある筈なのに・・・・なのに・・どこにもその痕跡がない。
自分がどうして抵抗しなかったのか・・・・・・。
いくら正体がない程酔って意識を失っていても、気付かない訳がない。
その理由すら憶えていない自分が情けない。
こんな事、恥ずかしくて岸上に聞けやしない。
岸上とは、あくまでも対等になりたいのだ。
なのに・・こんな事になるなんて・・・・・・・。
痛みの薄らいだ身体にシャワーを浴びながら、聖は肩を落とした。
大きな溜息と共に・・・・・・・・・。
◇◇◇◇◇
閑静なオフィス街の一角。煉瓦作りの五階建てのビルが聖の目的地であった。
エレベーターホールでテナントプレートに視線を巡らせる。
茶色く染めた髪をスカーフで一つに結び、黒のタンクトップの上にはペパーミントグリーンのシルクシャツ、ウォッシュタイプのジーンズという出で立ちが聖には妙に似合っていた。
だが、オフィス街の中では、酷く浮いた感じである。
ぴかぴかの石壁に映る自分の姿をしげしげと眺め、「ちょっと派手だったかな」などと一人つぶやき、腕時計に目をやる。
打ち合わせまで時間がない。
「ま、いっか」
一人納得してエレベータのボタンを押した時、いきなり後ろから肩を叩かれた。
「このビルに何の御用かな」
「あの・・・・・・・・」
「何の用か、と聞いたんですよ」
丁寧な言葉遣いであったが、響きは極めて冷たい。声の主の表情は、なお冷ややかなものだった。
「5階にバイトで来ただけです」
聖にとっては、まさに『ヤな感じ』である。
此処はお前のような子供が来る所ではない、とでも言いたげに聞こえた。
聖はムッとして、そそくさとエレベータに乗り込んだ。
相手も一緒に乗ってきたので、無遠慮な視線に聖はひどく居心地が悪かった。
聖は5階のボタンを押したが、彼は動く気配も見せなかった。
──── 階まで同じかよ!
────
折角バイトの初日でワクワクしていたのに・・・・・・。
目的の階について、聖が受付で手続きをしている間に、先程の人物はフロアーの奥へと消える。
目の端にそれを認めて、聖はホッと息を吐いた。
何をそんなに緊張していたのかは判らない。
けれど、彼がそばにいるだけで落ち着けない自分がそこにいた。
その感覚は苦手な人間を相手にしている時と似ている。
─────サ・イ・・ア・ク
システム課のフロアーに案内され、直属の上司だと紹介された人物はエレベータの彼だった。
「後の事は岸上リーダーに聞いて下さいね」
朗らかに、受付嬢は去っていく。
残された聖はこれからの3ヶ月に不安を覚えた。
「やってけるかなぁ」と。
これが初対面ならば、容姿も良く。いかにも頼りがいのある上司といった印象を岸上に対して持ったかもしれない。
ニコリとする事もなく、事務的に他の社員に聖を紹介し、依頼の仕事を事細かく、淡々と説明していく。
そのテキパキと仕事振りに聖は感心していた。
これほど理路整然とした説明は受けたことがない。
サンプルとして渡されたプログラムの正確さは目を見張るものがある。
一つ一つの動作に対する処理速度を追求した記述。
それがどんなに大変な事なのか聖には痛いほど解る。
今まで聖が行った職場には、全くいなかった存在である。
───
よりにもよって、なんでこいつなんだよ
こういう人間こそ、あの計画に打ってつけの人間なのに・・・・・・。
しかし、先程の出会いが聖を消極的にさせる。
欲しい・・・・。
でも、こんな奴に頭を下げたくない。
心の中で聖は葛藤していた。
聖には大きな夢がある。
20代でソフトウェアハウスを設立して、いずれは世界にも通用するソフトを作りたいという。
小学生の頃だった。
祖父が学習用にと、パソコンを一台購入してくれたのがきっかけだった。
聖の祖父は『加納実業グループ』という飲食業全般にチェーン店を持つ二部上場企業の会長をしている。
今では数百億円からの年商を上げるこの会社を一代で築き上げた人物である。
聖の父と兄二人は祖父の期待に添う事が出来なかった。
能力的には問題はない。会社の現状維持は出来るだろう。だが、性格的には経営者向きではない、との判断を祖父はこの3人に下していた。
祖父からの期待を聖が一身に受けていた。
父や兄達3人は、どこか気が弱く、判断力に欠ける。
性格上、聖は目的の為には、手段を選ばない。
祖父が特に気に入っているのは聖のそんな所だった。
聖がプログラムに関心を持てば、会社の電算室への出入りを自由にさせ、小さな仕事を与えた上で、教育してくれと社員に頼む。
目の中に入れても痛くない程に、祖父は聖を可愛がってくれている。
ある日の事だった。
聖は電算室で完成したプログラム入りのフロッピーを手に、会長室まで喜び勇んで飛び込んだ。
初めてやり遂げた仕事を、大好きな祖父に見せたくて。
「聖は頼もしいな、おじいちゃん、聖なら安心して跡継ぎに出来るよ」
その時、祖父はこれ以上崩れようがない位表情を崩して聖をほめた。
聖はそんな返事が欲しかった訳ではない。
単純に誉めて欲しかっただけなのだ。
「おじいちゃん、悪いけど、後は継げないよ。俺は、SEになるんだから」
聖ははっきりきっぱりと言ってしまった。
酸素の足りなくなった魚のように、口をぱくぱくさせ、聖の祖父は卒倒した。
聖、小学4年生の春の出来事である。
その後も、祖父は聖に何度も説得を試みたが、すべてが失敗に終った。
聖も大好きなおじいちゃんに反対されている事に後ろめたさを覚えていた。
小学校を卒業する日、祖父が最低条件を呑めば認めてやると言ってきた。
ひとつ、会社を22歳で設立する事。
ひとつ、その資金は自分で稼いだ金のみとする事。
ひとつ、資金についての内訳を提出の事。
この三箇条の大変さを理解しないまま聖は承諾した。
おじいちゃんだって、22歳で会社を作ったんだから、と。
その時の聖は素直に祖父の提案を好意と受け止めていた。
大学卒業までに、一千万貯める。
目下のところ、それが聖には最低の目標である。
金額面の事はなんとかなりそうな目途がついてきた。
聖が高校に入れば、もう少し時間の余裕も作れる。
単位さえ取ってしまえばいいのだから、その分バイトも入れられる。
それよりも重要な事。
会社を作るからには大きくしたい。
最初は少人数でやっていかねばならない。
それならば、良い人材を出来るだけ早く見付けて集めなければ・・・・・。
特に、世間を良く知っていて、自分を裏切らない。
信頼のおける聖の片腕。
善きパートナーを聖は心から求めていた。
仕事面を見た限りでは、岸上は最適な人材だと思う。
だが、聖と岸上の間に信頼を築くなんて、この時の聖には到底不可能な事に思えた。
初日から、服装が派手だ、と岸上に注意を受けた。
「ユーザーも出入りするんだ。ジーンズは仕方ないとして、せめてもう少し地味なカッターシャツにしろ」
命令口調が気に入らなかった。
聖は翌日、光沢のある紫色のスーツを着ていった。
ささやかな反発である。
それを眼にした途端、岸上に更衣室に連れ込まれ、ベージュのスラックスと白のカッターシャツを渡された。
「俺の趣味じゃない」と聖は文句を付けた。
「なら、家に戻って制服でも着て来るんだな。それから、社内では『俺』ではなく『僕』か『私』と言うんだ。いいな。返事は!」
そう、きり返された上に、言葉遣いに至るまで注文がついた。
家に帰れば1時間のロスになる。
聖は仕方なく、借り物の服を着ながら答えた。
小さな声で「はい」と。
岸上を困らせたくて、わざと派手な格好にしたのは失敗だった。
聖の頭をポンポンと軽く叩いて、岸上は更衣室を出ていった。
その時の勝ち誇ったような岸上の笑みが、聖を苛立たせた。
その後も、一事が万事こんな調子で、岸上が聖に注意する。聖が逆らう。岸上の辛辣な叱責が飛ぶ。
聖だって逆らう自分が悪いのは、解っていた。
だが、一度でもいいから岸上を負かしたかったのだ。
「よく続くわね〜」
「ああ、あれ」
「聖くんも聖くんだけど、岸上さんも学生相手にきついわ。あたしだったら泣いてる」
「聖君、よくやってると思うけどな」
女子社員の噂に昇る程、聖と岸上のやりとりは日常化していた。
聖が他の社員と雑談している時も、提出した完成プログラムの処理速度がもっと上がる筈だと、岸上に呼びつけられる。
岸上はそんな時、絶対に解決方法を教えない。
聖が自分で見付けられるまで、じっくり考えろと言う。
聖の為には、それが一番良い、と岸上は思っていた。
自分で考えた事は、苦労した事は、人は決して忘れないから・・・・・。
だが、岸上はそういう自分の考えを決して口には出さなかった。
もちろん周りにも、聖にも、岸上の意図が伝わるわけもない。
岸上の家に聖が泊まった日から、聖の仕事は大幅に増えた。
プログラムだけでなく、ユーザーとの打ち合わせにも、同行させられ、事務処理のパンチ、雑用と、契約に関係のない仕事も混ぜられ、聖が抗議すると『出来ないからやりたくないのか?』と嘲るように岸上に返される。
それが悔しくて聖は『出来ないわけないだろ』と咄嗟に言ってしまい、後で填められた事に気付くのだ。
それでも、ユーザーとの打ち合わせに同行すれば、どんな内容で話をするのか、どんな態度でいればいいのかを打ち合わせの場所に着くまでに岸上が教えてくれる。
どんなに大会社の偉いさんが相手でも、岸上の態度は変わらない。
卑屈になるわけでもなく、堂々と対等に渡り合う岸上を見る度、聖は岸上の部下で良かったと思う。
例え、仕事だけの事でも、岸上との時間を聖は楽しんでいた。
それとは裏腹に、これほどの人物が自分の下で働いてくれる訳がないと思うのだった。
聖が岸上の家に泊まった朝の出来事。
あれからも、岸上の態度は以前と変わらなかった。
時々、聖が無意識に岸上を目で追ってしまい、岸上の視線とぶつかる。
そんな時、聖はあわてて目を逸らしてしまう。
なんで、俺だけがあわてなきゃならない。
バカみたいだ。
おれ・・・・バカみたい・・・・・。
遊ばれただけかもしれないのに・・・・・・。
岸上を意識して、仕事に身が入っていないのが、自分でも分かる。
だが、岸上を捕まえて問い詰める勇気も時間も、この時の聖にはなかった。
時間だけが、聖の気持ちを置き去りにして過ぎていった。
◇◇◇◇◇
「げっ! やめてくれよぉ〜〜!」
夕日の傾く、オフィスの一角で端末に向かい、聖は独りごちた。
作成中のプログラムが予想通りの動きを示してくれなかったのだ。
「なんで、こんな結果が・・・・・・・」
何度繰り返しても、結果は同じ。
模範データとは程遠い数字の羅列。
全てのリストをプリンタから出力し、関連ファイルを洗い出す。
原因が解ったのは、それから2時間も後の事だった。
事によっては、判明するのに2・3日掛かる場合もあるのだから、幸運だったとも言えるのだが・・・・・。
その時の聖には時間がなかった。
瞬く間に時間は経過して、締め切りまであと1日。
聖は追い詰められていた。
納品迄に、プロジェクトリーダーの岸上が全体のチェックをする。
そのために、最低でも納品3日前には仕上げておかねばならない。
今回のバイトは変な事ばかり。
寝不足は続く。
学校で居眠りはする。
注意力は散漫になり、人の話を憶えていない。聞いてもいない。
仕事の事で頭がいっぱいの筈なのに、妙に気になる事もある。
その割に仕事は進まない。
こんなギリギリになって、18本のプログラムを修正する羽目になるなんて・・・・・。
翌日まで、確かに14時間ある。
だが、一番遅く残っている者でも、12時には帰るだろう・・・そうすると、5時間。
頭の中で素早く計算し、聖は途方に暮れていた。
バイトの聖ではフロアの鍵を預かる権利はない。
徹夜はしたくても、社員の誰かが残らない限り出来ないのだ。
1本につき16分。
───
ちくしょー・・・・・・・なんだってこんな
聖は震える拳をデスクに叩きつけた。
いくら聖でも、到底無理な相談であった。
だが、やるだけの事はやってみよう。会社で全部出来なくとも、最悪の時は家に持ち帰って徹夜すれば・・・・・。
そう思い直して、聖はキーボードを叩き始めた。
緊迫した空気がそこだけに張り詰めている。
普段ならば、同じフロアーで誰かが冗談でも言えば、お愛想笑いだけでも返す聖が、独り仕事にのめりこんでいる。
その、まるで余裕のない様を見受けて、岸上は聖が一心不乱に見つめ続けている画面を後ろから覗いていた。
誰かが後ろに立っている気配を認めても、聖は振り返る気持ちにはなれなかった。
人の事など気に掛けている場合ではなかった。
「項目構造が一番複雑なやつだな。この間の変更を忘れたのか? それとも、後回しにしてたのか?」
不意に後ろから声を掛けられ、聖はキーボードを打ち損ねた。
ピィー、とイヤな機械音が響く。
間違いを減らす為にここではキーボードにエラー音が設定されている。
まさか、後ろにずっと立っていたのが岸上だとは思いもよらなかった。
ここ2,3日打ち合わせで会社にいなかったし、聖が今日出社した時にも岸上の姿は見られなかったからだ。
恐る恐る後ろを振り返ったその瞳には、やはり、岸上の顔が映っていた。
岸上からの質問に答えられず、聖は無言で俯いた。
よりによって、こんな所を岸上に見つかるなんて・・・・・・。
滅多にないミスなのに・・・・・。
ミスを隠したい訳ではなかった。
自分が追い詰められて、余裕のない様を岸上には見せたくなかったのだ。
岸上の前では、何があっても動じない、完璧な自分でいたかった。
取り乱した姿など見せたくはない。
小遣い稼ぎのいい加減な子供だなんて言わせない。
聖はいつも、そうして突っ張ってきた。
「何本ある?」
岸上の質問に聖は視線を逸らした。
「何本ミスったか聞いてるんだ!」
聖の方を掴んで岸上は問いつめた。
「僕のミスですから、僕が今日中に始末します」
岸上から視線を逸らしたまま、聖は声を絞り出した。
「俺がいつ、誰の責任かを聞いた? 質問にちゃんと答えろ! 聖!」
「・・・・・十・・八本・・・・」
「で、何本出来たんだ」
「八本・・・・」
詰問口調の岸上に聖は唇を噛んだ。
「残り十本・・・・・一人じゃ無理だな」
「出来ます。絶対何があっても仕上げますから、岸上リーダーは先に帰って下さい」
自分のプライドに賭けて、担当した仕事を一人でやり遂げようと、必死に発した聖の言葉に岸上は耳を貸さず、聖の仕事を手伝えそうな人間がいないかを考えていた。
社内に残っていたのは他のプロジェクトで動いている人間ばかり。手伝えそうな者は3人ほどいたが、調べてみれば内二人は直帰。後の一人は既に帰宅してしまった事を知る。
そうこうしている内に、社内にいた者が次々と挨拶を交わし帰っていく姿が目の端に映る。だが、彼らに声を掛ける訳にはいかない。
何事もなかったかのように「お疲れさま」と快く帰すしかない。
リーダーとして、他のプロジェクトに支障を来すような行動はとれない。
後2,3人もいれば、聖に徹夜まがいの仕事をさせずに済むものを・・・・。
チッ、と一つ舌打ちをして、書類を手早くコピーし、聖の目の前に放り出した。
「残りに印を付けろ」
「そんな事してる時間があったら、少しでも・・・・・」
「時間が惜しいならさっさと書け!」
頭ごなしに命令されるのが聖は大嫌いだが、その時の岸上は鬼気迫るものがあった。
しぶしぶ修正前のプログラムコードに丸を付けた。
それをひったくるように奪った岸上は隣の端末に向かってキーボードに指を走らせ始めた。
「僕一人で出来ます。大丈夫ですから」
誰の助けも受けたくはない事を聖は訴えた。
当然、こう言えば、やめてくれると思っていた。
だが、返ってきた応えは思いもよらないものだった。
「自分一人で仕事をしていると思うなら大間違いだ。お前は無理矢理にでもこれが間に合えば満足なんだろうが、間に合わなかった時の事を考えて言っているのか? それで一人前に仕事をしているつもりなのか?」
「なっ・・・・、なんだって!」
「所詮は学生の自己満足の為のバイトって事さ。社会人なら、自分の任された仕事でも、出来る事、出来ない事ははっきりとその場で言うものだ。お前のように出来ない事を無理してでもというのは、結局の所、周りに迷惑なだけだ。俺達は顧客相手に商売している。絶対に期限を守らなきゃいけない。お前に付き合って危ない橋を渡るわけにはいかないんだ。わかるか?」
「でも・・・」
「でも、じゃない。俺達はこれでメシを食ってる。一度信用を無くしてしまったら、取り戻すのに何倍もの時間をかけて、しなくてもいい苦労を誰かがするんだ。おまえのちっぽけなプライド一つの為に」
そこまで言われて、聖は何も言い返す言葉を失ってしまった。
完敗だ。
ここまで見抜かれていたから、だからこの人は俺を子供扱いしていたのか・・・・・。
そんな事を思うと、涙が込み上げてきた。
実際、聖は14歳の子供なのだ。
最初から個人の勝ち負けにこだわって行動していた聖と、今の岸上とでは次元が違っていたのだ。
それでも、岸上に泣き顔は見せられない。
両手で頬をパンッ、と叩いて聖は仕事を再開した。
凛とした、少年らしい表情を横目で伺っていた岸上は表情を緩めた。
聖があそこまで言われて、仕事を放り出すような人間でなかった事が岸上には嬉しかった。
真夜中のオフィス街が真っ暗になっても、小さな5階建てのビルの一室はキーボードの二重奏が響いていた。
空が白み始め、小鳥が鳴く頃。
聖はキーボードから手を離し、溜息を吐いた。
やっと完成した。
こんな時、いつも身体に漲る充実感は無く、岸上に抱く劣等感と疲れだけが聖にまとわりついていた。
「なんて顔してる。無事に間に合ったんだ。もうちょっと嬉しそうな顔をしろ」
微笑んだ岸上にそう言われても、聖は明るい気分にはなれなかった。
自分のプログラムを人に弄らせるなんて、初めての事だ。
岸上の判断は正しかった事は解っている。
聖一人では、やはり間に合わなかっただろう・・・・・・。
結果ははっきりと出ていた。
けれど、理屈では理解出来ても、感情は別の所にある。
自分の仕事を人に手伝って貰わなければ出来ないなんて、情けないやら、悔しいやらで、どうにも割り切れなかった。
無意識に唇を噛み締めていた。
涙が出そうなのを必死に堪えて・・・・・・。
聖は初めての敗北感を味わっていた。
「お前は自分の仕事をやり遂げたんだ。何を悔やむ事がある? 俺に説教された後もお前は腐らず、仕事からも逃げなかっただろう。解釈は違っても責任を果たそうっていう気持ちを捨てないお前は立派だった」
いつの間に買ってきたのか、岸上は聖に缶コーヒーを差し出した。
「でも、あなたがいなければ間に合わなかった」
岸上に初めて誉められたというのに、聖は素直に喜べなかった。
自分の後始末も出来ないなんて・・・・・・・。
プライベートな感情に振り回された自分の未熟さが悔しい。
「作る本数が決まっていても、時間外は働かない。決まった期間が過ぎれば関係ない。そんな人間は正社員でも山程いる。最初はお前もそうかと思っていた。だが、お前は違った。俺はそういう不器用な奴が好きだ」
聖の肩を叩いて、穏やかな口調で岸上は話した。
「・・・うそだ」
いつもとまるで違う岸上に聖はとまどいを隠せなかった。
「また、一緒に仕事がしたい」
自分がこの人にこんな風に言って貰える訳がない。
いつだってこの人に逆らってばかりいた。
そんな奴とまた仕事がしたいなんて・・・・・・。
「俺は滅多に人は誉めない。お前も良く知っているだろう」
確かに、岸上が人を誉める所を聖は見たことがない。
決してお世辞の言えるタイプでもない。
「その俺が誉めたんだ。もっと嬉しそうな顔をしろ」
岸上は微笑みながら聖の頭をコンと叩いた。
────また、一緒に仕事がしたい
岸上にこんな事を言わせた人間はいなかった。
つづく