伊丹市の文化財のページ
1.師直塚(もろなおづか) 市内池尻
足利尊氏の執事で極悪非道の権勢をほしいままにした武蔵守高師直(こうのもろなお)の供養塔である。師直は天正6年(1351)播磨の松岡城を出て京都に向かう途中、この地で待ち受けた上杉重能(しげよし)の子顕能(あきよし)らに父の仇として討たれて果てた。この碑は大正4年(1915)、村人の手によってたてられたものである。
2.有岡城跡 (国指定文化財 史跡)
南北朝時代から代々伊丹氏の城として発展してきた有岡城(伊丹城)は永正17年(1520)にはその城下町まで取り込むという惣構構造の兆しが見られ、その後、一向宗との合戦など数々の戦いの中で、次第に強化されていった。伊丹氏を破って入場した織田信長方の荒木村重は、信長の命により有岡城と改名し、摂津一国の軍事上の中心として大改修を行い、本城・侍町・城下町と町全体を堀と土塁で囲み、北・西・南に砦を配した、惣構の城を完成させた。天正6年(1578)村重は信長に反旗を翻し、大群に包囲されておよそ10ヶ月にわたる攻防の末に落城した。その後、池田之助が城主となるが、天正11年美濃国に転封され、廃城となった。江戸時代、旧有岡城下町として栄えた伊丹郷町は伊丹村をはじめ15ヶ村が一続きとなって形成された在郷町で、寛文元年(1661)には伊丹郷町の大半が近衛家の所領となった。
有岡城の本城(主郭部)は掘跡や土塁が残っていたが、明治にいたって、鉄道の開通により取り壊された。明治50年より残された部分の発掘調査が行われ、遺跡の保存策が講じられることになり、現在の史跡公園として整備された。
3.御願塚古墳(南神社)
兵庫県文化財指定
指定年月日 昭和41年3月22日
所有者・管理者 伊丹市
御願塚古墳は前方部の短い帆立貝形の前方後円墳です。全長は52m、後円部の径39m、高さ7m、前方部の長さ13m、幅19m、高さ2mです。墳丘の周囲には幅7〜11mで蹄形の周濠が巡ります。埋葬施設の構造は明かではありません。墳丘から、形象埴輪、円筒埴輪、須恵器片が出土しました。また、最近の調査で周濠の外側に埴輪列と溝が巡ることが確認されました。以前この付近には、温塚(ぬくめづか)・掛塚(かかりづか)・破塚(やぶれづか)・満塚(みちづか)といった古墳があり、本塚を含め、「五ヶ塚」と呼ばれていました。この古墳は古墳時代中期(5世紀頃)、稲野地方に勢力をもつ豪族の墳墓と考えられている。
(兵庫県教育委員会)
4.伊丹廃寺跡(国指定文化財 史跡)昭和41年3月22日指定
古くから、この地に古代寺院があったということは、伝説として知られており、礎石や瓦なども発見されていた。昭和33年春、耕作中に水煙の残欠が偶然発見されたことから、にわかに考古学上の関心が高まり、甲陽史学会によって発掘調査が行われることになった。以来8ヶ年にわたる調査の結果、幻の寺はその全貌を明らかにすることができた。東に金堂跡、西に塔跡、これをめぐって回廊跡、さらに西門、北門跡が確認された。また、自衛隊伊丹駐屯地内に講堂らしい遺稿も認められた。これによって法隆寺の伽藍配置とほぼ同じ規模で奈良朝前期の建立と推定されるに至った。水煙、川原、風鐸、九輪、摶仏等の出土品は伊丹市立博物館に保管展示されている。
臂岡天満宮に残る
伊丹廃寺の礎石5.慈眼寺 木造釈迦如来座像(国指定文化財 有形文化財 彫刻鴻池字村西。天正2年(1574年)の一石五輪塔があります。この寺の仏像は鎌倉時代の慶派(運慶・快慶などの仏師グループ)の作で、国指定文化財という超ド級の大物です。しかもその経緯がなんともドラマチックだった。つまり、それまで、“無名”だった、お釈迦さんが修理に出されたとき、その胎内から多くの墨書銘が見つかった。その結果、建久6年(1195)に作られた、トップクラスの仏像と判明。市や県の指定を飛び越えて、平成2年、いきなり“三階級特進”の国指定となり、ひのき舞台に躍り出たのである。
6.法巌寺の大クスノキ(県指定文化財 天然記念物)
法巌寺にある推定樹齢500年のこのクスノキは、幹周りが6.2m、樹高約28m、大風の被害により大枝がおれるなどの損傷がありましたが、枝振りは力強く、現在も旺盛な樹勢を保っています。境内に入ることはできませんが、塀越しに見上げても、その力強さに圧倒されます。
7.昆陽寺山門(県指定文化財 有形文化財 建造物)
『今昔物語』巻29に昆陽寺(小屋寺)の鐘が盗まれた話が載っている。
織田信長の兵火にかかって一山の堂塔を消失したという。山門は、旧西国街道に面して建っている。上層周囲に縁をめぐらし、細部にみる絵様繰形(えようくりかた)の形式手法は江戸中期のものである。内部戸口柱を通柱として、上層柱をも兼ねる構法は珍しく、斗きょう部中備え間斗上の双斗肘木(ふたつどひじき)と妻飾虹梁(つまかざりこうりょう)下の大斗花肘木(だいとはなひじき)の意匠は前代のそれをよく残している。江戸時代中期における豪壮な山門は、県下でも類例が少なく、貴重な構造である。ちなみに、伊丹廃寺(良蓮寺?)や猪名寺廃寺(法園寺)も、信長の焼き討ちにあって、炎上。さらに清澄寺(清荒神)、中山寺、多田院(多田神社)など、近隣の寺々も消失したという。その後昆陽寺は規模の縮小を余儀なくされ、江戸時代に再建された。現在に残る薬師堂(本堂)、山門、観音堂、行基堂、鐘楼などが、それである。同じ寺元地区にある正覚院、一乗院、遍照院は、かつて二十三坊に名を連ねた昆陽寺の塔頭(たっちゅう)だという。正覚院の南側には、行基遺跡の一つ、閼
8.昆陽寺観音堂(県指定文化財 有形文化財 建造物)
昆陽寺観音寺は、桁行3間、梁間3間、一重寄棟造正面向拝付、本瓦葺きである。建立年代は明らかではないが、様式手法からみて、山門再建に先立つ時期と思われる。4面に軒柱を立て、その軒内3面に、切目縁(きりめえん)をめぐらし、正面に一軒の向拝を付す。総じて簡素な建築ではあるが、側まわりの海老虹梁(えびこうりょう)や向拝等の手法は、江戸初期の特徴をよく示している。この地方における江戸初期の数少ない遺稿の一つとして貴重である。
9.旧岡田家住宅(国指定重要文化財 有形文化財 建造物)
城と城下町を土塁と堀で囲んだ惣構えの有岡城は、荒木村重の時に織田信長に攻められて落城しました。その後江戸時代になり、残った城下町から伊丹郷町に発展していきました。寛文元年(1661)に郷町の近衛家領となり、その庇護の元酒造業が盛んになりました。伊丹の酒は「丹醸」とよばれ、良質の清酒として江戸の人々に人気がありました。伊丹の酒は酒樽(4斗樽)に入れられ、大部分が江戸に運ばれましたが、その量は特に文化元年には(1804)27万樽(1升瓶に換算すると、約千百万本)にものぼり、最盛期を迎えました。当時の酒蔵は本町筋(現在の産業道路)を中心に立ち並んでいました。永保2年(1674)に旧岡田家住宅もその一つで、酒造業で栄えた郷町の歴史を貴重な物といえます。これまでの郷町内での発掘調査は230ヶ所を超え、このうち酒蔵の発掘調査は27例を数えます。現在も小西酒造の冨士山蔵の跡地(伊丹1丁目)で発掘調査を行っています。酒蔵は時代と共に少なくなってきましたが、発掘調査を手掛かりにして、当時の面影を知ることが出来ます。
10.発音寺(ほつおんじ)
飛鳥山発音寺。浄土宗の尼寺で、慶安元年(1648)建立され、市指定文化財の大日如来坐像、十一面観世音菩薩立像と、三面大黒天立像が安置されています。こぢんまりとしたお寺ですが、多くの仏像が安置されています。普段は、一般の人は入れません。大日如来坐像は、脇壇仏として安置されている像高84pのヒノキ寄せ木造り。像内に経典や造立願文が納入されている可能性もあります。本尊十一面観世音菩薩立像は像高170.3p。享保20年(1735)奈良の唐招提寺から移されたと寺伝にあります。三面大黒天立像は像高148p。大黒天像としてはもちろん、仏像彫刻としても異例の大作であり、寄木造で漆塗りが施されています。大黒天は平安時代後期より作例が見られ、当初しスマートな憤怒相に造られていましたが、次第に大国主命(おおくにぬしのみこと)と習合して七福神の一神として信仰されるようになり、短躯でふくよかな姿に表されるようになりました。この像も作風から造立時期は江戸時代と考えられ、宝暦年間(1751〜1764)に大坂長町の毘沙門堂(びしゃもんどう)から発音寺に移されたといわれています。平成7年1月17日の阪神淡路大震災で倒壊しましたが、京都で復元補修されました。
11.鴻池神社本殿(県指定文化財 有形文化財 建造物)
12.春日神社本殿の付、棟札2枚(県指定文化財 有形文化財 建造物)
13.和泉式部の墓
旧西国街道の伊丹坂の上にある旧村畑にあります。江戸時代の郷土誌「有岡古続語」には「ほとんど地中に埋没しており」と記されているので、後で、地中から掘り出したことがわかります。そのため、保存状態がきわめて良く、花崗岩で造られた、美しい形の五輪塔です。現在存在しているのは、空輪・風輪・水輪の三輪だけで、火輪と地輪は見あたりません。式部は平安時代の女流歌人で「和泉式部日記」も綴りました。夫保昌の任地国丹後に下った式部から「便りがあったか」と中納言定朝に聞かれた式部の娘小式部内侍が「大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天の橋立」と即座に和歌で答えた話は有名です。式部の歌は1500首余り残っていますが、伊丹と関係があるのは、「津の国のこやとも人をいうべきにひまこそなけれ芦の八重葦」という1首だけです。この歌の碑は、端ヶ池公園の東南に建っています。
14.多田街道の道標
この道標は元禄14年(1701)に作られました。伊丹には東西に西国街道、南北に多田街道が通っていました。多田街道は、江戸時代に伊丹郷町を起点とする多田神社への参拝道であり、当地北村を通り、川西市の久代村などを通って多田へと続いていました。道標については、伊丹市内に現在21基が残っていますが、博物館にもそのうち5基が収蔵されています。中でも、市指定文化財の寛文9年(1669)銘道標は、在銘道標としては市内で最古であり、兵庫県下でも4番目に古いものです。
15.辻の碑(つじのいしぶみ)
この碑は、西国街道と多田街道とが交差するいわゆる「辻」に建っています。高さ92pの自然石で、鋭角を上方に向けて建てられ、現在はお堂に中に安置されています。表面には銘文があって多くの文字が刻まれていたようではあるが、現在は「従東寺十里」(とうじよりじゅうり」の他は読みとることができません。記録によると、従東寺十里。従関戸七里。従須磨七里。従天王七里。従大小路七里。とあり、この碑のある当地辻村が摂津の国の中央であることを表示するために建てられたことがわかります。東寺:京都教王護国寺。関戸:山城との国境である大山崎関戸院。須磨:播磨との国境、今の神戸市須磨。天王:丹波との国境、今の三田市母子天王嶺。大小路:和泉との国境、今の堺市大小路町。現在は町名も北伊丹になってしまい、この辺りが辻村と呼ばれていた名残は、バス停留所の名前に残るだけとなりました。
16.教善寺(きょうぜんじ)
西国街道と多田街道が交わる地点より少し北側。この辺りは、今も昔と思われるような旧家が残っており、旧街道のたたずまいを感じることができます。教善寺は明応5年(1496)の創建とされる、浄土真宗興正寺派の寺院で、その本尊が阿弥陀如来立像です。天正7年(1579)12月(寺創建後87年)織田信長が大挙して有岡城の荒木村重を攻めたとき、現在の緑が丘:旧字「北良蓮寺(りょうれんじ)・南良蓮寺」自衛隊総監部付近一帯にそびえ立っていた、巨刹「伊丹廃寺」(霊蓮寺・龍蓮寺・良蓮寺の説あり)が民家と共に灰煤に帰したとき、かろうじてその像の一つを本寺に移して奉ったのが、この本尊と伝えられている。(仏像レスキュー隊の活躍)
写真A:
かくれ部屋(勤王の志士“光平の間”)
写真B:天井には日本画17.鵯塚
18.御塚(おつか)経塚
妙宣寺の南西100mに御塚はあります。正しくは、経塚です。観応2年(1351)妙宣寺が法華宗に改宗したときに仏像・経巻・釈書をことごとく皆この地に埋め、丘上に松を植え、もとの真言信仰より決別したといわれています。伝説によれば、そのとき黄金の鶏を埋め、村が貧しくなったらこれを掘って救えと伝えられていたそうです。この塚を、掘ろうとした人は、病気になったり、死んだりしたともいわれています。
左の写真は2003.11.30のもの
19.大覚山妙宣寺と竹塚
昔は真言宗のお寺でしたが、文和3年(1354)大覚大僧正(1295京都生まれ)が布教のため、伊丹にこられました。そのとき、大鹿村は大干ばつで雨乞いの最中でしたが、大僧正が雨乞い祈願をしたところ、奇跡の雨が降ったといわれています。その感謝の証として、村をあげて法華宗に改宗し、大覚僧正を開祖としました。これが「大鹿丸法華の雨乞い伝説」として伝えられています。この寺の四脚門(最も格式の高いとされる)は、1173年の建立と伝えられており、伊丹でも非常に珍しい形式をとっています。竹塚は大覚大僧正の愛用された紫竹(しちく)の杖から根を出したと伝えられており、別名黒竹とも呼ばれています。
20.猪名野神社
猪名野神社は野宮天王宮・午頭天婦宮と呼ばれていましたが、明治2年の神仏分離で猪名野神社として、伊丹郷町の氏神として信仰を集めています。現在の社殿は貞亨2年(1686)から3年にかけて建立されました。向拝に唐破風が付き、春日造りで、祭神は猪名野坐大神と称し、国造り・農業の神様として素戔嗚神(すさのおのみこと)を祀っています。又、伊丹は古くから相撲が盛んで、元禄15年(1702)に御輿渡御(みこしとぎょ)が行われ、現在の猪名野神社より尼崎の猪名寺廃寺跡にある猪名野神社の元宮まで巡行されるその時に、奉納相撲も行われ伊丹をはじめ、近郷近在の力自慢が集まって盛大に行われたそうです。文献によると喧嘩口論が絶えず、度々近衛家や勧進元の金剛院より中止が申し渡されるというようなことがあったそうです。また、義太夫に関取千両幡(のぼり)という外題があります。作者は近松半二・三好松洛ら7人の合作で明治2年(1767)に初演されています。その登場人物の中に猪名川という関取の名がありますが、これはおそらく、猪名川周辺で相撲が盛んであったので、この名前が付けられたのでしょう。また、この猪名野神社は、防衛強度を誇る有岡城の城塞の北端をなし、堀深く土塁高く、攻撃正面が狭い上にきしの砦(北の砦)があって攻めにくい、場所であった。現在も、土塁の跡などが残っている。
写真B:鬼面句碑の後ろは土塁跡
写真C:修理固成(しゅりこせい)
ただよえる海原を固め成し、日本の国を…
写真D:境内には酒造り関連の大きな灯籠が多数寄進されている(大和田屋きんべえ)21.臂岡天満宮(ひじおかてんまんぐう)北村鋳物師にあるため、別名「いもじの天神」と呼ばれている。祭神は菅原道真公で、醍醐天皇の昌泰4年(901)、道真公が筑紫に左遷される道中、ここ万代岡の景勝を愛でて詩を詠まれ、しばらくひじを枕に休まれたと伝えられており、それ以後この岡を「臂が岡」と呼ぶようになったよいう。道真公はこの地を去るに及んで、この聖地の荒れるのを惜しみ、「吾れ赦免となって生あらば、此地繁昌の霊地となすべし」と誓いをたてて九州に下ったが、ついに赦免されることなく、延喜3年(903)、筑紫の安楽寺において逝去された。その後、一条天皇の正暦3年(992)、道真公が赦免されることになり、勅使が筑紫に下る途中、道真公の自画像を納めて一社を建立したのが、現在の臂岡天満宮であると伝えられている。近年、境内が整備されて、梅の木が植えられ、春の桜、夏のつつじ、秋の紅葉など、四季景勝の地としても親しまれている。
22.清酒発祥の地(鴻池稲荷祠碑)鴻池中北13番地。鴻池稲荷祠碑は、清酒発祥の地鴻池中北の児童公園内に立っている。この碑は鴻池家の由来を記しており、碑文が初代の幸元(ゆきもと)から数えて7台目の元長の長男、元漸の要望に応えて、江戸後期の儒者であり、懐徳堂の教授であった中井積徳(履軒りけん)によって撰されたものであることが書かれている。この碑は、中国の古代貨幣「布貨」(ふか)の形をした砂岩製で、花崗岩製の亀趺(きふ)(亀形台石)の上に立てられている。制作年は、天明4年(1784)から間もない頃と考えられる。鴻池グループ繁栄のもとになったのは、鴻池新右衛門(幸元・新六)の始めた酒造業であった。彼は慶長5年、鴻池村において、従来の濁り酒から清酒(双白澄酒)(もろはくすみざけ)を作ることに成功しました。
23.猪名野神社のムクロジムクロジ科ムクロジ属〈無患子〉山地に生え、高さ15〜20mになる。葉は偶数羽状複葉で互生する。小葉は4〜6対あり、長さ7〜15cmの広披針形で皮質。6月頃。枝先に大形の円錐花序を出し、淡緑色で、直径4〜5mmの花を多数開く。雌雄同株、果実は直径2cmの球形で、中に黒い種が1個ある。種子は羽根突きの球にする。皮は石鹸の代用として使用されてきた。用途:庭木、器具材。分布:本州(新潟・茨城県以西)、四国、九州、アジア東南部(台湾・朝鮮・インド・ミャンマー)等に広く分布。このムクロジは、樹高約13.5m、枝張り東西約14m、南北約12m、根張り95cmで、特に巨木であるので、文化的価値が大きい。
参照:伊丹の巨木のページ24.容住寺(ようじゅうじ)荒牧字木の下。聖徳太子建立と伝えられる伊丹唯一の天台宗の古刹で、十一面観音坐像は、伊丹市における最古の仏像と考えられています。縁起によると、太子が大坂の四天王寺から中山寺に往還されたおり、この地の柳の下にある大石に腰掛け憩いをとっていたとき、霊感を受け、「吾れ此の所に容(かたち)を住(と)め置きたし」と、お堂を建立して、十一面観音を本尊とし、太子16才の像を安置して容住寺と号したと伝えられている。仏像は平安中期の仏像の特徴をよく示している。門前には、太子が馬を繋いだという「駒繋ぎの松」があり、境内には「太子腰掛け石」や、市内最古の鐘堂があり、近くには、太子が衆生(しゅうじょう)を済度(さいど)せんと名香を薫じた所と言われる「香の藪」の碑が建立されている。(天日神社横の公園内)
25.旧陸軍施設の門柱北野1丁目。戦争中の、昭和17年、荒牧・荻野・鴻池の一部、約33ヘクタール(10万坪)が軍によって買収され、この地に陸軍の獣医資材支廠長尾支廠が建てられ、おもに軍用馬の蹄鉄などの生産や、包帯・医薬品の保管が行われました。ここの並ぶ3本の柱はその正面の門柱で、悲惨な戦争の歴史を今に伝える市内では数少ない戦争の遺跡の一つです。
26.素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)中野北1丁目。浅野孫左衛門が新田中野の開墾を完成した際、ここに社殿を建てたもので、中野の氏神です。(この門前の通りをまっすぐに南へ下がると昆陽池にでます)
27.墨染寺
伊丹周辺は、元禄時代の俳人・上島鬼面ゆかりの地。ここ墨染寺には、鬼面親子の墓があり、「秋は物の月夜烏はいつも鳴」の句碑が建っています。又この寺には「女郎塚」と刻まれた慰霊碑もあります。
28.浄源寺の大銀杏
浄源寺(市バス下河原)の境内には、樹齢330年(推定)高さ20m幹周り2.8mの大イチョウ(市天然記念物指定)があります。このイチョウに桐の木と、ムクの木の二種の樹木が寄生しています。母樹のイチョウ(雄株)も巨大ですが今も樹勢旺盛で寄生しているムクの木の径も25cmはあり、寄生状態も極めて良好です。この巨木は、遙か遠方からも望まれ、江戸へ向かう際の一里塚的存在であったとも言われています。
参照:伊丹の巨木のページ29.むぎわら音頭(県指定無形民族文化財)
8月15・16日午後7時南野の東浦公園にて。
県指定無形民族文化財に指定されている、「むぎわら音頭」の保存、継承のため、保存会が実施。
8世紀中頃、昆陽池を造った際にその工事に従事した人々の慰労と先祖の供養のために踊ったのが始まりで、その後形を変えながら現在の盆踊りの形態となった。