東 日 本 大 震 災

〜 遠く離れた 阪神・淡路より Y 〜

  仙台空港   アーカイブシンポジウム  亘理町
  名取市   仙台市若林区荒浜  七ケ浜町


六度目の東北
 昨年の石巻市から宮古市への旅で、当分東北への旅行はないと思っていました。しかし、西宮市震災写真情報館が、仙台で開催される「東日本大震災アーカイブシンポジウム」に招かれたのです。アーカイブの専門家ではないし、それを意識して仕事をしていた訳でもありませんが、「東日本に何かがしたい」という気持ちに変わりはなく、仙台への旅となりました。


 1.仙台空港 (1月10日)
 仙台駅に着いたのが午後2時半頃。ホテルに入るにはまだ時間があるので、その足で仙台空港アクセス線に乗り換え、仙台空港へ。大阪を晴天で出発したものの、福島当たりから車窓は暗くなり、雪が降り初めていました。
 空港に着き、電車を降りると、ともかく寒い。これが東北の寒さです。空港と周辺を合わせて2時間くらいの時間を予定していましたが、1時間が限度でした。
     
 仙台空港が津波に襲われる映像は何度かテレビで見ました。それでもここは東北の玄関口。復旧も思いのほか早かったのを覚えています。仙台に行くからには、復興のシンボルとも言える空港を見ておきたいと、空港に着きはしましたが、暖かいロビーでは何も見えず、寒いのは覚悟で展望デッキへ上がります。もっと遠いと思っていた海は意外に近く、新聞で見た津波の押し寄る松林に似た風景がそこにはありました。空港の再開はしたものの、周辺には家があったのか、畑があたのか、全く分からない空地が拡がっていました。
 寒いけれど、空港の外も歩いてみようと、駅のエスカレーターを下りて行くと、「2011・3・11 東日本大震災 津波浸水深ここまで」のプレートがありました。思ったより低い地上3m程度で、この高さであれだけの被害になるのですから、津波の恐ろしさを再認識しました。
     



2.東日本大震災アーカイブシンポジウム(1月11日)
     
 2013年1月11日(金)、総務省、東北大学災害科学国際研究所、東北大学附属図書館の主催する「東日本大震災アーカイブシンポジウム−過去と現在の記憶・記録を未来へ伝えるために−」が仙台国際センターで開催されました。今回は阪神淡路大震災の取り組みとして、「阪神大震災を記録しつづける会」・「西宮市(震災写真情報館)」・「北淡震災記念公園 野島断層保存館」の3団体の取り組みの紹介と、青森から福島の被災4県と総務省および国立国会図書館の取り組みについての事例紹介、最後にパネルディスカッションと盛り沢山のシンポジウムでした。アーカイブの専門家ではない素人の私ですが、震災を記録し伝えることは、今までの活動と共通するものがあり、退屈するどころか、どんどん引き込まれて行ってしまいました。
 阪神・淡路大震災では立ち上げが遅れ、残せなかったものも多くありましたが、東日本大震災では既に動き始めているし、まだまだ記録として残せる物があります。そして、記録するだけではなく、それを活用し次の災害に役立てていただけるものと確信しました。



仙台周辺の被災地へ (1月12日)
3.亘理町
     
 せっかく仙台まで来たのですから、今まで行くことができなかった仙台周辺の被災地を出発までの時間で巡ることにしました。おみやげは駅で買ったし、仮設商店街の情報もないので、支援という意味では役に立ちませんが、復興の過程を見せてもらうことにしました。
 レンタカーを借りて仙台東部有料道路を南下します。時間の制約から限度と思われる亘理町で高速を降り、一般道で仙台へ戻る行程です。亘理町は見渡す限りの田園地帯。地元の人は見なれているかも知れませんが、雪山の風景はとてもきれいでした。震災復興をこの目でと、肩を張るのでなく、観光に来たつもりになった方がいいかも知れません。広々とした田畑は雪が残り、今は除塩作業が行われていました。まだまだ復興には時間がかかりそうです。


4.名取市
 閖上小学校
 阿武隈川を越え、国道を海側へ折れ、除塩作業の続く田園地帯眺めながら走っているとあっと思う間に岩沼市は終わり、早くも名取市です。閖上大橋の手前、まず着いた所は閖上小学校です。地震がなければ可愛い児童の声があふれている場所です。使われなくなった校舎が淋しそうに建っています。松林の中には、「開校百年記念」の石碑が倒れたままになっていました。ここに通っていた子どもたちの家はもう、この近辺にはないのです。

閖上中学校
 
 閖上中学校は、14人の生徒さんが亡くなられ、門を入った所には簡易な祭壇が設けられて自由にお参りができるようになっていました。「あの日 大勢の人達が 津波から逃れる為、この閖中を目指して走りました。街の復興は とても 大切な事です。でも、沢山の人達の命が今もここにあるこ事を忘れないでほしい。死んだら終わりですか? 生き残った私達に出来る事を考えます。」生徒の使っていた机に書かれた文章。「死んだら終わりですか?」の問いかけは、深く心に刺さりました。ここに暮らしていた人たちのための復興ができることを祈りました。先に来られていた方が帰った後だからよかったのですが、無人の校舎に向かって、こみ上げてくる涙を抑えるのに苦労しました。
 

日和山神社
 
 閖上地区の海岸沿いに、盛り土をしたような高台が日和山神社のある所です。以前は小さいながらも祠があったようですが、津波に襲われ、今は「富主姫神社」「閖上湊神社」と掲げられているだけです。神社の高台からは見渡す限り建物はありませんが、階段横に設置された津波の前後を写した写真からは、ビッシリと住宅が建っていた様子が覗えます。地震の揺れだけなら、残る家もあったと思われますが、津波はすべての家を流してしまったようです。約2万人の死者・不明者を出した東日本大震災。もうすぐ2年が来ようというのに、復興どころか、傷跡はそのまま残っていました。



5.仙台市若林区荒浜
 
 名取川を越え、仙台市に入り、海岸近くの道路を北上しようとしますが、復旧工事が進められていて、一般車両は回り道を余儀なくされます。やっと荒浜小学校の近くまでたどり着きましたが、そこから先は徒歩でも入ることができず、海岸を見ることはできませんでした。
 工事が進められてはいますが、人々の住んでいた場所は手つかず。「荒浜の再生を心から願う」と記された大きな看板には、移転を希望する人も、住み続けたい人も、「ふるさと荒浜が大好きです」と書かれ、ふるさとを愛するが故に、復興への道も険しいことが感じられました。



6.七ケ浜町
 荒浜から仙台に戻る予定でしたが、少し時間ができたので、多賀城市に向かって走ります。多賀城市も大きな被害を受けた所ですが、地理に不案内で津波被害を受けた場所にはたどり着けず、海を目指して走ると七ケ浜町へ入りました。
   七ケ浜町へ入った所は高台なのか静かな風景が続きました。ところが下り道になった途端に景色は一変。海岸沿いの家はすべて流され、空き地が連なっていました。小さな町ゆえ、ニュースで目にすることはありませんでしたが、ここも大きな被害を受けていたのです。



 今回は往復で3日間。主たる目的があっての残り時間での被災地巡りでした。どんな支援ができたのかと聞かれると、返す言葉はありません。しかし、新聞報道でしか知ることの出来なかった名取市の様子を、この目で見る事ができました。阪神・淡路の震災モニュメントを廻りながら涙したことがあります。名取市での涙もその時と同じです。阪神・淡路だからとか、東日本だからとか、区別する必要はないように思います。災害の事実を伝えていくこと。これこそが震災を経験した者の務めではないでしょうか。
 帰りの列車が仙台駅を離れました。窓の外は3日過ごした風景。「さようなら」と声をかけます。当分ここに来ることはないでしょう。これからは、遠く離れた阪神・淡路より、できる支援を考えたいと思います。

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