東 日 本 大 震 災

〜 遠く離れた 阪神・淡路より T 〜

1.東日本大震災発生 

 次の災害に備えるため、阪神・淡路大震災の経験を伝え続ける活動を続けてきました。しかし、あの東日本大震災の大津波は、私の経験など全く役に立ちませんでした。報道される被害の状況は日ごとに大きくなり、何もできない自分へのいら立ちが積り続けます。何かがしたい。けれど、一人で動くことが返って被災地に迷惑をかける結果となることは十分に承知しています。機会を待つことのみ。満たされない毎日が続きました。
 そんな時、関西広域連合から西宮市に派遣要請の来ていることを知りました。10日間職場を空けるのは申し訳ないけれど、私的な予定はすべてキャンセルして派遣の希望を出しました。決して若くはないけれど、今ならまだできる。16年前の経験を生かして。


 2.南三陸町へ
 登米市のホテルを出て東へ、北上川の曲がりくねった所を越え、国道398号線を直進。道路には所々に陥没があるものの、快適なドライブでした。関西では終わったはずなのに、東北はまだ桜の季節。山間に点在する桜を楽しみながら走っていると、山並みが切れた途端に風景が激変します。左手の川に廃材の塊が見えたかと思うと、目前にはこんな所にあるはずのない船。そこからはもうガレキの町。津波に流され、町の原形はとどめていません。カーナビにJR線があるけれど、どこがレールなのか駅なのか、まったくわからない状態。遠くに見えるトンネルが、かろうじて列車の走っていた場所を教えてくれました。
     
 モアイの橋を過ぎるともうすぐ  ここまで流されてきた船 JRのトンネルが見える
 津波を想定して建てられたはずの南三陸町の防災庁舎も鉄骨だけ。役場は流され、職員も多数亡くなられました。多くの犠牲者を出した志津川病院もよく見ると、3階部分に耐震補強の筋違が確認できます。地震を想定しながら、津波は考えなかったのでしょうか。南三陸町のみならず、すべての被災地に言えることですが。
 この町の業務を支援するのがこれからの私の仕事。阪神・淡路大震災では、大きな被害を受けながらも西宮市役所は残っていました。南三陸町はゼロからの出発。「復興」という言葉も口にできない状態です。何ができるのかを考えていたのは西宮にいた時のこと。ここに来た以上、目の前の仕事をやるしかないのです。16年前に戻って。
     
鉄骨だけ残った防災庁舎 多くの犠牲者が出た志津川病院  ガレキの散在する町中 
     
高さの差が運命を分けた   3階建の屋上に残された車 JRの軌道敷の向こうに船 
町中を見学する時間は取れないので、写真は通勤途中(毎日ここを通る)の車中から撮影したものを集めたものです。 


 3.支援業務
 支援業務は、避難所となっている体育施設ベイサイドアリーナ横の関西広域連合の南三陸町支援本部前での事務引き継ぎから始まります。この場所には自衛隊の救援基地もあり、あの特徴的な車両が結集している雰囲気は正に戦場です。
     
 避難所となっている体育施設  関西広域連合本部のテント 自衛隊の車両が結集
 周辺にはタンポポがあちこちに咲いて希望の光を振り撒いています。「巡りくる春を忘れずに/焼けた土を持ち上げて/空き地に咲いたタンポポのように/この街に生きて行こう/強く/強く」大声で歌いたいけれど、私が16年前の「さざんか」を覚えていないように、被災された方々には、タンポポを目にする余裕はないと思います。
 ボランティア活動をしている時は、パーカーにジーパン姿。今日は西宮市から貸与を受けた防災服。作業服と大差のないものですが、「西宮市」の腕章を付けると少々引き締まった気分になります。自由気ままなボランティアではなく、西宮市の看板を背負っての業務にあたるのですから。他市のメンバーも色は異なりますが防災服で集合です。私に与えられた仕事は「保健福祉課」の支援です。当初は避難所支援と聞いており、避難所で毛布にくるまって夜を過ごす覚悟はしていましたが、町の業務に支援の重点が移されていました。 
 
 保健福祉課での支援業務は、被災者生活再建支援金及び義援金の申請受付事務です。兵庫県内の市町(関西広域連合)派遣の7名と東京都から派遣の5名で担当します。多勢に無勢。16年前にも経験したことですが、とても町の職員だけでこの業務を進めることはできません。「兵庫県西宮市から来ました。」と言うと「遠い所、ご苦労様。」と大部分の方が言ってくれます。住民との距離が急に近づく瞬間です。明るく振舞っているだけとは思いますが、取り乱してもおかしくない被災状況でも、平静さを保つことのできる東北地方の方々の我慢強さを感じました。相手の話を聞き、伝えねばならないことは伝える。一人10分程度の受付ですが、途切れることなく受付は続きますので、瞬くうちに時間が過ぎていきます。ほとんどの人が流失による全壊。支援金を1日でも早くと思われるのも当然。受付は9時半からと掲示していても、8時過ぎには来られる人もあります。寒い所で長く待ってもらえないので中に入ってもらうと、自然と受付が始まります。勤務は、朝7時前にホテルを出て、帰るのが夜7〜8時。もちろん休日はありません。現在短時間勤務をしている私にとっては、かなりハードな勤務でしたが、意外と疲れは残りませんでした。被災地に何かがしたい。そう思い続けた気持ちが支えてくれたのだと思います。
     
テニスコートに建てられた南三陸町仮設庁舎 被災者生活再建支援金の 受付風景 鳴子公民館前の鳴子御殿湯駅
 南三陸町は避難所となるべき施設も流されたため、町外にも多くの方が避難されています。もちろん、その方たちは家と共に車も流されていますから、役場を訪れるにも交通手段がありません。南三陸町では避難所へ出向いての被災者生活再建支援金申請受付を行っていて、遠くは車で2時間半くらいの山形県境に近い大崎市の鳴子温泉まで行きました。道路に亀裂や陥没があり、決して気の抜けないドライブでしたが、張りつめた気持ちを和らげることのできるひと時でもありました。
 食事は、朝と昼がコンビニで買った「おにぎり」、夜はスーパーの売れ残り品と、被災食そのものでしたが、新幹線で往復し、夜は西宮市が確保してくれたホテルに泊まることができるという、思えば贅沢な支援業務でした。初めは8日間の支援業務を長いと感じていましたが、終ってしまうと短かった気もします。一緒に仕事をした南三陸町の職員や兵庫県内各市・東京都の職員とも親しくなれました。「がんばろう!南三陸」の垂れ幕のある本部前での記念写真は、南三陸町での活動を締めくくる一枚となりました。
 
「がんばろう!南三陸」 の前で記念撮影


 4.歌津地区へ
 業務最終日。午前中に事務引継ぎを済ませ、午後1時過ぎに栗原市で受付を行うメンバーを送り出してしまえば一応の支援業務は終了です。志津川地区は毎日通りましたが、同じ南三陸町の歌津地区への仕事はありませんでした。夕方までのわずかな時間で、歌津地区から気仙沼市に向けての海岸線を走ります。歌津地区のガレキ撤去は志津川地区に比べ、やや遅れているように感じられました。道路に打ち上げられた船はそのままになっているし、橋げたが流され、橋脚だけになった国道もそのままでした。
     
 橋脚だけが残る国道  志津川地区より被害が大きい 道路に打ち上げられた船
     
 歌津駅は駅舎だけが残っている  平成の森では仮設住宅の建設が進んでいる まだ早いけど、全国からの支援に感謝


 5.気仙沼市方面へ
 気仙沼市に向かう道路はアップダウンを繰り返しながら海岸沿いを通っています。坂道を降りて行くと「これより先 津波浸水想定地域」の標識が各所に立てられています。そこからは道路を越えたガレキが内陸に流れ込んでいます。「想像を超えた津波」とよく言われますが、標識の先はガレキの海。津波予想のされていた場所なのです。この場所を避けて住んでいれば、これだけ多くの命が奪われることはなかったはずです。「腹立たしい」を通り越して悲しくなりました。
     
 津波予想区域の標識は各所に  ガレキはまだまだ残っている 国道から見る海は静かでした
 それでも見つけました。津波の通り抜けた道路の土手にタンポポが咲いているのを。避難所や津波の来なかった場所で多数のタンポポを見ましたが、ガレキの中でタンポポを見かけることはありませんでした。でも咲いていました。津波に負けず花を咲かせたタンポポです。雨予報が出ていましたが、予想外の晴天。春の光をいっぱいに受けて咲き誇っています。海は、何もなかったように静かに波打っています。海とともに暮らしてきた多くの人たちの命を奪った海の怒りは何だったのか。「天災」だけで片付けるにはあまりに悲しい出来事でした。復興への長い道のりは始まったばかりです。神戸の焼け跡に咲いたタンポポのように、三陸のタンポポが「希望の花」となってくれることを祈るだけでした。 
     
 津波に負けず咲いたタンポポ  気仙沼市方面も大きな被害でした 冷蔵庫が流され、魚の臭いが漂います


 6.南三陸町を後に
   2時間余りのドライブを終え、志津川の本部で仕事をしていた職員を拾い、ホテルに向かいます。いよいよ南三陸町ともお別れです。昨日までは帰る頃は暗くなっていましたが、今日はまだ日が射しています。最後の見納めにと、志津川中学校の高台に上がりました。被害を受けた町内が一望できます。この一週間でガレキはかなり少なくなりましたが、今日も行方不明者の捜索が続けられています。新聞・テレビの報道を見てはいましたが、被害を受けた町の様子は想像以上でした。「悲しい。」でも、今回の支援をそれだけで終わらせる訳には行きません。家を流され、避難所から役場に通い、町のために精一杯頑張っている職員がいます。16年前の私たちのように。今度、ここを訪れる時には、きっと新しい町に生まれ変わっていることを信じて、南三陸を後にしました。 
南三陸町志津川地区の遠望 
 ホテルに帰り、8日間着続けた防災服を脱ぎました。「お疲れさん!」と声をかけて、もう着ることのなくなった防災服をバッグにしまいます。一度クリーニングはしましたが、すぐ着れるように、ハンガーに吊るしたままでした。ここに来て何ができたのか。胸を張って答えることができるものは一つもありません。ただ、刻々と動く役場の1週間を支えた一人であったに過ぎないからです。それでも、「被災地に何かがしたい。」と思い続けた気持ちに一応の決着を付けることができました。被害状況が異なり、かかる時間に差はあるものの、復興に向かう道は同じです。この経験を踏まえて、明日から再び、阪神・淡路大震災の「語り部」に戻ります。


 コスモスの詩のトップページに戻る  このページのトップへ 東日本大震災TOPへ