西宮市


15   瓦木中学校  モニュメント「日時計」

 瓦木中学校は、震災で女子生徒3人を失いました。3人を忘れないために、5時46分を忘れないために、太陽がある限り時を刻む日時計のモニュメントが造られました。三角形の針は不死鳥をイメージし、3人も一緒にはばたこうという願いが込められています。

   訪問日    2004年1月10日

16   甲陵中学校  ブロンズ像「翔」

 40年ぶりに母校を訪ねました。学校は年月と震災を経て様変わりし、当時を偲ぶものは老いて小さくなった桜が残っていたくらいでした。
 目的の震災モニュメントは、校門を入ってすぐの緑に囲まれ静かな「憩いの広場」にありました。少し盛りを過ぎてはいましたが、コスモスがモニュメントへ導くように植えられていました。

 モニュメントのブロンズ像には「未来に向かって生きていこう。だけど、過去のことも忘れない。」という思いが込められ、台座の碑文には「友を、教え子を失った悲しみは私たちの心から消え去ることはないだろう。けれど私たちはこの災害の中で知ることのできた人間の強さと温かさを信じ、人を思いやる心を大切に、犠牲になった人たちの分まで未来に向かって生きていくことを誓う」と記されています。

   訪問日   2003年10月20日

17   高木小学校  「復興の鐘」

 高木小学校では、5人の児童が命を失いました。5人の慰霊碑である「復興の鐘」は震災から半年後の1995年7月17日に除幕式が行われました。子どもたちに震災に負けず強く生きてほしいという思いが込められ、毎年1月17日の5時46分には地域の人たちと共に追悼の集いが行われています。鳴らされる鐘の音は5つ。亡くなった5人の児童に届くように‥‥。

   訪問日   2004年1月10日
         2004年1月17日

18   後呂和裁学院  「慰霊碑」

 震災当日、一つ目の任務を終え、市役所に帰る途中の国道2号線。渋滞というより駐車場と呼ぶ方が正しい混雑ぶり。動かない車の中で余震を感じ、揺れる電線を見上げていたその場所。まさかそこで、こんなに悲しい出来事が起こっていたとは思いませんでした。
 この慰霊碑は、後呂和裁学院の学院の学院長が亡くなった二人の生徒を偲んで、その年の8月に建立したものです。12年の時が流れ、当然当時を知る生徒はいませんが、あの日の出来事は後輩たちに受け継がれ、慰霊碑に花の絶えることはありません。
  
  訪問日   2007年10月7日

19   津門小学校  記念碑

 津門小学校の北門の傍に、全壊家1649戸、半壊家屋1326戸、犠牲者36人と刻まれた記念碑があります。古い家屋が多く、被害の大きかったこの地区の被災状況を残そうと、地域の社会福祉協議会が募金を募り97年11月に建立しました。私が初めて災害対応に当たったのがこの学校。無力の自分を痛感しながら、遺体安置所となった教室で、遺族の方の要望に応えられず、ただ「お待ちください。」を繰り返していた私。震災の傷跡は消えても、あの日の悔しさだけは忘れない。今日は11年目の1月17日。

 訪問日 2010年4月25日 他

20   真砂中学校  カモメのモニュメント

 真砂中学校の中庭にカモメをイメージしたモニュメントがあります。大空に飛び立とうとするカモメはまさしくカモメの水兵さん。 このモニュメントは、北海道・栃木・千葉・岩手・ニューヨーク日本人学校などで集まった義援金により建立されたものです。
 当時私はこの学校に約1月間救援物資の仕分け作業にに通いました。周辺の景色は大きく変りましたが、校内に足を踏み入れると、あの時の光景が甦ってきます。今日は13年目の1月17日。

 訪問日 2008年1月17日

21   仁川百合野町地区地すべり資料館   石碑「やすらかに」

 仁川沿いの住宅地の一本道を突き当たった所に、仁川百合野町地区地すべり資料館があります。ここでは、西宮だけでなく震災により各地で起こった地すべりの復興への歩みをビデオと模型で紹介し、震災に関する資料も展示しています。
 緑に囲まれた仁川渓谷は、8年前に一瞬にして34人の命を飲み込んだ悲しい出来事を忘れたかのように静まり返っています。しかし、小さな芝生広場の奥に建てられた石碑は今もあの日を語り続けています。石碑に刻まれた「やすらかに」の文字には、決して忘れることのできない大きな悲しみを潜ませている気がしました。

  訪問日  2003年8月3日

22   かぶとやま荘  三つの石組み「追悼・友愛・感謝」


 西宮市社会福祉センター「かぶとやま荘」玄関脇の記念碑は、1997年12月に西宮市老人クラブ連合会と秋田県老人クラブ連合会の共同で建てられました。被災地支援から始まった西宮と秋田の老人クラブの交流の中で生まれた「感謝」・「追悼」・「友愛」3つの文字が秋田県産の石に刻まれています。

        訪問日   2002年2月16日

24  西宮震災記念碑公園   追悼の碑・写真パネル

 西宮震災記念碑公園は、桜の名所として有名な越水浄水場の一角に、1998年1月17日、犠牲者の追悼と、震災を風化させず、語り継ぐことを目的にオープンしました。

 西宮市内で亡くなった1081人の名が刻まれた追悼の碑を取り囲むように、震災の記録写真を貼り付けた8本の円筒碑が配置され、訪れる人に、あの日の出来事を語りかけています。

 普段は静かな公園ですが、何時行っても必ず花束が供えられ、訪れる人の絶えないことを物語っています。

 訪問日 2002年1月17日
     2002年3月30日
     2003年1月17日 他

25   大社小学校  石碑「心やすらかに」

 大社小学校は震災直後、被災者が2400人を超える避難所となりました。そこで助け合い支え合い、極限状態を過ごした集まりはやがて「大社ファミリー」と呼ばれるようになりました。
 「心やすらかに」の石碑は、「ともに生きていこう」と、誓い合った象徴として、1年後に建立されました。石碑には、犠牲となった児童3名の名と、校区犠牲者88名と刻まれています。

 訪問日  2006年1月17日 他

27   夙川小学校  石碑「心やすらかに」

 夙川小学校では児童二人と校区内で55人の犠牲者を出しました。3日目に私が派遣された時は、混乱の最中でした。無理は承知。しかし言わねば気が済まない。人々の気持ちが落ち着くにはまだ時間の必要な時でした。
 石碑「心やすらかに」は校庭の隅の少し高い場所から震災を知らない子どもたちをを見守り続けています。再びあの悲劇が訪れないように。

 訪問日  2008年1月17日 他

29   香櫨園小学校  追悼のプレート「大震災に負けないで」

 香櫨園小学校の体育館の壁に、毎年の卒業生の名を刻んだプレートが並んでいます。平成7年のプレートは「大震災に負けないで」。そして、その横に「ともに学び ともに遊んだ香櫨園っ子」として、震災で犠牲となった児童6人の名を刻んだプレートも並べられています。いわば、震災がなければこの学校を卒業したはずの子どもたちの卒業証書なのです。

  訪問日  2006年1月17日

123  樋ノ口小学校  りんごの石のモニュメント・りんごの植樹

 樋ノ口小学校では、亡くなった5人の児童を偲び5本のリンゴが植樹されました。モニュメントはリンゴの花びらから蝶が飛び立つ様子をかたどってデザインされています。
 震災を知らない児童が増えても、震災の経験を引き継ぐために、地域の人たちの手によって守り続けられることでしょう。

  訪問日  2004年1月10日

124  神明緑地  石碑「阪神・淡路大震災」

 JR西ノ宮駅の北側に位置するこの地域では、72人もの尊い命が失われました。震災復興の区画整理事業で整備された神明緑地に、石碑「阪神・淡路大震災」があります。完成は公園の整備を待って2000年4月、芦原地域復興対策会議により建立されました。ピラミットのような三角形の石碑の前には、震災直後の写真を焼き込んだタイルの説明が配置され、生まれ変わった街の中で、当時の姿を留めています。
  訪問日   2003年8月2日

178  大社中学校  復興復旧祈願園

 大社中学校では、3人の生徒が亡くなりました。当時避難所にもなったこの場所が、風化しないようにと、95年6月に早々と、石碑と花壇からなる「復興復旧祈願園」が設置されました。「生きている今を大切に」との思いが込められています。
 校門の傍には、「死ぬな ケガすな 病気すな」の石碑がありました。おそらく創立当時からのものではないかと思われます。震災で学んだ命の大切さを伝え続けてください。

  訪問日  2006年1月17日

179  阪神土建労働組合会館  阪神・淡路大震災の碑


 12300人の組合員を持つ阪神土建労働組合では、組合員と家族34人が死亡、事務所も半壊しました。
 当時は、応援に駆けつけた近隣の仲間と共に、技術を生かした高齢者住居の応急修理や家屋診断のボランティアを行っていたことから、犠牲者の追悼と全国からの支援を心に刻むために建てられたものです。

      訪問日  2002年2月10日

203  高木西町公園  復興を刻む碑と時計

 復興が進む西宮北口駅北東地区の高木西町公園に、2002年1月、自治会の手で記念碑と時計が建てられました。周囲は新しい家が建てられつつありますが、区画整理事業の完成にはまだ道程があるようで、震災記念碑の前には花が育てられていますが、公園はまだ未整備のままです。しかし、石碑と共に建てられた新しい時計は、復興を待ちきれずに時を刻み始めています。区画整理事業が完成し、整備を終えた公園で、咲き乱れる花と共にこの時計が本当の時を刻み始める日が一日も早く訪れることを祈りました。

   訪問日   2003年8月2日

204  熊野神社園  再建鳥居

 熊野神社のある西宮北口北東地域は古い家屋が多く、大きな被害を受けた地域の一つです。熊野神社も鳥居の笠木が落ち、柱だけになったそうです。この地域の復興は決して早くはありませんでしたが、98年には氏子により、 鳥居が再建されました。「阪神・淡路大震災の為再建」と刻まれた真新しい鳥居は、樹齢を誇る大木に囲まれ薄暗い境内で、ひと際浮き立って見えました。

  訪問日  2006年5月3日

205  甲子園素盞鳴神社  阪神淡路大震災復興事業竣工之碑

 プロ野球の阪神タイガースの本拠地であり、高校野球のメッカである甲子園球場の南西隣に、甲子園素盞鳴神社があります。阪神ファンで賑わう境内には、岡田監督の直筆による「野球塚」もありました。
 甲子園球場付近は昔は枝川の流れていた砂礫地帯で、震災では揺れそのものよりも液状化による被害の激しかった地域です。甲子園素盞鳴神社も地盤が傾き、瓦もずれましたが、地域住民の寄付で社務所なども建て替えられ、復興の感謝を込め、2002年3月に石碑を建立されました。

  訪問日  2006年5月3日

206  福應神社  「阪神淡路大震災復興奉賛者芳名」の碑

 名神西宮インターチェンジの南東部。車の騒音に背を向け、小さな緑に囲まれた福應神社があります。福應神社は震災で社務所と儀式殿が全壊しました。福應神社は地域に支えられ、昔から祭の盛んな神社。97年にはコミュニティ施設が完成し、98年にはだんじり4基が寄贈され、祭が復活しました。福應神社では、復興に尽くした個人や団体に感謝して本殿脇に「阪神淡路大震災復興奉賛者芳名」の碑を建立しました。
 
  訪問日  2006年5月3日

231  森具公園  石碑「憩い 親睦」

 森具地区は、7割の家屋が全半壊し、43人の方が亡くなりました。震災から2年後の三度目秋、この場所を訪れた時には、まだ区画整理事業は進行中で、空地のコスモスが印象的でした。
 住民の取組んだ土地区画整理事業を記念し、緊急貯水槽を備え、00年1月に完成した公園には、「憩い 親睦」と刻まれた石碑が建てられ、災害に強い町の象徴となっています。

  訪問日  2006年2月12日

232  鳴尾八幡神社  震災復興記念碑

 阪神電車沿いの住宅街の真ん中に、静かな鎮守の森があります。人々の幸せを見守り続けた鳴尾八幡神社ですが、震災では本殿が全壊し、大きな被害を受けました。街も神社も、ようやく落ち着きを取り戻した平成12年3月、 氏神様の再建に尽くした団体や個人の名が刻まれた記念碑が建立されました。すでに忘れ去られようとしているあの日を、緑に囲まれた境内で語り続けていました。

   訪問日  2006年5月3日

233  西宮中央商店街 震災大時計

 大時計は、西宮中央商店街に本格的な街づくりが始まるまでの8年間、止まったままでアーケードの上から商店街を見下ろしていましたが、一旦、コミュニテイ広場に移され、04年の1月17日からは、毎年このモニュメント前で商店街の店主たちにより、午前5時46分に追悼の集いが行われています。復興停滞の象徴とまで言われた止まったままの大時計でしたが、この商店街の繁栄の象徴でもあったのです。
 左右の写真は、仮設置場所のコミュニテイ広場で最後の集いのが行われた2009年と、現在の場所に移設され、初めて集いが行われた時の写真です。

  訪問日  2010年1月17日 他 
2009年1月17日  2010年1月17日 

234  甲子園警察署  石造り十三重の塔

 元々は、昭和28年8月に西宮警察から独立して甲子園警察署が新設された際に地元住民から寄贈された塔です。昭和53年に現在の庁舎となった時も、綺麗な姿を保っていました。しかし、阪神・淡路大震災で植え込みの中に崩れ、忘れ去られていましたが、2枚の石版が発見され、残りの11枚も発見されたたのを期に、8年を経過した2003年9月に署員の尽力により再建されました。地域の安全を警察と共に見守りつづけています。

  訪問日  2006年5月3日 

240  高木公園 津高氏のオブジェ「音」

 高木公園は、西宮北口駅北東部の阪神・淡路大震災復興土地区画整理事業で整備され、緊急用貯水槽も設置された防災拠点ともなっています。この公園には、夫人とともに震災の犠牲になられた津高和一氏の作品のレプリカがモニュメントとして設置されています。公園の完成は2004年4月18日で、西宮市長及び関係者の手でモニュメントの除幕式が行われました。

   訪問日 2004年4月18日 他

241  高木八幡神社 倒壊石造物を展示

 阪神・淡路大震災により被災した高木神社は、土地区画整理事業により、2000年10月に当地に境内を一新して祭られています。ネットフェンスに囲まれた境内の一角には鳥居や狛犬が当時を語り継ぐために残されています。

   訪問日 2010年1月16日

242  夙川公園  慰霊の子ども像

 桜の名所夙川公園の一角にタオルを被った子ども像があります。淡路島に始まった震度7の激震は神戸市を通り、すぐ傍の国道2号線を駆け抜けていきました。被害の大きかった付近の人々はこの公園に逃れたことでしょう。
 この子ども像は、震災10年を期に、自治会や子ども会がバザーを開き設置されたものです。今日は、毛糸の帽子とマフラーで1月17日を迎えました。いつも花に囲まれ、行き交う人々を見守り続けています。

   訪問日  2008年1月17日 他


253
  西宮市立広田小学校 「いのち」の碑
 母校にモニュメントができたと聞きながらも長く訪問できませんでしたが、ようやく行くことができました。「いのち」の文字は、広田小学校近くで被災し、右手の自由を奪われた書道家が左手に筆を持ち替えての作品で、震災を知らない子どもたちに命の大切さを訴えています。また碑の周りには復興を託した希望のリンゴが植えられ、大切に育てられています。碑の裏側には小学校区で、全壊1876軒、半壊1450件、犠牲者72人、児童2人と、震災の記録も記されています。

   訪問日 2009年11月25日


265  西宮神社 大鳥居

 阪神・淡路大震災で西宮神社は国指定重要文化財である「大練塀」や鳥居が崩壊する等の大きな被害を受けました。(被害の様子は西宮市震災写真情報館で公開されています。)「大練塀」は早い段階で修復されましたが、当神社のシンボルである赤門前iに位置する鳥居は再建には至りませんでした。そこで、芦屋市在住の方からの奉納申し出があり、2006年12月に完成しましたが、奉納を申し出られた方は完成を待たず他界されました。
  訪問日 2010年4月10日 他
 

279  津門神社 再建鳥居・芳名碑

 国道2号線の近くとは言え、閑静な住宅街の中程に位置する津門神社は、近くを通りながらもお参りする機会はありませんでしたが、西宮市保護樹木に指定された大きな楠だけはいつも目にしていました。
 阪神・淡路大震災で倒壊した鳥居は、2005年4月に多くの方々の寄進により再建されました。傍らの「阪神淡路大震災復興奉賛者芳名」碑が地域で多くの方々に崇拝されていることを物語っています。

  訪問日 2010年1月6日


283  白鹿記念酒造博物館 震災の記憶

  白鹿記念酒造博物館(酒蔵館)は、阪神・淡路大震災で大きな被害を受けました。伝統あるレンガ造りの酒蔵が倒壊し、酒樽がむき出しになっていた当時の光景は忘れることができません。しかし、ここは博物館です。重要な文化財を瓦礫とともに処分するのではなく、辛うじて倒壊を免れた明治2年建築の木造蔵を利用して酒蔵館を再興し、震災の記録を残すとともに、被災した酒造用具等を保存・展示しています。震災前の施設の様子は、「震災の記憶」コーナーのジオラマで知ることができます。 

      訪問日 2010年1月6日


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