神戸市長田区



87  大丸山公園  被災した木の移植

 長田区の中心部で火災にあったシラカシとケヤキが、植樹を進めていた大丸山公園に移植されました。移植を物語る神戸市の看板には「この被災木は、震災の体験と復興への希望を永遠に記憶する証しとして、大丸山公園に移植する。」と記されていますが、当時に焼けた樹皮の傷跡は今も残っていますが、若葉の季節を迎え、街の復興を象徴するかのように青々と茂っています。

   訪問日   2009年4月19日

88  六番町  観音さま

 高速長田から伸びるメインストリートを少し逸れた脇道に面して観音さまが立っています。震災の1995年11月、「震災のことは忘れたらあかん」と地元の警備会社が仮社屋の前に建立した観音さまです。会社は既に仮社屋を出ていますが、今も観音さまは元の場所で、近所の人々に見守られ、大切に祭られています。

   訪問日   2002年2月20日


89  長田神社馬場先鳥居  石碑「記憶」

 長田神社参道入口の再建された新しい鳥居の横に、震災で折れた鳥居の柱を並べた「記憶」の石碑が建っています。「地震を忘れず、復興まちづくりを進めようと祈念し、ここに倒壊した旧鳥居の一部を存置し、まちの記憶とする」と石碑に刻まれ、350年間神戸を見守ってきた旧鳥居は、尚も震災の記憶を語り続けています。

   訪問日   2002年2月20日

90  神戸常盤女子高校  震災之碑

 長田区の中心部から、曲がりくねった坂道を上がった所に神戸常盤女子高校がありました。平地のモニュメント巡りばかりだったため、改めて長田区の広さを感じました。この神戸常盤女子高校では3名の生徒が亡くなりました。今は静かな住宅街に、震災の傷跡を見つけることはできませんが、震災之教訓を生かし、神戸の町と人々が、力強く復興することを祈念し建立された「震災之碑」があの日を語り続けています。

   訪問日   2009年4月19日

91  JR新長田駅  「寅地蔵」

 1995年10月に「男はつらいよ」の最終作となった「寅次郎紅の花」のロケが長田で行われました。そのロケを誘致した「寅さんを迎える会」からの依頼で作られたのがこの「寅地蔵」です。仏師がガレキに向かって合掌している寅さんの姿を見て、合掌したお地蔵さんになったそうです。寅地蔵は新長田の駅から、復興する長田を見守っています。

   訪問日   2002年2月20日

92  JR新長田駅  「こうのとり」タイル

 JR西日本が民営化した時にできた、文化人で作る「JR西日本応援団」が、震災の後、被災地に元気を届けようと「元気HAKOBEこうのとり」キャンペーンを全国展開しまた。こうのとりに運ばれた元気は1300を超え、上り下りの各ホームの端に飾られています。もちろん、有名人のタイルは数多くありますが、特別扱いはされていませんので、目で追うだけで時間の経つのを忘れてしまいます。お陰で、十分に元気をもらうことができました。

    訪問日 2002年2月20日・2003年8月10日

93  アスタくにづか(B1F)  「鎮魂と復興のベンチ」(神戸の壁)

 1927年長田区若松町の公設市場に造られた防火壁は、神戸大空襲と阪神・淡路大震災の火災に耐え、歴史の証人として「神戸の壁」と呼ばれるようになりました。「神戸の壁」は震災の象徴となり、毎年1月17日に追悼行事が行われていましたが、再開発事業で移転が決まり、地中の基礎部分が椅子の形にデザインされ、1999年11月にオープンした「アスタくにづか」の地下通路に展示されています。

   訪問日   2002年2月11日


94  旧二葉小学校  レンガのモニュメント「やさしさわすれない」

 長田区は何度か訪問していますが、学校の敷地内は自由に立ち入ることができず、先送りとなっていました。今日は希望の灯りのモニュメントウォークに参加し、念願の訪問を果たすことができました。
 二葉小学校は周辺地域が大火に遭ったにもかかわらず、赤レンガ製の焼却炉が壊れただけでした。それでも、このレンガを震災の象徴として残そうと、当時の6年生児童がモニュメント制作実行委員会を結成し、花壇の中に「平和・安定」をイメージしたオブジェを乗せ完成させました。碑に添えるメッセージも児童から募集し、「やさしさ わすれないで」となりました。この「やさしさ わすれないで」は学校だよりのタイトルともなり、この地域を象徴する言葉となったそうです。
 06年度には隣接する学区の長楽小学校と合併し、08年度には新校舎に移転しました。学校は無くなっても、モニュメントに記された思いは、きっと、伝え続けてくれると思います。

      訪問日   2005年4月17日


95  日吉町ポケットパーク  「あわせの地蔵」

 1998年8月22日、長田区日吉町の区画整理事業でに完成した小さな防災公園「日吉町ポケットパーク」に地蔵堂があります。ここには震災による火災で黒こげとなった2体の石地蔵さまと、仏教ボランティア大阪から寄贈された木彫りの「あわせの地蔵さま」の3体がお祭りされています。
 地蔵堂は人が近づくと電灯が灯るようになっていて、お参りすると暗い地蔵堂の中が明るくなり、あわせの地蔵の柔和なお顔が浮かび上がります。お堂の中には、焼け跡から集められた遺品も納められているそうです。訪れる度に新しい花が供えられていて、町内の方々のあたたかい気持ちが伝わってきます。お地蔵さま!いつまでも町の人たちを見守り続けてください。
 2005年には、新潟県中越地震による、山古志村の倒木で彫られた童地蔵が加わり、地蔵堂は以前にも増して明るくなりました。鷹取の駅を降りると、自然とこの場所に足が向いてしまいます。地域の人たちだけでなく、この町を訪れる人にとっても安らぎの場所となっているのではないでしょうか。

   訪問日   2002年2月11日・20日・2003年8月10日・2005年4月17日・2006年1月17日

96  鷹取カトリック教会  キリスト像

 震災直後の報道で、焼け跡に佇むキリスト像のショッキングな映像を今も覚えています。あの震災に耐えたイエス様は今も、青空を背に町の復興を見守っておられます。教会のシンボルの聖堂はまだ再建されていませんが、紙の円柱で作られたペーパードームの集会所がその役割を果たしています。
 敷地内には被災地支援の活動拠点として建設されたプレハブ小屋が建ち並び、教会全体が震災のモニュメントとなっています。震災から丸1年の1月17日に開設された多言語コミュニティ放送局「エフエムわいわい」は、国籍・人種・宗教を超えた情報の発信基地となっています。

 訪問日 2002年2月11日・20日
      2003年8月10日

97  満福寺  「慰霊の碑」

 1995年11月、満福寺に近隣住民犠牲者の鎮魂の碑が建立されました。震災で本堂と庫裏が崩れ、山門が傾くなどの大きな被害を受けながらも、迫った大火から難を逃れることができたのは、いつもと変わらぬ姿で立っていた白衣観音のお陰と、慰霊の碑は白衣観音の傍に建てられました。

  訪問日  2002年2月11日

98 99 100  大国公園  

 長田区野田北部地区の中央に、1994年12月に大国公園が整備されたました。JR鷹取駅に近く、憩いの場としての役割を果たすはずの公園でしたが、震災による火災の延焼を防ぎ、壊滅的な被害を受けた地区の人々の避難所となる等、思わぬスタートとなったようです。火災の延焼を防いだクスノキには、まだ当時の傷跡が残されています。

  訪問日 2002年2月11日・2003年8月10日
98 倒壊鳥居の石を使った記念像

 神戸市灘区の六甲八幡神社の鳥居の石を使用した記念像。1995年7月5日開眼法要。
99 写真プレート

 震災直後の街の様子をステンレス板のプレートに焼付けた「協働のモニュメント」
100 復興基準点

 震災後の区画整理・再開発事業の測量基準点800カ所の象徴となる「復興の基準点」。

149  新湊川公園  「慰霊碑」

 新湊川公園の震災慰霊碑は、2000年1月に地区の老人連合会により建てられました。「震災を風化させたくない。」との思いが込められ、震災で亡くなった老人会のメンバー154人の名前が刻まれています。
 慰霊碑のすぐ後ろには高校があり、野球の練習をする生徒の声が響いていました。若い声につつまれ、やすらかにお眠りください。

  訪問日 2002年2月20日 他


50  御蔵北公園  被災電信柱・モニュメント「鎮魂」

 長田区の御蔵北公園には、阪神・淡路大震災の大火で焼け残った電信柱が残されています。電信柱の保存を実現させたのは御蔵通5・6丁目の町づくり協議会のメンバーです。火災ですべてを失った人たちにとって、昔を偲ぶものは焼け残った電信柱だけだったからです。 新しく整備された公園に傾いた電信柱は少々不似合いな感じがしました。しかし、やがては地域に暮らす人たちの生活に溶け込み、震災を知らない世代にあの日の惨状を伝えてくれることと思います。

  訪問日 2002年2月20日 他
 御蔵北公園には、もう一つコンクリート製の「鎮魂」のモニュメントがあります。中央には、この地域の120人が亡くなった場所を示す地図が刻まれています。人々の憩う場所であるとともに、震災を語り継ぐ公園ともなっています。

51  味彩館 SUGAHARA  記念碑「寅さん」

 震災に伴う火災により、焼け野原となった菅原市場。大きな被害を受けながらも、いち早く再開した仮設店舗での営業がニュースで伝えられ、復興の象徴ともなっていました。しかし、震災復興区画整理事業でその面影すら無くなってしまいましたが、一部の店主が集まって「味彩館SUGAHARA」の営業を行っています。その入口にあるのが「寅さん記念碑」。1995年10月に行われたロケで、寅さんは長田の人たちに生きる力を与えてくれました。この時の映画が寅さんシリーズの最終作となりましたが、寅さんの残してくれた勇気がここで生き続けています

  訪問日  2002年2月20日 他

152  明照寺跡  「阪神淡路大震災 物故者諸精霊」の碑

 山陽電鉄西代駅の北西部。新長田駅へ続く通りに面して、「阪神淡路大震災 物故者諸精霊」と刻まれた明照寺跡の碑がありした。街中はもう震災の傷跡はないけれど、入口を囲ったバリケードが、当時の面影を語っています。
 「皆さんの安らぎの場になれば」と明照寺の住職が建てた碑は、街の騒音を背に、再建されたお寺を見つめていました。

   訪問日 2006年2月25日 他


53  海運双子池公園  石碑「潤」

 2000年4月、大火に見舞われた長田区野田北部地区に「海運双子池公園」が誕生しました。土地区画整理事業で最初にできた復興のシンボルです。公園の名は大正末期まであったため池にちなんで付けられました。この公園には、安らぎと潤いのある街づくりの拠点としての「潤」の石碑。そして「ふるさとの街をいつまでも」と呼びかける震災の1995年生まれの子ども10人の手形モニュメントがあります。

  訪問日 2002年2月20日
      2003年8月10日

173  若松鷹取公園  慰霊碑

 真新しい住宅に囲まれた若松鷹取公園。震災の前を偲ぶものは何も残されていません。整備された公園に建てられた「鎮魂 1995.1.17」とのみ刻まれた慰霊碑はシンプルなだけに、返って悲しみの深さを表しているように思えました。
 二度目の訪問は夏の盛り。慰霊碑の周りにはヒマワリが元気に花を咲かせていました。慰霊碑も公園も、地域の人たちの手で、シッカリと守られているのがわかります。

 訪問日 2002年2月11日・2003年8月10日


174  フレール・アスタ若松  明日へわがまち

 新長田公園の北向かい。2001年6月に完成したマンション「フレール・アスタ若松」の入口に、「明日へわがまち」と大きく書かれた大若地区震災復興記念碑があります。台座には、戦災・震災の火災に耐え抜いた「神戸の壁」の一部が使われ、被災した住民が一日でも早くこの地に帰って来られることを最優先課題とした復興協議会の決意が記されていました。

  訪問日  2006年2月25日

175  日吉町ひだまり公園  刻の石碑

 震災の大火で焼き尽くされたJR鷹取駅南東地区。生まれ変わった街には、災害に備えた小さな防災公園が各所に造られ、この「ひだまり公園」の前も何度か通りましたが、モニュメントの存在には気付きませんでした。公園のシンボルとなるモニュメントには「刻 1995.1.17」と刻まれ、地域の人たちのあの日の記憶を伝えていました。

  訪問日  2006年2月25日


191  蛭子神社  震災記念石碑

 長田はケミカルシュースに代表される工業の町という印象でしたが、海のかおりに包まれながら長田港に沿って歩いてみると、漁業の町であったこともわかりました。蛭子神社は、駒ケ林浦漁業会が管理している漁業関係者に信仰が厚い神様です。
 震災復興記念石碑は、鳥居と玉垣の復興を終えた96年4月に神社の入口に建てられたものです。

   訪問日  2006年2月25日

228  すがはらすいせん公園  写真パネル

この通りが市場のあった場所 昭和62年賑わう商店街 焼け落ちた震災直後 すいせん公園の全景
 「すいせん公園」の名は、震災直後に天皇皇后両陛下が当地を見舞われた際に、皇后陛下より水仙の花束をお供えいただいたことから名付けられました。街は生まれ変り、焼け跡が生々しい菅原市場のあった場所もわかりません。今は、公園に並べられた写真パネルが賑わいの商店街と震災直後の様子を伝えています。

    訪問日   2006年11月3日

246  神阪中華義荘  阪神淡路大震災華僑留学生犠牲者慰霊碑

  神鉄長田駅を見下ろす高台に位置する華僑墓地「神阪中華義荘」には、阪神大震災で亡くなった中国人48人のために建立された「阪神淡路大震災華僑留学生犠牲者慰霊碑」があります。ここでは、毎年4月の清明節には関係者による法要が行われているとのことです。また、亡くなった48人にあたる桜を寄贈された歌手の「しらいみちよ」さんへの感謝の印として中華会館が慰霊碑の脇に「さくらの碑」が建てられています。

  訪問日  2009年4月19日

248  御蔵南公園  類焼を止めた楠

 御蔵南公園の入口のには、震災による大火の類焼を止めた楠があります。青空を背に元気な姿を見せていますが、火災による傷跡が今も残っています。根元には楠のたくましさを表現した「類焼とめて 尚生き残る 楠の大木」と、御菅カルタの一文の記されたプレートが添えられていました。

   訪問日 2006年11月3日

250  新長田公園  記念碑

 JR新長田駅南地区は、今も再開発の工事が続いています。新長田公園はまちづくりを進めている大若地区(大橋町・若松町)住民の集いの場として2004年10月に完成しました。公園の完成を記念して建てられた碑には、「歓喜に満ちた槌音が日夜響き渡り、新しいまちへと発展しつつあります。」とあり、復興に向けた地域住民の決意が込められていました。

  訪問日 2006年2月25日

286  水笠通2丁目の碑  石碑

 震災から14年の年月を経て、震災復興土地区画整理事業が完了し、地域の防災拠点となる水笠通公園が完成しました。この公園には二つモニュメントが誕生し、北東角には三百数十人が共に暮したありし日の町の姿を残そうと、「水二まちづくり協議会」・「旧水笠通二丁目自治会」による震災前の地図を刻んだ「水笠通二丁目の碑」があります。

   訪問日 2009年4月19日

287  新長田駅北地区震災復興の碑  記念碑

 水笠通公園のもう一つのモニュメントは、新長田駅北地区のまちづくり協議会・自治会が建立した「記念碑」です。「震災復興の碑」と刻まれた記念碑には、「十余年の歳月を経て、自治会や周辺地域とも協力しあいながらこの町の復興を成し得ることができました。」と記され、復興までの足取りが刻まれていました。

   訪問日 2009年4月19日

288  真言宗如意山西代寺  供養碑

 真言宗西代寺は水笠公園南西にある寺院で、本堂や庫裏が倒壊し、住職の奥様が亡くなられました。寺院はその後再建され、山門を入った左側に弘法大師像・震災犠牲者を弔う供養碑が建立されている。供養碑には「為阪神淡路大震災物故者霊 南無大師遍照金剛 平成7年1月17日 午前5時46分」と刻まれています。

   訪問日 2009年4月19日


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