阪神・淡路大震災から8年

8回目のメモリアルデーは、
各地の追悼行事に参加することで
改めてあの日を思い起こす1日となりました。

1.西宮震災記念碑公園 2.メモリアルウォーク 3.追悼のつどい
4.人と防災未来センター 5.東遊園地 6.1.17FMコンサート



1.西宮震災記念碑公園

 メモリアルデーは、午前5時46分の西宮震災記念碑公園からと決めていました。4時半に起床し、月明かりの中、家を出ます。8年前は何も知らずに眠り込んでいた時刻。亡くなられた方に祈りを捧げる神聖な1日の始まりです。
 5時過ぎに到着した西宮震災記念碑公園は、花の供えられた記念碑がライトアップされ、あの忌まわしい時刻を待っていました。
 暗がりの中、徐々に人々が集まり、午前5時46分。鐘が鳴り、黙祷。8年前の記憶がよみがえります。応援に派遣された小学校の教室で、棺が間に合わず、白い布に包まれただけの遺体の側で、術を失っていた自分。月日が流れても、決して忘れることのできない1月17日です。

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2.ひょうごメモリアルウォーク2003/未来へひらく

 西宮震災記念碑公園にお参りしてからでは、午前7時に集合する西宮には間に合わないので、今年は西コースの大倉山にある神戸市立中央体育館からの出発を選択しました。しかし、電車の中から、芦屋市の川西運動場がまだ出発していないのを見てシマッタと思ったが、電車はもう出発した後。
 おかげさまで、大倉山には予定以上に早く着いてしまいました。早く着いたからでは申し訳ないけれど、大倉山公園の慰霊碑にお参りすることにしました。震災で犠牲になった鹿児島県出身者を偲ぶために建立された慰霊碑です。1月17日に行われる追悼式の時間には早かったのか、まだ花束は供えられていません。という私も花束を持参してのお参りではない。「鹿児島県の方が、きっと来てくれますからね。」と手を合わすことしかできませんでした。
 お参りを済ませてからでも、神戸市立中央体育館前広場で受付を済ませたのが9時。道向かいを長田区を出発したメンバーが通り過ぎて行く。出発式を済ませていないことが心残りではあるが、ここで1時間待つことが無駄に思え、通り過ぎたメンバーの後を追うことにした。西宮市の住民が神戸に来た以上、知り合いはいない。しかし、震災に対する思いは同じはず。躊躇うことはなかった。
 追悼の白いリボンを着け歩き始めると、気持ちの引き締まる思いがする。そして、リボンの重みすら感じる。多くの被災者を前に、無力だったあの時が悔しくてならない。だからこうやって1月17日を過ごす。あの日は帰らないし、亡くなられた方々に届くはずもない。それでも、これが私に課せられた使命のような気がして足を進める。
 先頭集団に追いつこうと、足を速めるが、その距離は一向に縮まらない。兵庫県災害対策センターの見学や、職員会館での休憩をパスして歩き続けるが、先頭を行くメモリアルウォークの旗は、まだまだ先を歩いている。
 中山手通りを過ぎ、左に折れると、新神戸が見える緩い上り道。たいした坂でもないのに、疲れ始めた時だけに、それ以上にきつく感じられた。
 途中、甘酒が振舞われていてチョット休憩と思ったが、「熱い」の声を聞いて、好意に感謝しながら先を急ぐことにした。
 春日野道を下る頃、やっと先頭集団に追いついた。まだ10時。追悼のつどいにはまだまだ時間がある。それでも急いでいるのには少々理由があった。先月「震災のきづ跡写真展」の募集があり、応募した私の写真が入賞したとの知らせが届いていたからである。表彰式は、メモリアルウォークがあるためキャンセルしたが、人と防災未来センターで今日から始まる展示を早く見たいとの気持ちが私を急がせていた。
 国道2号線に出ると、建物の間から人と防災未来センターが見えてきた。やっと落ち着きを取り戻し、一緒に歩く人と会話のできる余裕も生まれた。大倉山を出発して1時間半。早くもゴールのアーチに到着。先を急ぐあまり、先頭集団を追いかけることに徹した1.17ひょうごメモリアルウォーク2003も終わりを迎えた。

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3.震災8周年追悼のつどい

 震災8周年追悼のつどいは、人と防災未来センターの慰霊のモニュメント前で行われた。モニュメントは建物を取り囲む水中にあり、式典が始まると、参列者の人垣の間からは全く見えなくなってしまう。
 黙祷。一年間のできごとが思い出される。現在の私の活動は、昨年のこの瞬間から始まったのだ。歌で阪神・淡路大震災を語り継ぐと言いながら、あと一歩が踏み出せないままでいたあの時、きっと6433人の魂が私をここに呼び寄せてくれたに違いない。
 会場に近いなぎさ小学校の児童による「しあわせ運べるように」の合唱。当時はまだ小学生になる前だったはず。それでも、神戸を思う気持ちが伝わって来る。この子たちが、この歌を、この気持ちを、震災を知らない後輩へ歌い継いでくれることを信じたい。歌で震災を語り継ぎたい私だから。
 慰霊のモニュメントの前に膝をつき、そっと花を水に浮かべる。一般の献花が始まると、水面は捧げられた花に埋って行く。


  1月17日は忘れない

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4.阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター

 昨年、この会場で受け取ったボランティア募集のチラシ。その時は、自分にボランティアができるとは思いませんでした。しかし、「何かをしなければ」の気持ちは募るばかり。ついに人と防災未来センターで語り部のボランティアを始めてしまいました。家や肉親を失ったわけでもないし、何人もの人を救助した武勇伝があるわけでもない。それでも、あの震災を経験した者の一人として、伝えることもあるはず。そして、多くの人と知り合い、学ぶ機会にも恵まれると、少ない時間割いて楽しく活動を続けています。
 1月17日は、防災とボランティアの日。この日は参加したい催しが各地で行われていますが、ボランティアを始めて、初めての1月17日ということから、活動を買って出ました。語り部と言うより、展示スペースを歩き回るだけだったけど、ボランティアができたことに満足することができました。

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5.東遊園地

 東遊園地に着いたのは5時半前、少し明るさの残ってる頃だ。午後ではあるが5時46分にここで祈りを捧げたかった。入口付近で「1.17」と彫りぬかれ、ろうそくの灯された竹筒と、富山県から送られた雪で作ったという雪地蔵が私を迎えてくれた。
 鎮魂の灯りの会場は今が盛り。あの日経験した暗闇を再び訪れさせてはならないのだ。 
 当時を思い、竹筒に揺れる炎を見つめながら手を合わせる神聖なひと時。しかし、空を舞う報道のヘリコプターの騒音がそれを掻き消す。ガレキの下から助けを求める声が断ち切られたあの日のように。
 
 慰霊と復興のモニュメントの地下には、神戸市で亡くなられた4500人の名が刻まれた名盤が壁を取り巻いている。水面を埋め尽くす花の間から、かすかにそれを見ることができる。「あの日を忘れず集まった人たちの灯す希望の明かりがみえますか」と、手を合わせながらモニュメントに語りかける。
 今年は東遊園地の灯りから、「KOBE」の文字が無くなりました。希望の灯りが全国に拡がり、もう神戸だけのものでなくなったからだそうです。会場を去る前に、東遊園地の全体が見たくて神戸市役所24階にある展望ロビーに上がりました。眼下に東遊園地が拡がり、暗がりの中に「1.17」の文字が浮かび上がって見えます。「KOBE」の文字は消えても、震災直後の「ガンバロウKOBE」の精神は今も健在だと感じました。

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6. 1.17FMコンサート〜阪神・淡路大震災を語り継ぐために〜

 早朝から各地を駆け巡った私の1月17日が終わりました。仕上げは自宅でFMコンサートを聞くこと。メモリアルデーの西宮に、「コスモスの詩」が流れることの意義を感じ、30分の放送時間を買い上げました。
 「今この空を電波に乗って「コスモスの詩」が流れている。」と思うだけで、生演奏でもないのにいつになく新鮮な気持ちで聞くことができました。1.17FMコンサートを応援してくださった皆様。本当にありがとうございました。明日から、また新しい活動が始まります。

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