阪神・淡路大震災から7年

1月17日は、亡くなられた方々の魂に祈りを捧げ、

あの日のことを忘れず語り継ぐ決意を新たにする一日でした。

  1.トークリレー「震災と命を考える集い」

 1月16日、関西学院ヒューマンサービスセンター主催のワークショップに参加しました。15日から3夜連続で行われる催しですが、震災体験を語り合い新たな気持ちでメモリアルデーを迎えるためにこの日を選びました。
 学外からの参加は2名だけだったため、聞き手に回る予定だった学生さんの話を聞くことができました。中学生だった当時を思い出しながら、恐怖の体験とその後の不自由な生活を語ってくれました。中には県外からの入学で、震災を体験していない方もおられましたが、仮設住宅を記録に残す活動などから生まれた震災に対する思いが伝わってきました。しかし、迷いもあるのでしょう。ポツリと出た一言、「震災があった。それがどうなの?」の言葉でした。震災を語る集いの意義を十分理解した上での疑問です。残念ながら私はその問に答えることができませんでした。震災で学んだことを語り継ぐ。言葉では簡単ですが、震災を体験しない世代へ、そして命の及ばない未来へ引き継ぐことは一人の力だけではできません。口には出さないけれど、私が常に抱いていた不安を図らずも衝かれる結果となったのです。
 あの日から7年、震災で学んだことを風化させまいと気負っていはいても、成長できないままの自分を感じないわけにはいきませんでした。不可能かも知れない。しかし、あきらめてしまっては何もできない。今は一人でも、いつかバトンを渡せる新しい手に出会えることを信じたい。「トークリレー」は、未来に向けた小さな小さな歩みでしかないけれど、その歩みがなければ決して未来には到達しないことを教えてくれました。

  2. 1.17ひょうごメモリアルウォーク 2002

 阪神・淡路大震災で失われた尊い命への追悼と、その中で生まれた絆に感謝し、学んだことを風化させない決意を新たにするために、「白いりポン」をつけて1.17ひょうごメモリアルウォーク2002に参加しました。
 6時起床予定でしたが、やはり1月17日。少し早いあの忌まわしい時刻に目を覚ましてしまいました。7年の時を越えた1日の始まりです。体力に自信があるわけではないけれど、西宮からの出発であることや、飲まず食わず眠らずで動き回ったのあの時に比べればと、15キロの最長コースに挑戦しました。
 午前7時の西宮市役所前には、すでに多くの人たちが集っていました。さっきまで降っていた雨はようやく上がったものの、空は暗く出発直前まで気をもませてくれました。
 注意事項を聞き、軽いウォームアップ体操をし、市長の激励を受けて、700人が神戸の「追悼のつどい」の会場を目指して出発しました。交通機関の途絶えたあの時と同じように。
 それぞれの震災への想いを胸に、国道2号線を西へ。JRの脱線した列車が止まっていた場所、壊れた建物が道を塞いでいた場所。今はその面影すらないけれど、いつのまにか7年前へとタイムスリップさせられていました。
 街の復興を見ながら…がメモリアルウォークの目的の一つであった。しかし、芦屋市西部。神戸市と接する激震地帯には、未だに空地が残っている。「九月の雨」を書く時に歩いたのもこの辺りだ。あれから4年が経過したというのに、人の温もりはまだ戻っていない。夏草の季節は終わっても、冬の季節を過ごさなければ春の訪れはない。「コスモスには遠い春、街はまだ冬の色」 
 神戸市に入ってまもなく、国道2号線に別れを告げ、JR甲南山手駅の下を通り、山手幹線を西へ進む。避難所としてよく報道された本山小学校はこの辺りだ。
 西宮を出発して1時間半が経過。そろそろ疲れを感じ始めた。休憩所まであと少し。しかし、住吉川に架かる水道橋の坂道は思った以上にきつく感じた。
 第1休憩所の「雨の神公園」にはすでにたくさんの人たちが到着して休憩していた。予想以上のハイペースで歩いたことに気づき、次々と出発してゆく人を尻目に、ゆっくりと汗を乾かす。
 次の休憩所までは1時間とはかからない。気楽な道程と思ったのが間違い。休憩の後、急に足が重くなった。周りの風景を楽しみながら歩いていたのが一転して、少し大げさではあるが、一歩一歩を意識しなければ前に進めない状態になってしまった。しかし、時間はタップリある。あせらず・急がず、前に進むことだけを心がけた。
 第2休憩所は都賀川公園。救命に大活躍した金沢病院の隣だ。復興の誓いの石碑のある震災後に整備された公園。炊き出しも行われており、活気にあふれた休憩所であった。
 第2休憩所を出ると、残りはわずか。足の痛みはあるが、初期段階を通り過ぎたのか、自然と足が前に出る。日差しが出てきてとにかく暑い。それとは対照にカイロを手に寒そうにスタッフが立っている。「寒かったら一緒に歩こうよ。」と声をかけたら、「最後の人が通り過ぎたら追いかけますからね。ガンバッテください。」と明るい返事。一人思い出にひたりながら歩いていたけれど、たくさんのボランティアに支えられてメモリアルウォークは進行しているのだ。交差点を通るたび、「ご苦労様」と頭を下げる。腕に付けた白いリボンに恥じないように、失ったものが多い中で生まれた「つながり」に感謝しながら。 
 王子公園から南下し、JRの陸橋を越え、国道43号線を過ぎると、「追悼のつどい」の会場はすぐだ。入り口の歩道に腰を下ろし、式典の開始までに昼食とることにした。昼食と言っても、途中のコンビニで買ったおにぎり2つ。1つのおにぎりを分け合ったあの日を思えば、今日は一人で2つ。最高の贅沢だ。
 避難者の数に対して、届いた弁当の絶対数が足りない。役所の対応のまずさを詰られながらも、「分けてください」とお願いするより術がなかったあの日。自分だって朝から何も食べていない。配っているのは決して手を付けることのできない弁当なのだから。
 「追悼のつどい」の会場には、各地を出発したメモリアルウォークの参加者が次々に集まって来た。むろん、座る場所は限られているので、疲れてはいてもほとんどの人が立ったままで式典を待っている。
 「黙祷!」今までに何度となく黙祷を捧げたが、今日ほど神聖な気持ちになれたのは始めてだ。私は今日、自分の意志で、自分の足で歩いてこの会場に来た。だから…。と思うと、今までの黙祷が儀礼的であったような気がして、恥ずかしさがこみ上げてきた。
 震災から7年目の1月17日、また新しい歩みが始まる。何年経っても、決してあの日のできごとを忘れることはない。

  3.西宮震災記念碑公園

 1月17日。普段は静かな震災記念碑公園も、この日だけはお参りに訪れる人の絶えることはありません。メモリアルウォークで疲れていても、1146人の犠牲者の霊にお参りができないようでは、西宮の震災は語れない。
 風が強くなり、雲に日差しが遮られ、ここ数日の暖かさがうそのように冷え込んできた。しかし、すぐには記念碑の前を離れることができませんでした。 名前の刻まれた石板を指で追い、改めて涙する人、話しかける人。それぞれの思いが伝わってきて、1時間以上も立ち続けていました。
 帰りのバスで、私と同じメモリアルウォークに参加された婦人と出会いました。妹さんを亡くされたそうです。「いつもは歩いてくるんですがね。」と、流石に今日は疲れた様子。それでも、今日は亡くなった人のために、やれることはすべてやったという満足感が感じられました。
 1月17日。1日の休暇をもらって、私なりに震災を思い起こす一日を過ごしました。メモリアルウォークで歩きながら感じたことをすべて書くことはできませんでしたが、その一部を震災7周年という一つの通過点に残したいと思います。
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