阪神・淡路大震災から13年

阪神・淡路大震災から13年。
      今年は雨から逃れることができましたが、
         最低気温2.8度、最高気温6.4度(神戸)
6〜10mの強風が吹く寒いメモリアルデーでした。   
1.震災写真展 2.東遊園地 3.高木小学校
4.西宮震災記念碑公園 5.震災モニュメントウォーク 6.真野地区1.17希望の灯り

  1.震災写真展  2007年1月13日(日)
 今年もギャラリー「わびすけ」で開催された震災写真展を訪問しました。今年は「街のケーキ屋さんが撮った1.17甲子園口」でした。このギャラリーでは毎年この時期に震災写真展が行われており、今回は近所でケーキ店を営む林さんの作品が展示されました。
 この2年間仕事で震災写真に触れることが多く、私にとってはお馴染みの風景でしたが、展示されている作品には迫力があり、13年が経過したとは言え、当時の生々しさが甦ってきました。
 主催者の林さんは、消防団の活動もなさっていたそうで、考案された川の水位が低くても取水できる装置や、救助に使う道具も、写真一緒に展示されていました。

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    2008年1月17日(木) 13年目のメモリアルデー


2.阪神淡路大震災1.17のつどい 東遊園地

 一度は朝のつどいに参加しようと思いながらも、一日のスケジュールから昼間の訪問になっていましたが、関電ビルの「1.17」のサインが見納めになるとのことで、4時起きをして初発電車に乗りました。西宮を出る時は空いた車内でしたが、三宮が近づくにつれて満員になって来ました。三宮からは人の列が東遊園地を目指して流れます。予報どうりの寒い夜明け。それでも竹筒の周りは人であふれ、3列目に落ち着く場所を見つけ5時46分を待ちます。
 時報と共に黙祷。13年前に響き渡っただ音響とは裏腹の、静かな静粛な時が流れます。集まった方々の人数は分かりませんが、同じ思いで心が一つになっていることを実感しました。
 黙祷の後は、慰霊と復興のモニュメント前で1.17のつどいが開催されましたが、広い場所ではないため、人の頭越しに様子を覗うだけでした。被災体験は人様々。そして今の生活も様々です。それでも、あの日を思い、ここに集まっているのです。
 夜が明け始める頃になって、ようやく人が減り、竹筒に近寄ることができるようになりました。「追悼」「愛」「感謝」など、竹筒に込められた思いを眺めながら、1.17の文字を巡りました。
 そして、最後に、和歌山県からの茶粥をご馳走になり、ここでの仕上げとしました。欲張って二つ入れた梅干は強烈でしたが、気分が引き締まる想いでした。

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3.高木小学校 地震防災学習発表会

 朝のひと時を東遊園地で過ごし、高木小学校で開催される6年生児童による地震防災学習発表会を見学するために、すぐに西宮へ戻りました。
 担当の先生は、特別な指示はせず、子どもたちに任せたとおっしゃっておられましたが、地震のメカニズムから防災に至るまで細かに調べ上げ、私たち地震経験者以上に知識を蓄えたようでした。
 発表の中で、震災の写真が映し出されると、低学年の児童から驚きの声があがります。自分たちの住む西宮に起こったことを感じ取ったに違いありません。最後に「遅すぎないうちに」の合唱。震災をテーマとした曲でないものの、1月17日に復興の鐘の前でのつどいで流される曲で、この学校で歌い続けられているそうです。今年は高木小学校の児童の声にジーンときました。
学習発表会風景 高木小学校の復興の鐘

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4.西宮震災記念碑公園

 こんなに明るい西宮震災記念碑公園は久しぶりです。早朝に来ることが多いのと、雨に祟られることも多かったので、長居するとができませんでしたが、今日は気持ちよくお参りすることができました。心配していた市職労の用意した白いカーネーションは残り少なくなっていましたが、なんとか間に合い、お供えすることができました。天気が悪いと、どうしても湿っぽくなりがちですが、あの日を思い出しがらも、爽やかな気持ちになることができました。
 そんな時、前市長にお会いすることができました。電車を乗り継いで来られたそうです。職を離れられても、毎年お参りされているとのことで、この場所で不謹慎ではありますが明るい気持ちになってしまいました。

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5.震災モニュメントウォーク

 高木小学校の地震防災学習発表会に参加するため、今年はメモリアルウォークに参加しなかったため、夜のつどいにまでの間に、震災モニュメントを訪ねることにしました。「ウォーク」とは言いながら、目的のモニュメントが離れているため、高木小学校への足に利用した自転車を利用することにしました。
 「高木西公園」は区画整理が完了し、モニュメントも新しい場所に移動していました。「完成はしたが、これからです。土地は減るし、二重ローンには続いているし。」と、ボランティアで公園の清掃をなさっている地区の役員さんの話を聞くことができました。街は生まれ変わっても、まだまた大変です。
 「夙川小学校」は、私が震災3日目に派遣された学校です。1月17日をいいことに、予約なしの突然訪問でした。この校区では50人以上の方が亡くなり、混乱を極めていた避難所でしたが、今は静かにこの碑が当時を物語っています。
 「夙川公園」には、震災10周年に地元自治会が中心になって建立した、バスタオルをかぶった少女の「慰霊の子ども像」がありました。今日は、手編みの黄色い帽子とマフラーをつけていました。すぐ傍の国道2号線沿いに激震が走り抜け、被害の大きかった地域ですが、今は静かな公園です。
 「真砂中学校」は、私が2月下旬から3月にかけて救援物資の種わけ作業で詰めた場所です。たくさんのボランティアの方々に手伝っていただき、救援物資の仕分け作業をしましたが、私は仕事だったということで、少々引け目を感じていました。この中学校は比較的被害の少ない地域でしたが、北海道・栃木県・千葉県・岩手県などの中学校で集められた義援金によりプレートが作成されました。「阪神・淡路大震災の記」と題されたプレートには「一つの命の大きさを、人々の心のあたたかさを、人を思いやれる自分自身の心を、忘れないでほしい。」と刻まれていました。
高木西公園「震災記念碑」 夙川小学校「心やすらかに」
夙川公園「慰霊の子ども像」 真砂中学校「カモメのモニュメント」

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6.「真野地区1.17希望の灯り」のつどい

 今年のメモリアルデーも長田で暮れました。目的の真野地区は、震災前にはすでに「まちづくり協議会」が活動しており、震災時の立ち上がりの一番早かった地区と聞いています。多くの方が亡くなったとは言え、火災の起きなかったことが唯一の救いだったのではないでしょうか。
 会場の南尻池公園は色とりどりのペットボトルが並べらていて、おばさんたち(ゴメン)の合唱練習が行われていました。5時過ぎから点灯にかかり、私も点灯に加わります。ペットボトルだけに、昆陽池公園の点灯に比べると風が強くても随分楽でした。
 5時46分の黙祷後は、昔懐かしい労働歌風の「スクラム組んで」を全員で合唱しました。最後の「明るい真野のまち」のフレーズが今も残っています。

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 阪神・淡路大震災から13年。今年も早朝から各地を巡った1日が終わりました。強風に加え、時には雪のチラつく寒い一日でした。あの日もこんなに寒い一日だったのではないかと思いますが、当日は寒さを感じる余裕もなく、暮れてしまったような気がします。
 私なりの自由を許してもらえると信じている1月17日。毎年同じ繰り返しのようですが、新しい出会いもあります。震災を知らない子どもたちも、決して無関心ではないと言う事を高木小学校の児童から学びました。また1年。目だった成果はないにしても、続けることで、きっと新しい道に繋がると信じています。

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