略歴

山号 十劫山(じっこうざん)   
本尊 阿弥陀如来   
開基 平 重盛(たいらのしげもり)公
開山 西仙房 心寂(せいせんぼうしんじゃく)上人

開 創
 当寺は、1177(治承元)年、法然上人に深く帰依していた平重盛(平清盛の長男)が、神崎川の河口の地の東長洲(中でも現在の尼崎市杭瀬北新町三丁目から長洲中通二丁目あたりと思われる)の地に建立しました。開山にあたっては、法然上人の高弟のひとりであった、西仙房心寂を招いたと伝えられております。しかし、残念ながらわずか二年後の1179(治承三)年に重盛が亡くなります。残された当寺は、その直後、朝廷より、建立者重盛の菩提を弔う寺(菩提所)とされ、そして同時に、内大臣まで務めた重盛の生前の朝廷(政権)における功績により、朝廷より堂舎への丹塗り(朱塗り)を施すことを許されました。これが当寺の赤門の由来です。
当寺には数ある仏像の中でもきわめて古い二体がありますが、これらは重盛の念持仏であったのではないかと思われます。ひとつは下品下生印(げぼんげしょういん)の阿弥陀如来坐像であり、もうひとつは、海上交通を守護するものとして平家一門にとっては特別な信仰の対象でもある、十一面観音菩薩立像です。

中 興
 やがて、戦国期の1580年頃、天誉滴翠(てんよ てきすい)上人が、東長洲にあった当寺を復興し、その時に京都の知恩院の二十八世浩誉聡補(こうよ そうほ)上人より、正式に「専念寺」という寺号(寺額)を授けられました。
この天誉上人は、1583(天正十一)年、豊臣氏の大坂城下にも寺を建立し、同じく専念寺としました。この寺は後に徳川氏の大坂城下町建設時に天満東寺町へ再移転しました。現在も東天満(大阪市北区同心町)にあります。

尼崎城下の現在地に移転
 現在地へは、江戸初期の1617(元和三)年からの戸田氏鉄(うじかね)による尼崎城下町の建設に伴って、東長洲よりこの現在地へ移転してきました。他の寺町寺院は、尼崎の町内からの移転、或いは戸田氏に伴って近江大津の膳所からの移転ですが、当寺は尼崎町外の地域から移ってきました。移転の正確な時期は定かではありませんが1617年内には移転の普請が開始されたことと思われます。
寺町の辺りは城下町の中では西北隅にあたります。そして当寺は寺町寺院群の中では最も西端に位置します。
かつては、境内の北外側には尼崎城下町の外郭にあたる堀(玄番堀)があり、南側は藩の中・下級武士の侍屋敷(西屋敷、役人町)が広がっていたようです。また現在では東側に市道がありますが、当初は隣の如来院と当寺とは隣接していました。(両寺の間の市道は大正期以降に専念寺の境内地を削って通したもの)

信州善光寺の出開帳
 江戸時代には、信州善光寺(長野県長野市)の本尊阿弥陀如来(善光寺如来)の「出開帳(でがいちょう)」がおこなわれました。元禄・宝永期の廻国開帳では、当寺が尼崎での出開帳先に選ばれ、1704(元禄十七)年二月十日から十二日までの三日間善光寺如来をお迎えし、多くの参詣者でにぎわったことでしょう。

十一面観音について
 当寺に伝わる仏像の中でも最も古いと思われるものに、一木造の十一面観音菩薩立像があります。この像は、宝塚市の中山寺の本尊(国指定重要文化財)と同材同作と伝えられてきたもので、確かに印相など、同じ姿をしています。作られた時期は、平安時代の後期で、当寺の創建よりも古いものだと考えられます。
この仏像には次のような縁起が伝わっています。江戸時代の中期、京都の町尻(まちがみ)中納言家の奥方が難病にかかり、当寺の十一面観音に祈願したところ、その難病が平癒したのです。この報恩のために、中納言は西国三十三ヶ所の本尊を正しく模した三十三体の観音像を造って、当寺に奉納いたしました。
(このことは、当寺に残る木製版板にしるされてあります)

近代以降
 1865(慶応元)年、武庫川の堤防決壊による尼崎大洪水では、本堂の床上を越えて浸水し、寺録等の文書類記録類の多くを流失しました。
さらに、室戸台風からジェーン台風までにかけて、度重なる高潮などの被害を受け、堂宇も大変傷みました。
 1976(昭和五十一)年から翌年にかけて、老朽化していた本堂と書院を新築再建、山門を修理、観音堂を解体しました。ただし本堂の内陣は旧材をそのまま使い、今も、以前の様式を保っています。また、1999(平成十一)年に内陣の須弥檀およびその周辺部の、彩色を施した文様や壁画を復元修理したことにより、本堂内は江戸前期の鮮やかな色彩と輝きがよみがえっています。