ひつじ亭でお茶を
 

          僕は、夜の闇に紛れて羊亭のドアに滑り込んだ。

          天鵞絨張りの扉は少し軋んで音もなく閉まった。グールド晩年のゴールドベルグ変奏曲が
        狭い店内にたゆたふ。蝋燭の光で満ちた店内、カウンターの奥でマスターの影がゆらめい
        た。

         「夜景を見てたの?」

         僕は、一番左のスツールについた。

         左手は、神戸の夜景が見渡せる一面の窓だ。マスターは小樽の生まれで、旅の途中に偶
        然この坂を通り、夜景が似ているとこの屋敷を買ひ取った。海を見下ろすサンルームを店に
        改造し羊亭と称した。僕たち仲間内は、まるで大切な隠れ屋の如くにこの店を密やかに訪 
        なふ。マスターは僕たちをふいに庭に訪れた蝶々か何かのやうに扱ふ。彼はいつも夜景を
        観ている。幼少時の瞳には、小さな小樽の街灯りも神戸の夜景くらひ大きく見えたのだらう。
        記憶の中の小樽に生きる彼は、琥珀の虫のやうな瞳をしている。

         もっとも今は水無月。夜景は良く雨にけぶる。

         「いつものでいいですね?」

         僕たちの挨拶だ。でも今日は少し違う。

         「ダブルで」

        と付け加へた。

         硝子の抹茶茶碗に入った抹茶ミルクが出てきた。北海道赤井川から空輸で取り寄せた山
        中牧場の牛乳と宇治の最高級の抹茶のミックスだ。美味でない筈がない。僕は、アカシアの
        蜂蜜を銀の匙で掻き混ぜると、草色の液体をゆっくりと口に含んだ。少し渋くまろやかで甘 
        い液体が僕を潤す。僕たちはただ黙って窓に広がる雨に滲んだ光の帯を眺めた。宇宙の涯
        で銀河を眺めるやうに。あの輝く星々は人々の存在の証。でも、マスターの琥珀色の瞳は、
        星々の過去からの通信を見ているやうだ。

         真空の静寂に近いグールドのゴールドベルグのアリア・・・。

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            「電脳雪暈館」内「たれぱんだ苑」管理人たれっちによる「お耽美創作」。パッチワーク小説と一緒に贈っていただいた。
           別に、私は小樽生まれでも神戸在住でもないのだが、この作品をきっかけにして、本サイトを「ひつじ亭」と改称し、ハンドルも
           「ひつじ」に固定することにした。もう一つハードボイルド・ヴァージョンもあった。
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