肉体の内なる流れとうごめき

                      ――― 白髪一雄展をみる(2001.6.26)


兵庫県立近代美術館で「アクション・ペインター 白髪一雄展」を見てきました。

田中敦子展にコメントをしたからには、白髪一雄展についてコメントしないわけにはいかない でしょう。
田中敦子が具体を駆け抜けていった異能の人だとすれば、白髪一雄は具体を支えた看板役者の一人です。
この時期に具体系の現存作家の回顧展が続くのにどのような事情があるのかはさだかではありませんが、
作家の側の事情と学芸員の側の事情とがうまくかみあってきているのでしょう。

さて、回顧展の楽しみの一つに、まだ作風を確立していないころの初期の作品をみることがあります。
多くの場合、一目でその作家の作品とわからないような発展途上の作品は、ふだん美術館でも見ることができません
したがって、このような本格的回顧展でなければ、なかなか初期の作品を見るチャンスなどないのです。

しかし、初期の作品もまたその作家の作品であるならば、その作家らしさというものをどこかに見つけることができるものです。
むしろ、いわゆる代表作だと作品がよく出来ているために、その作家が本来持っていた個性が見えにくくなっていることがあります。
かえって、ただの風景画でしかない初期作品の方が、
その作家の作品すべてを貫くような持ち味や好みという「どこか違うなにものか」を見つけやすかったりするのです。

白髪一雄といえば、「足で描く作家」として知られています。
作り方はこうです。

アトリエ中央に天井からロープが伸びています。
足元に広げられた白地のキャンバスに、大型のチューブからペインティングナイフにとられた絵具の固まりがボテッ、ボテッっと落とされます。
裸足でキャンバスに入り込んだ白髪は天井からのロープにつかまると、足で絵具を滑らせるように伸ばしていきます。
さらに同じ色の絵具を落としたり違う色に変えたりしながら、同じ作業を何度も何度も繰り返します。
そして、最後にサインを書いて完成です。

このようにしてできあがった白髪の作品は、いくつかの色の絵具が混沌とした固まりとなる中に、
足で伸ばされた絵具の動きと飛び散った絵具のしぶきが生々しい、なんとも力強い作品となります。
しかし、このような白髪作品の抜きんでた個性と力強さは、それが「足で描く」という並外れた技法と離れがたくあるため、
ともすれば白髪一雄という作家が「足で描くという技法を発見した人」ということに力点を置いた評価をしてしまいそうになります。

まして、吉原治良のもとで「誰もやっていないことをすること」が求められていたのです。
うっかり(確かに誰もやっていない)「足で描くこと」ばかりに気をとられてしまうと、
なぜ白髪が足で描くに至ったのかという部分が見えてこなくなってしまいます。

正直にいって、私がそうでした。
「足」に注目していては白髪を見誤るという思いをもちつつも、
天井からぶら下がり絵具と格闘している白髪の姿を通してしか白髪の作品が見えていなかったのです。
そんなわけで、私にとっての今回の回顧展は、白髪一雄が「なぜ足で描くに至ったのか」をみつけるためのものでした。

冒頭に数点の風景画があります。
白髪の故郷にして今も暮らす尼崎市の風景、まだ運河が市内を巡っていたころの大阪の風景、いずれも戦後すぐの作品です。
水彩やクレパスのやわらかいタッチからは、後の激しい白髪作品は想像できません。
次に、童話を題材にしたという幻想的な作品が数点。ここにも、まだいわゆる白髪一雄は見えてきません。

続くのは、まだ足を使っていない抽象的な作品です。
「流脈」という作品があります。縦の曲線でいくつかに分割された画面(これは、直前の幻想的な作品と同じ傾向です。)を、
白、青灰色、赤みがかった灰色の動きによって、流れを表現しています。
抽象画のようでもありますが、水流を表現した日本画のような味わいも感じさせました。
ここで、ようやく「流れ」という言葉がみつかりました。

次に、「蠕」と題された作品が並んでいます。ピンクを基調とする画面の中を、
青と黒がからみあった太い線の固まりがねじれた動きをみせています。
よく見ると、背景の赤、白、青灰色を混ぜた画面は、水の流れを意識したような横へ流れる線で構成されています。
「流れと動き」による構成と言えましょうか。

さらに、「赤の三番」としかタイトルがつけられていない作品があります。
クリムゾン・レーキという暗紅色の絵具が画面を埋め尽くし、指でなぞったような無数の線が描かれています。
その他にも同じ絵具を使った作品が数点あり、いずれも単色の(それもどす黒い血の色の)画面の中で、
時に放射状に、時に同心円的に、様々な動きが表現されています。
そこには、「動き」というより「うごめき」という言葉の方がふさわしいよう な、苦しげで怪しい表情があります。

これらは、むろん個々の作品のみの印象ではありません。
これらの作品を通して、白髪一雄という作家を理解するヒントにたどりついたということなのです。
そう思ってみると、後に続く「足で描いた」作品も、
確かに「足を使って画面上に大きな絵具の流れをつくり、動きをつくりだす」ことで成立しています。

ふりかえると、初期の風景画においても、かなり意図的に川や運河が描かれていました。
しかも、その川はやたらと波立ち、流れや動きが強調されています。
空も澄みきった青空などではなく、細かい色の階調が雲の豊かな表情を表現しています。

それは、白髪にとっては身近な風景を切り取っても、
自然界の「流れとうごめき」に目がむけられていたということであり、
言いかえれば、最初から白髪は「流れとうごめき」の作家であったということなのです。

さらに、「脈」「蠕」というタイトルや血液を意識させる色からは、明らかに肉体へのこだわりがうかがわれます。
それも、血流や(内臓の)蠕動という、
肉体の内に秘められつつも全身へエネルギーを注ぎ込む動きが題材として選ばれています。
そのけっして丁寧に仕上げたとは言えない筆致は、
そうした内なるエネルギーの高まりをそのまま画面の中にぶつけようとしているようにも感じられます。

むしろ、そこにこそ、アクションペインターと呼ばれる白髪一雄の肉体を使うという方法の存在意義があるのでしょう。
あるいは、内なるエネルギーの流れやうごめきを画面に直接伝えようとして、
足で描くという方法に至ったとしても不思議ではありません。
蛇足ながら、足で描き始めた初期の作品に見られる赤と黒という色の使い方も、
身体と血流というようにも見えてきました。

その後は、おなじみの白髪一雄の作品が並びます。
それらは、まさに肉体の内からわきあがった流れとうごめきの表現でした。
一時期棒や板を使ったことも、「流れとうごめき」の表現の可能性ということであるならば理解できます。
むしろ、78年頃からの足で描くことへの回帰が、
具体(吉原治良)の呪縛からの解放と周囲の具体への再評価の気運との重なりからなされているという気もします。

白髪は、今も足で描きつづけています。
今回の展覧会の一角には仮設のアトリエが作られ、実際にそこで作品制作がなされておりました。
床に置かれた作品の周囲には、散乱する絵具のチューブや絵具まみれの足で動き回った足跡も残されていました。
会期中に漂いつづけるであろう強烈な絵具の匂いも、
この最新作が白髪の肉体を通じて作り出された「なま物」であることを強く意識させます。

そして、その最新作もまた、
77歳になろうという白髪の肉体を通じて発せられた、内なる流れとうごめきの「足跡」であったのでした。


 * 白髪一雄さんは、2008年4月8日、83歳で亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

     Wikipedia 「白髪一雄」ページ
     尼崎総合文化センターサイト内「白髪一雄記念室 ページ

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