遊びごころで描かれた都会の「色」と日本的「線」

                              ――― 元永定正展をみる(2002.6.2)

西宮市大谷記念美術館で、元永定正展をみました。

昨年の田中敦子・白髪一雄展から、具体美術協会系作家の個展が阪神間の美術館では続いています。
一つの美術運動から、これだけ美術館が取り上げるだけの力量を持った作家が輩出するというあたりが、
「具体」グループの影響力の大きさを感じさせます。

そんな具体の中でも、元永定正は、白髪一雄と並ぶ看板役者です。
あくまで私の印象ですが、白髪が飛距離が魅力のホームランバッターとするならなら、
元永は着実にミートするアベレージヒッターというところでしょうか。
絵の具と格闘するエネルギッシュな白髪に対して、
ユーモラスな線とあざやかな色彩に彩られた元永の作品は、誰が見ても楽しめる万人向けといえましょう。

絵本やパブリックアート(景観造形)など、現代美術ファン以外にも目に触れる場所での活躍が多いのも、
そうした文句なく楽しいという元永定正の作風からくるのでしょう。
そして、そんなわかりやすさの中にどれだけの「深さ」を感じさせるかが、
元永作品の評価する際の決め手になるのでは、などと思ったりしています。

さて、そんな元永定正の個展が開かれました。
しかし、先に紹介した田中敦子展や白髪一雄展とは、少し様子が違っています。
というのも、通常の回顧展ではその作家の作品を時代順にずらっと並べてその画業の全貌をさぐるということが行われるのですが、
この展覧会ではそうした方法がとられなかったのです。

まず、デビューから現在の作風が確立するまでの20年間を常設展示室の12点で見せます。
そして、その後の20数年間をとばして、いきなり現在にやってくるのです。
残りの三つの展示室は、この展覧会のために作られたと思われる新作を並べました。
しかしながら、この初期作品と三つの現在で、十分に元永定正という作家の全貌を明らかにしていたのです。

1954年頃の作品が2点。元永が抽象絵画を描き始めたころの作品です。
乱暴に白く塗られた画面の中に黒い飛行船のようなものが飛んでいる「とんでいる」。
下には街の灯りなのか、赤、黄、橙、水色、紺、灰緑といった色の丸い玉が並んでいます。

もう一点の「寶がある」では、同じような白い画面の中に灰色の山のようなかたまりがニュッとのびています。
頂上付近には「とんでいる」と同じように、何かの灯りなのか大小の赤、橙、緑、紺、青灰の色丸が並びます。

この作品については、後に元永自身が文章にしています。
 神戸魚崎から見える摩耶山は黒いおわんをふせたような綺麗なかたちで、
 その山のてっぺんあたりには赤・黄・ピンクなどのネオンが色とりどりに輝いている。
 郷里伊賀の山は夜は何も見えない真暗闇だが、神戸の山はなんとお洒落なものかと感心した。
 私は小さな光の色にときめいた。あのあたりには宝があるようだ。楽しさがいっぱい渦を巻いている。
(1)

戦後すぐといえば、まだ阪神間が独特のモダニズムを持っていた時代です。
「お洒落」という形容詞がそれを象徴しています。
伊賀上野から移り住んできたばかりの元永にとって、神戸とは山までがお洒落な光まばゆい街であったのでしょう。

純粋な神戸で生まれでないことが、かえって神戸という都会と、
それを彩る光が持っている魅力に敏感に反応したのかもしれません。
しかし、まだこのころの作品では、色の丸は漆黒の闇に点々と光るネオンサインさながらに遠慮がちに並ぶのみでした。

作風が大きく変わるのは、具体美術協会に参加してからです。
「タピエ氏」と題された1958年の作品があります。
白い画面にカタカナの「ク」を裏返しにしたような赤い形がくっきりと描かれています。
画面上に激しくぶつけられたような絵の具のかたまりが下に伸びている様子は、
このころ元永が使っていた絵の具を流す技法によるのでしょう。

言うまでもなく、この「タピエ氏」とはアンフォルメルを主張し具体の美術運動を世界に紹介した
評論家のミシェル・タピエ氏を指しています。
この時期の元永の作品はまさに形のない抽象でした。
いっしょに並べられた数点の作品も、絵の具の流れや飛沫の力強さが強調された激しい作品ばかりでした。

しかしながら、今の軽妙な元永の作風から考えると、これらの作品には正直にいって違和感がありました。
当時の先端だったとはいえ、元永定正さえも絵の具を画面にぶつけたようなギトギトした熱い作品を作っていたのか、
と感じられたからです。
「誰も見たこともない絵を描け」という吉原治良の教えとうらはらに、
今の時代から見ると明らかに「あの時代の作品」であることを強く意識させられました。

とはいうものの、そんな激しさの中にも、現在の元永に通じる独特の色の鮮やかさを見ることができました。
初期の「寶がある」で元永がみつけたネオンサインの色丸は、
この時期の作品では鮮やかにはじけ、赤、黄、濃紺、緑という色が奔放に画面いっぱいに広がっていました。
「流す」という技法により、元永は何かを描くというとらわれにこだわることなく、
思うがままに色を画面上にぶつけることができるようになりました。
元永は、こうして「色」という魅力を自分のものにすることができたのです。

さらに、作風が変わるのは、1966年から1年間滞在したニューヨーク時代です。
ここで、元永は、エアブラシを使うようになりました。
「流し」のどこか偶然にまかせる制作は、エアブラシの使用によって精緻な計算が求められるようになりました。

「作品 N.Y.No.1」は、白い画面上におかれた黄緑の大きなかたまりと、そこに重なるように黒のかたまりが描かれた作品です。
黒の周囲には黄色の縁取りがエアブラシによって描かれ、さらに赤と濃紺が混じった帯のようなものが周囲に吹き付けられています。
流しの作品が激しさを感じさせたのと比べると、その抑え気味の上品さは現在の元永の作品につながる軽みを感じさせます。

そして、エアブラシという新しい技法は、元永にもう一つの個性を生み出しました。
絵の具をのせたくない部分をマスキングすることにより、
マスキングとマスキングの間に作られた線による表現が浮かんできたのです。

1971年の「Nero Nero」は、黒の画面に黄色と白の二つのかたちが並んでいる作品です。
まず、縦に伸びたビニール袋のようなやわらかい形が二体、黄色や白で描かれます。
その内側は黒から灰色のグラデーションが輪郭にむけて迫っているため、黄色や白の色がぼんやりとした輪郭線のように見えます。
さらに、両手のようなものが同じ手法で描かれますが、
「本体」と「手」が重なっているところは、明らかに黒の輪郭線が描かれています。
それは縁取りというのでもなく、純粋に黄色や白 という全く同じ色の二つの形を区別するという目的で「線」が使われているのです。

実は、線による表現は、元永にとってなじみ深いものがありました。
というのも、元永には、戦前から戦後にかけて漫画を描いていた時期があるのです。
いわ ゆる手塚以前とはいえ、線そのものに表情があって、いきいきとした表現が可能であることは、
漫画を描いていたものにとってはよく理解できることでしょう。

また、時おり「なぜ漫画が日本で特に発展したのか」という説明にも使われるのですが、日本には日本画の輪郭線の文化があります。
いささか言い過ぎのきらいはありますが、元永の線による表現を使った抽象絵画は、
陰影と濃淡の世界だった洋画の世界に、日本的な線の世界を持ち込んだオリジナルな表現であったとも言えるわけです。

さらに、もう一作。1974年の「赤いQ001」。
Qのシリーズと呼ばれる丸みのある「4」のようなねじれの形が、赤で表現されます。
この作品にはいわゆる輪郭線は描かれていませんが、「Q」の形自体が太い線による表現として見ることもできます。

このかたちは現在に至るまで、ひんぱんに登場してきます。
このユーモラスな線のかたちを発見することによって、元永は線による抽象画という
(ひょっとすると日本的かもしれない)作風を確立したのでした。

そして、現在です。
第一の部屋は、「せんのかたち」の部屋
(2) です。
並べられた四点の作品は、白、黒、赤という一色に塗られた画面の中に、
黒や白の線で「Q」「立方体」「三角」「ハシゴ」などの様々な「かたち」が描かれ、
それらのかたちから伸びていった線でつなげられています。
さらに、それを赤、黄、緑、青といった絵の具の飛沫や流れが飾ります。

第二の部屋は、「いろだま」の部屋です。
この部屋の四点には、元永ファンにはなじみのある口だけをあけた山のような形の生命体(?)が描かれています。
黒の画面に白、赤、黄で描かれたその生命体の口からは、赤、黄、緑、青、白、橙、紫の「色球」が転がりだしており、
展示室の床面には、木製の大量の色球が本当に転がしてあります。

これらの部屋を見ると、元永定正という作家が、線の作家であり、色の作家であり、
現在もなお活躍していることを、改めて教えてくれます。
そして、もう一つのキーワードを第三の部屋が教えてくれました。

第三の部屋は、「らくがき」の部屋です。
四方の壁面から床にまでキャンバスが張られたこの部屋は、元永が思うがままに落書きをしていました。
一つの壁面をまるごと使って「線のかたち」を描いた作品、壁面から伸びた線が床にまで続く作品、
ビニールに入った色水をぶらさげた作品、墨の流しを使った作品など、様々です。

個々の「かたち」も、くらげのような形、にゅるっとはみだす形、カエルのような形、Qの形と、
元永作品のオールスターが総登場しています。
たくさんの作品が並んでいるようでもあり、一つの巨大な作品のようでもあり、
そうとすれば、作品の中に入ってしまったようでもある不思議な空間でした。

第三の部屋が教えてくれるのは、「線」や「色」という元永の独特の表現を内から支えているものが、
部屋いっぱいの「らくがき」を描いてみせる遊びごころにあるということです。
実は正式な美術教育を受けていない元永は、三重県展・西宮市展・芦屋市展というコンクールから出発し、
具体美術協会でもまれる中から自分の世界を作っていきました。
そのけっして楽ではない道を切り開いったものが、汲めども尽きることのない「遊びごころ」であったのでしょう。

展覧会でみかけた元永定正は、思いのほか長身でした。
そして、どこがというとうまくは言えないのですが、
生まれてから現在までの80年間、遊びごころを持ち続けて創作をし続けている底力というようなものを感じたのでした。




  (1) 元永定正「神戸、西宮、そして芦屋」(元永定正展図録・西宮市大谷記念美術館・2002)p82。
   初出は雑誌「草月」の連載「もーやんとゆっくりやろう」、1998年か)
  (2) 池上司 「元永定正の作品世界について」(上掲書 p93)における「三つの部屋について」の記述による。

   
* 元永定正さんは、2011年10月3日、88歳で亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

       Wikipedia内元永定正ページ
       ときの忘れ物サイト内元永定正ページ
       絵本ナビサイト内元永定正ページ
                              

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