気がつくと、美術館を鑑賞している美術展

         --- ハラドキュメンツ8「想影-笹口数+原美術館コレクション」を見る(2002.11.24)

旅行記にもある東京滞在のおりに、原美術館に行きました。

原美術館というと、現代美術の専門館として美術ファンには知られた存在です。
とはいうものの、関西からは遠いということと、たいていは知らない人の個展だったりするので、
噂には聞いていたものの足を運べないでいた美術館でした。
今回の展示も、(まったく、どんな人なのかわからない)笹口数のインスタレーションが中心という案内でしたが、
むしろ、あわせて展示される原美術館コレクションを期待して、原美術館を訪れたのでした。

品川駅からしばらく歩いた邸宅街の一角に、唐突に美術館の看板が見えます。
外観は、広い敷地に立つ瀟洒な洋館という風情。よく手入れされた芝生の庭には、いくつかの屋外彫刻があります。
いかにも玄関という感じの入り口は、靴のままあがっても良いのか迷うほど。 

机一つの木戸番のような受付で入場料を払ーうと、いきなりナム・ジュン・パイクのビデオアートが迎えてくれました。
ただし、「洋館」の玄関先にむりやりモニターを並べた感じがのこるのは、
建物の作りがあくまで「洋館」のままで、「美術館」らしくないからのようです。
(本当にらしくないかについては、後で書く意味で保留せねばならないのですが。)

いくつかの館蔵品がならんだ前室に続くやや広めの展示室の一角に、
大量の黒いスポンジ球が浮遊しているインスタレーションがありました。笹口数の作品です。
チラシに黒丸が無造作に描かれていたのは、このことか、とわかりました。

タイトルは、「three figures [at the tea table]」。そう思って見ていると、
ランダムに並んでいるように見えたたくさんの黒い点が、ていねいにつなげていくことで人体を形どっているように見えてきます。
脚の指先が5個、かかとに1個、くるぶしに2個というような、厳密なルールも定められているようです。

ただし、それぞれの点の奥行きの関係がわかりにくいため、
(たとえば、正面からは腹の点なのか、背中の点なのかがよくわからない。)
ある角度から見たときに、ある体の一部分だけか立体感をもって見えてくるだけです。

したがって、脚の組み方がわかる方向からは腕の動きが見定められなかったりするので、
一体の人物像を完全に把握するためには、その周りをなんども回ることをしなければなりません。
そして、そんな努力を積み重ねて行くと(むろん、そうしなければその作品を楽しめないというわけではないのですが)、
その黒いスポンジ球の集合が、確かに「イスにすわって午後のお茶を楽しむ3人の人物であるように見えてくるのです。

人物像をこうした三次元上の点で再現するというイメージには、どうしてもコンピュータグラフィックスとの関連を思わせます。
立体を点で表現しえるという感覚もそうなのですが、
具体的な人の形を三次元的な座標上の点(データ)の集合体として捉えなおすという作業には、
コンピュータの助けを借りなければ、とてもできない作業なのではないのかと思ってしまいます。 
よしんば、そうでなかったとしても、コンピュータ的なデータ処理の感覚があってこそ、
この笹口数の仕事は成立したといえるでしょう。
つまり、こうした「コンピュータ時代でなければ成立しない感覚」というものを見せることで、
この笹口の作品は、確かに現在でなければ表現し得ない新しさというものを感じさせてくれます。

とはいうものの、創作過程はいたって地味です。
天井と床面に板がすえつけられており、上下を大量のテグスで結ばれています。
個々の黒のスポンジで作られた球はそのテグスに貫かれており、それぞれの定められた高さに浮かんでいます。
球の数だけテグスがあり、テグスの張られた位置と球の置かれる高さという三次元的な座標の組み合わせによって
個々の球の位置が定められ、そのことを何度となく繰り返すことで作品は製作されていきます。
そして、作者がその黒球の座標の計算をしたのと逆の過程を使って、
鑑賞者は黒球のかたまりから人体を再現させていくというわけです。

このような人体は、美術館内に「11人」いました。(と言っても、一人だけ教官が混じっているわけじゃありません。)
他に[at the dining table]として4人、[in the bedroom]として2人、[in the den]として2人。

そこまで見ていると、さすがに気づくところがあります。
例えば、「ベッドルーム」には、あたかもベッドに寝ているような二人の人体があります。
しかも、その展示室は、ちょうどそこが2人の人物のための寝室があったようにしつらえられています。
「ダイニングテーブル」の作品のそばにはサンルームがあって、
そこには、例えばこんな「洋館」では、ひょっとすると本当にこんな食器が使われていたかもしれませんね、と言わんばかりに、
リキテンシュタインのティーセットが展示されているのです。

つまり、笹口数の点による人体は、「美術館」がかつて「洋館」の居宅であったときに
そんな風に使われたであろう姿を再現していたのです。
そう思うと、他の展示作品も居宅であったときの姿をイメージさせる作品が並びます。
初めて来館したので、「洋館そのままの美術館」という想いにとらわれたのですが、
そもそも、この展覧会が「洋館であったころの美術館を意識しながら展示された」企画展であったわけです。

この日は日曜日だったので、学芸員による解説がありました。
上記の発見を裏付ける話と、寝室では暗い部屋の中ではえるように「銀色の球」が使われたとか、
寝室らしくするために(ほとんど展示されたことがない)戦前の日本の具象絵画を並べたとか、
「den=私室」ではリキテンシュタインの赤のドットの室内風景の作品を並べた中に
「赤の球」による人体像を作ってもらった、というような説明を聞きました。
このすこぶる手間のかかるインスタレーションの完成のために、
多くの館関係者が地味な作業を手伝った、という裏話も納得です。

「想影」(おもかげ)というタイトルには、原美術館が居宅としてあった時代を「想う」というところにもテーマがあったようです。
学芸員の解説で見せてもらった当時の写真からは、さまざまな戦前の「お金持ちの日常」を見て取ることができました。
笹口数は、そんな当時の写真を見ながら、当時設置されていた調度のイメージそのままに、
人体像を再現していました。私にもなんとか見えた「座った人物像」の先には、
当時の館の住人であった「原家の人々の生活」という時代を超えたある一瞬の風景もが見通されていたのです。
「in/visible」(見える/見えない)というサブタイトルも、見えるようで見えない昔を想うというねらいがこめられているのでしょう。

廊下には、笹口の別のシリーズが並べられていました。
英文でタイプ打ちされた言葉がいくつも並び、人の顔のように見えます。
学芸員の解説によれば、書かれた英文はすべて化粧品の名前で、
「使用している化粧品の名称(メーカー名、商品名、カラー、品番)と、その使用範囲」を(原美術館関係者に)アンケートして、
そのままに再現したものだといいます。

ナチュラルメイクと思われていた人がけっこうたくさんの化粧品を使っていたり、
改めて見比べることで初めてわかったよく似た化粧品を使った二人がいるのを見ていると、
髪、額、まゆ、目、ほほ、口、あご、と、それぞれタイプ打ちされた化粧品名というデータの集積は、
その人のもう一つの「顔」だというわけです。
学芸員は、ここにもデータから人物を再現しようとする笹口の志向が見て取れるいいます。
作品タイトルに使われている「モデルの星座名」も、
本来無意味な点をつなぎあわせて何かをイメージさせる「星座」という認識方法が、笹口のスタイルと重なるとしています。

他にも、当時の居宅であったときの空間を生かした常設インスタレーションがいくつかありました。
扉の向こうにある細長いUの字カーブの通路(男子小便器があったらしい)や、
壁をやぶった向こうのダクトスペース、あるいは単に屋根裏部屋。
こうした展示になじまないデッドスペースには、
建物と一体化したインスタレーションが「存在」していました(それは、もはや「展示」とはいえません)。 
たまたま「居宅/美術館」という空間のズレを意識させる展覧会であったためでしょうか、
これらの作品もすこぶる心地よく居宅の中に生息している様子で、なおさらに楽しめたのでありました。

はたして、他の展覧会ではどのような空間になるのかと想像しつつ、
美術展を見に来て美術館という空間をしっかり鑑賞したという印象の展覧会だったのでした



   *  東京都品川区の「原美術館」は2020年12月末に閉館し、、群馬県渋川市の「ハラ ミュージアム アーク」を改名し、
    「原美術館ARC」として再出発する。
                
                   原美術館公式サイト             

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